第7話:残された息子と、見殺しにした女

 母親の葬儀が行われた。

 夢を見ている感覚。自分の身体が自由に動かなかった。

 ぷかぷかと、まるで太平洋の海を浮かんでいるような変な気分だ。

 でも、遺体を火葬し、骨だけとなった母親を見ると、嫌でも実感が湧いてくる。あぁ、もうこの世界に自分の大切な家族はいないんだと。


 納骨が終わり、自宅へと戻った苔ノ橋剛。

 一人にしてくれと頼み、親戚の人たちには帰ってもらった。

 たった一人の大事な家族を失い、天涯孤独になってしまった剛。

 彼は、笑顔を浮かべる母親の遺影を見ながら、感情が崩壊する。


(…………僕はお母さんのために何かできたのだろうか?)


 母親が病院に搬送されたと連絡を聞き、現場に向かった。

 しかし、もうその時には既に遅く、母親の最後を見届けることはできなかった。でも、彼女は最後に一言だけ発したそうである。


『……ごめんね。約束破っちゃって』と。


 留まることを知らない涙の洪水。

 家族で過ごした思い出の日々が脳裏に焼き付いているのだ。

 母親と共に過ごした何気ない日常が、次から次へと押し寄せてくるのだ。


「……う、うううっ……うううっ………ううううううう」


 まるで、波打つように。

 小さな波が次から次へと重なり、大きな波へと変貌するように。

 声を漏らして涙を流すなんて思ってもみなかった。

 でも次第に泣き喚いても無駄だと理性が判断し、一つの結論を辿り着く。


(…………お母さんは何のために死ななければならなかったのか?)


 事件の概要は——。


 刃物を持った何者かが鳥城彩花を襲おうとしていたそうだ。

 それを偶然にも目撃した母親は助けに向かい、何者かと争うことに。

 ただ、その何者かと取っ組み合いになり、刺されてしまったそうである。


 未だにこの何者かが誰なのか。

 その謎は解けず、警察は動き回っているそうだ。

 防犯カメラが街の至る箇所に設置されている世の中。

 すぐにでも犯人の特定が起きてもいいはずなのに、まだ見つからないそうだ。


「…………………………苔ノ橋くん」


 物思いに耽けっていた苔ノ橋剛は、今の今まで気付かなかった。

 自分の背後に——女性が居るなんて。

 それも、この事件の一部始終を見ていた女が居るなんて——。


「ふざけるなよ……どの面を下げてここに来たんだよ!! アンタはッ!!」


 鳥城彩花。

 警察が駆け付けた際、彼女はただ呆然と蹲み込んでいたそうだ。

 苔ノ橋の母親が刺された瞬間に奇声を発しただけで、その他は何もしなかったのだ。この女が警察や救急に連絡を早くしていれば……。


「鳥城先生ッ!! アンタのせいだッ!」


 剛は、そう思ってしまうのである。

 この女が仕事の一環としてわざわざ会いに来なければ。


「アンタが僕の家に来たからだッ!!」


 この女が素直に刺されれば、母親は助かったのではないか。


「アンタが僕の母親を殺したんだよッ!!」

「私は……私は殺してなんかない。私も被害者の一人よ……」

「何を被害者ヅラしているんですか?」


 アンタは、と強く呟き、苔ノ橋剛は鋭い目付きで。


「アンタが僕の母親を見殺しにしたこと知ってるんですよ?」


 この女が能動的に動けば、母親は助かったかもしれないのだ。

 自分を助けてくれた人を救うために行動さえしていれば。

 せめて……最後くらいは見届けることができたかもしれないのだ。


「僕は憎い。アンタが憎い」


 犯人は未だに捕まらない状況。

 防犯カメラで撮影されたものには、フードを被った男性が映っていた。

 でも、それ以外の手掛かりと呼べるものも乏しいのである。

 だからこそ、苔ノ橋剛は悶々とした感情をぶつける場所がなく、この事件の関係者である鳥城彩花に当たることしかできないのである。


「先生……どうしてアンタが生きてるんですか?」

「ごめんなさい、ごめんなさい」

「ごめんなさい? 謝るぐらいならさっさと死んでくれよ。僕のために」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

「ねぇ、先生。僕の声が聞こえました? 僕は死んでくれと頼んだんですよ」


 大切な人を失い、自暴自棄に陥っている苔ノ橋剛。

 彼にはもう善意も悪意も道徳心も倫理観も何もない。

 心に宿るのは、自分でも感じたことがないほどの破壊衝動。


「お願いします。私に罰を……罰をください。お願いします」


 鳥城彩花は床に頭を付け、罰をくれと懇願してきた。

 彼女なりにも、罪の意識があるのだろう。


「……先生、アンタに何ができるんだ?」

「何でもしますから……何でもするから……罰をください」

「何でも……? その言葉は本当のことですか……?」

「うん。何だってする。償えるなら……何でもするわ!!」

「なら……誠意を見せてくださいよ。何ができるのか?」


 苔ノ橋剛の発言を聞き、鳥城彩花は正装の上着を脱ぐ。

 躊躇うこともなく、彼女は中に着ていた白のブラウスへと手を掛ける。

 一番上から順番にボタンを開くと、緑色のブラジャーが見えた。

 もうこれは要らないと言った風にブラウスを投げ捨て、お次はスカートへと手を伸ばす。シュルシュルと布の擦れる音が聞こえてきた。

 残す布面積は、ブラジャーとショーツ、そしてストッキングだけになる。


「これでどう……? 私から君への誠意は見せたでしょ……?」

「服を脱いだところで何のことか、僕には全く分かりません」


 某有名大学のミスコン優勝者。

 そんな彼女の下着姿を見ているのである。

 普段通りの剛なら、その姿を目に焼き付けていたはずだ。

 でも、今は全く性欲も湧かない。虚無なのである。


「…………あなたのために性奴隷でも何でもなってあげる。気持ちいいことをいっぱいいっぱい教えてあげるわ。先生、こう見えても技術テクニックに自信あるから」

「…………ふふふふ」

「嬉しいでしょ……? 苔ノ橋くん。童貞な君に女の味を教えてあげるわ」


 得意気な表情を浮かべて、鳥城彩花は両手を大きく広げた。

 こっちに来いという意味なのだろう。

 このまま自分の元に来れば、沢山気持ちいいことを教えてやると。

 そうすれば、今抱える悶々とした全ての感情を抑えられるとでも言うように。


「ねぇ、もう一緒に気持ちよくなって全部全部忘れちゃいましょう」


 鳥城彩花の優しい声に流されるように、苔ノ橋剛は歩みを進めた。

 彼女の目の前で立ち止まり、死神のような眼差しを向けたままに。


「僕は母親の死を決して忘れない。アンタみたいなクズとは違うッ!!」


「………………えっ? ど、どうしてよ!! 苔ノ橋くんは童貞でしょ? 気持ちいいこといっぱいしたいでしょ? それなのに……ど、どうして……?」


 断れる運命など考えていなかったのか、鳥城彩花は口元を歪めて膝をガクガクと震わせる。計画通りにことが進まずに、どうやら苛立っているのだろう。


「アンタの罪意識が消えることを決して許さないからだ」


「……ううッ!!」


「アンタは僕の母親を見殺しにした罪を和らげようとしている。でも、そんなことをしても無駄だ。僕は一生アンタを許すことをしない。アンタは一生その罪を背負って生きていくんだよ。この先アンタが死ぬまでずっとな」


「いやだァ……いやァ……そ、そんなのいやよ……いやいやいやいや……どうして私が……どうして私が……私は関係ない!! 私は悪くないのに……私は悪くないはずなのに……ど、どうしてぇ……被害者なのに……被害者なのに……」


 法律の下では、鳥城彩花を裁くことはできない。

 ただ、彼女は先生という立場上、間違いを犯してはならない意識があった。

 生徒たちの前に立つためには、真面目な人間でなければならないと。

 そうじゃないと、自分は教壇に立つこともできず、立派な先生になれないと。


 しかし——。


 今回彼女は加害者という立場ではなくても、事件に関与してしまった。

 更には、刺された人を前にして、助けを求めず、何もできなかった。

 精神的に疲弊して、何もできなかった。それはありがちなことだが、責任感が強い彼女は罪の意識を感じているのである。どうにかして、贖罪しようと。


「私は何もしていないのに……周りからの視線が怖い。周りにいる誰もが……自分の敵に見えてしまう。自分が死んだほうがよかったんじゃないかって。自分が死んでたほうが、遥かによかったんじゃないかって。どうしてお前はあの人を見殺しにしたんだって……ずっとずっと頭の中で囁かれ続けているッ!!!!」


 苔ノ橋剛に近寄ったのも、鳥城彩花は自分の罪意識を消したかったのだろう。

 唯一残された家族にできることを精一杯行い、この罪悪感を全て消し、記憶の中から忘れてしまいたかったのだろう。でも、苔ノ橋剛はそれさえも許さない。


「先生……アンタはこの罪を償うことなんてしなくていい。死ぬまで、この世で苦しんでください。僕の母親を見殺しにした罪を……これから先もずっとね」


 自分のせいで人が死んでしまったのだ。逆に芽生えないほうがおかしい。

 だがしかし——苔ノ橋は、その救済さえも与えることをしない。


「先生の幸せは、尊い僕の母親が犠牲になったおかげで成り立っている。その罪意識を抱えて生きてください。そして、一人残された息子が一生アンタのことを恨み、アンタの幸せをいつでも壊しにくることを頭の片隅で考えてくださいね」


 鳥城彩花は、この先一生幸せになることはできない。

 罪悪感を抱えて生きる道しかないのである。

 もしも幸せな家庭を築けたところで、その日常は崩壊するのだから。

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