ソフィア_0.1β






 ソフィアは時折、悪夢を見る。

 祖国で起きた出来事を、夢に見る時があった。

 鮮明で、生々しい記憶。


 自宅に二つの火炎瓶が投げ込まれ、全てが炎に包まれる瞬間。


 ちょうど外出していて家に戻るところだったソフィアと、仕事でいなかった両親は無事だったが、VR機を利用していた妹のイングリッドは逃げ遅れ、両足に消えない火傷を負った。

 

 政治家である父親がなぜそんなにも恨みを買っているのか、ソフィアは分からなかったし、父も説明してくれなかった。


 ネットワークを通じて知れたのは、反政府勢力は父個人ではなく、王国の運営に関わる者全てを憎悪しているということだ。


 ヴェスタ連合王国の治安は日に日に悪くなっていって、街中で銃声を聞くことも多かった。

 父の同僚の政治家が突然消息を絶つこともあったらしい。


 父親の決定により、碌に言葉も話せない豊葦原秋津国に亡命したレヴィアタン一家。


 右も左も分からぬ異国。

 葦原語は当然ながら話せないし、読めないし、書けない。

 かろうじて英語が分かる程度のソフィアにとって、秋津国での生活はあまりにも苦痛すぎた。

 父親のツテとコネで入学した学校でも葦原語を学ぶ以外の選択肢はなく、趣味のエタガと幼い頃から嗜んでいた新体操だけが唯一現実を忘れられるような日常。


 退屈な学校生活が三年も続くという事実に絶望していたその時のこと――


『あなたの髪はとても綺麗』


 不意に葦原訛りのルテニア語で話しかけられて、とてもびっくりしたのを今でも覚えている。


 最初は少し話す程度だった。

 そのうち、話す頻度が増えて、一緒にゲームをするようになって、今では一緒にいるのが当たり前になった。

 そして、彼のいない生活は考えられない所まで来てしまった。


 ここまで僅か二ヶ月と半月の出来事。


 ちはる。

 

 みやび ちはる。


 ノートに何回か、彼の名前を書いて練習したことがある。


 宮火 千春。

 みやび ちはる。

 ミヤビ チハル。


 漢字と、ひらがなと、カタカナで、千春の名前が書けるようになった。

 

 気が付けば、家族の誰よりも一緒に過ごす時間が多くなっていた男の子。

 祖国のヴェスタにさえいなかった、最愛のボーイフレンド。


 最近になって、千春が他の女の子と話していると、胸がきゅっと締め付けられるような感覚に陥るようになった。

 「ちはる」と彼の名前を呼ぶと、優先して駆けつけてくれるから、ソフィアはついつい彼の名前を呼んでしまう。

 ソフィアと同様にクラスでは孤立気味だから盗られる心配はあまりしていないけれど、千春は私のモノだと周りに示すように、毎朝彼の頬にキスを落とす。


 毎朝のホームルーム前と、放課後のお別れの時に彼の頬にキスをするようになって以来、ソフィアは強い衝動に駆られるようになった。

 

 ――もっとキスがしたい。


 この前なんか頬に二回もキスをしてしまった。

 本当に無意識で行ってしまったので、気づいた瞬間、顔から火が出るくらい熱く火照ってしばらく治まらなかった。

 徐々に頬から唇の端に触れそうな位置にキスをするようになっていたけれど、これも無意識である。

 自覚したらきっと恥ずかしすぎて死んでしまうだろう。


 遂には、休み時間の何気ない一時でさえも、何気なくチークキスをしてしまった。

 いつも千春に甘えるように、しな垂れかかって一緒にスマートフォンのゲームをしたり、動画をみたりしているので、彼の頬が近いのだ。

 あれだけ近いと、ついほっぺにキスをしてしまう――したくなってしまう。


 千春はお日様のような匂いがする。

 香水やシャンプーのようなものではなく、彼本来の匂い。

 本人に伝えたことはないけど、ソフィアは千春の匂いが大好きだった。


 彼の肩に寄りかかっていると、日向ぼっこしているような感覚になる。


 金色に染まった髪。眠たげな瞳。当人は純葦原人と言っていたが、どこかシャーロット系の雰囲気がある顔の造りをしていた。

 鼻筋の通った高い鼻や、きりっと整えられた眉毛。

 ヴェスタ人から見ても、端整な顔立ちだと思う。

 男子を見下ろすことが多い、長身のソフィアよりも僅かに高い背丈。


 時々、女子に話しかけられているのを見るけれど、千春は適当にあしらってソフィアの隣に居続ける。


 まるでお姫様を護る騎士のように、ずっと傍にいてくれる。


 優越感が凄まじかった。


 これからもずっと、千春と一緒に変わらぬ日々を過ごしていきたい。


 そう思って、夜空の星々に願ったのに。


 ――その願いは叶わなかった。




「■■■■■ ■■■■■■ ■■■■■■■ ■■■■■■ ■■■■■■■■」


 ある日の昼休み。

 千春は長文で何かを喋った。


「?」


 最初は自分に話しかけているのかと思って、ソフィアが顔を上げて千春を見つめる。

 しかし、千春の顔はソフィアとは反対側に向けられていた。


「■■■■■ ■■■■■ ■■■■■ ■■■■■■■■■■」


 どうやら千春は、右斜め前の席にいる女子に話しかけているようだった。

 三人組で仲良く一つの席を囲って、ご飯を食べていた女子の集団。


 分かりやすい単語、簡素な文章で話しかけてくれる普段と違い、千春の言っていることがまともに聞き取れなくて、ソフィアは焦燥感のようなものを抱く。


「■■■ ■■■■■ ■■■■ ■■■■■■■■ !!」


 千春と話していた女子が、激高して叫ぶ。

 思わずソフィアが身を縮めてしまうような、キツイ怒声だった。


「■■■■■ ■■■■■ ■■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■ ■■■■■ ■■■■■」


 怒り狂う女子たちを相手にしても、千春は静かで、冷静だった。


 ソフィアはなぜ千春とクラスメイトが言い争っているのかが理解できなくて、不安で瞳に涙が浮かぶ。


 怒りでいっぱいの表情をした女子が立ち上がり、千春に近づく。

 頭一つ分くらい高い千春の頬を、何の躊躇もなく平手で思いっきり打った。

 千春が大きく仰け反る威力。だが、上手く顔を逸らして威力を殺すのが間に合っているように見えた。


「ひっ」


 突然の凶行に、ソフィアが小さく悲鳴を上げる。

 クラス中が騒がしくなり、皆が緊張した面持ちで千春と少女の応酬を見守っていた。


「きゃあああ!」


 千春が足を前に出し、目の前の少女を強く蹴り飛ばした。

 少女は吹き飛び、机と椅子、弁当箱を巻き込んで倒れる。少女は倒れた時に、弁当の具を頭から被り、分かりやすく悲惨だった。

 明らかにやりすぎな千春の反撃に、蹴られた少女だけでなく、クラスメイトの女の子たちも一斉に悲鳴を上げる。


「■■ ■■ ■■■■■ ■■■■■■■■■■」


 何かを話しながら千春が近づくと、少女が耐え切れずに大声で泣き喚く。

 もう一人、泣き出した少女と一緒に昼ご飯を食べていた友人の女の子が、千春に椅子を投げつけた。

 飛んできた椅子を千春は回避し、目標を見失った投擲物はソフィアの横を通り過ぎて窓ガラスに直撃する。

 大きな音を立てて、窓ガラスが割れた。

 クラスの騒めきがひと際大きくなる。


 千春が椅子を投げた少女に速足で近づくと、その顔を思いっきり殴りつけた。

 今しがた殴られて吹き飛んだ少女も、頬を腫らしながら金切り声のような悲鳴を上げて泣き叫ぶ。

 あまりの仕打ちに、ソフィアは口元を両手で覆って涙を零すことしかできなかった。


 長いブロンドの髪の少女が千春の片腕に縋りついて、凶行を止めるように説得しているようだった。


「■■■■ ■■■ !!」


 更にはクラスメイトの男子数名が、暴走を止めようと怒りの表情で千春を囲う。


「■■■ ■■■■■■■ !!!!」


 その時、ガタイの良いジャージ姿の教師が、教室中を震わせるような怒声と共に、教室に入って来る。

 後ろから、身長の低いレディーススーツの女性教師が続く。


 教師の怒鳴り声。

 女子生徒二名の泣き叫ぶ声。

 クラスメイトのどよめく声。

 溢れかえる廊下の野次馬の声。


 一時間ある昼休みの時間を使い切ってなお、事態の収束には時間が掛かった。


 最後まで平然とした様子の千春と、いつまでも泣き止まぬ女子生徒二名は、教師の手でどこかへと連れていかれる。

 

 当事者のいなくなった教室は、それはもうお祭り騒ぎだった。


 ソフィアは激しい動悸を落ち着かせるように、息を整えていた。


 ショックだった。


 千春が暴力を振るわれたこと、振るったことよりも、一連の出来事の何もかもが理解できなかったことが一番辛かった。

 

 少しだけ冷静になった頭で千春にメッセージを送ったけれど、何も返っては来ない。


 事件が起きたその日は結局、千春が教室に戻ってくることはなかった。

 女子生徒は、椅子を投げた少女だけが戻ってきた。


 千春の鞄が教室に残っていたから、取りに来る可能性に賭けて日が暮れるまで教室に残り続けたけど、彼は戻ってこなかった。


 夜にもう一度メッセージを送ったけれど、千春からはなんの返答もない。


 エタガでも待ってみたけれど、エタガにも来なかった。

 悲しくて、何度も泣きそうになった。


「ちはる……ちはる……」


 自室のベッドで、切なそうに、悲痛な様相で千春の名前を呼ぶソフィア。


 悔しくて、切なくて、悲しくて、ソフィアは枕を涙で濡らす。


 きっと明日になれば、また会える。


 いつもみたいに朗らかな笑みを浮かべて、「ソフィア」と名前を呼んでくれる。

 ソフィアからの挨拶のキスを受け入れて、笑顔を浮かべてくれる。


 タイミングが悪くて、変な風になってしまう日は誰だってある。

 明日からはまた、いつも通り。

 普段の日常に戻っているはず。


 言いようのない不安を押し殺し、千春を想いながらソフィアは眠りにつく。



 だけど、ソフィアの願いは叶わなかった。


 次の日も、その次の日も、次の次の次の日も。


 次の週になっても。


 千春は学校に来なかった。




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