ソフィア11
千春が洗面所の鏡の前に立って早くも二十分が経つ。
黒を基調として、所々に赤い模様がぶちまけられた柄シャツに、同じく黒のデニム生地のワイドパンツを合わせたコーデは、もちろん外行きの装いだ。
時間を掛けて整髪剤で髪を整えて、顔に化粧水を塗って、質素なシルバーピアスを付け、準備を整える。
普段はそこまで支度に時間を掛けないが、デートの時は特別だ。
この時ばかりはナルシズムを全開にして、何度も鏡を見てチェックする。
最後に、入学祝で長女の千夏から贈られたハイブランドのネックレスと腕時計を着けて、革の長財布を片手に外へ出た。
後ろポケットに財布を突き刺して、軽やかな足取りで出雲自然公園へと向かう。
空が荒れることもなく、絶好のデート日和と言えた。
『今から家を出ます』
ソフィアからの報告に、トゲトゲした甲羅を持つ生き物が”OK”と言っているスタンプで返す。
同時に出たのであれば、歩幅の関係で千春が先に到達するだろう。
歩幅の差に加えて、彼女は地図とにらめっこしながらの道のりになる。
二十分後、千春の思った通り、出雲自然公園へは千春が先に着いた。
周りを高いマンションに囲まれているこの公園は、たくさんの緑や、透き通った池に噴水なんかがあるものの、あまり風情は感じられない。
噴水近くのベンチに腰掛けながら、スマートフォンのメッセージアプリを開く。
特にソフィアからの連絡はない。
無事に辿り着ければいいけれど。少しばかりある不安な気持ちで、身体をそわそわさせる。
結果として、その不安は杞憂に終わった。
「ちはる!」
遠くから慣れ親しんだ声が少女の声が、千春の名前を呼ぶ。
「良かった」
千春を見つけ、明るい表情で駆け寄ってきたソフィアは、それはそれは気合いの入った恰好をしていた。
日除けも兼ねた青いリボンの付いた麦わら帽子。ゆったりとした細かいレース付きの白いワンピースは、長身の彼女にも良く似合っていた。高そうな赤いサンダルを履き、小さな黒いポーチを肩から下げていた。
『綺麗』
用意していたルテニア語で、ソフィアを褒める。
「……はい」
ソフィアは恥ずかしそうにもじもじして何かを言いたそうにしていたが、適した葦原語が見つからないようだった。
「行こっか」
千春はソフィアの手を取って、本来の目的地であるカフェへと向かう。
「?!」
さらっと手を繋がれ、ソフィアはびっくりして固まった。
何事かと振り返った千春に腕を軽く引っ張られて、ようやく歩き始める。
もはや分かり切っていたことだが、やはりソフィアからの抵抗はない。
普段の日常と同じく、ソフィアは恥ずかしがるばかりで、嫌悪感は示さなかった。
上機嫌な千春と、ほてった頬で俯きがちのソフィアが、並んで自然公園の中を歩く。
歩きながらのスマートフォンは危険なので、翻訳アプリは使えない。
最近出来た共通の話題であるエタガについても、とてもじゃないが葦原語で語り合うのは不可能だった。
必然的に、二人の間には沈黙が漂うことになる。
だから、千春はソフィアに寄り添って、手を繋いで、それだけでコミュニケーションを取った。
二人とも独り言一つ漏らすこともなく、ずっと無言を貫いていたが、千春はもとより、ソフィアも不思議と気まずさのようなものは感じなかった。
手を繋いでいたから。
歩幅をソフィアに合わせて、肩がくっつくくらいに近くにいる千春が、ずっと楽しそうな空気を纏っていたから。
今日のデート、千春はとても楽しみにしていたが、ソフィアは半分くらい不安があった。
その不安も、あっさり解けてしまった。
バス停でバスを待っている間も、二人の手は繋がれたまま。
バスに乗り込む時に、ようやく結ばれた手が解ける。
ソフィアが財布を取り出し、緊張しながら運賃を払おうとすると、千春に席の方に追いやられる。
千春は運転手に二人分支払うと告げてカードを読み込ませ、ソフィアに断りもせず勝手に二人分を支払っていた。
「??」
戸惑うソフィアを空いている席に座らせ、その隣を陣取る。
色でバスの種類を見分けられるようになっているが、ここら辺は前乗り先払いと後ろ乗り後払いのバスが混在しているので、知らない人からすると混乱してしまうだろう。
説明するのが面倒だったので、手っ取り早く千春が支払った。ソフィアが自分で払おうとしている様子が目に入っていたが、問答無用だ。
バスに乗っている時間は五分にも満たない。
目的地で降車ボタンを押して、千春は再びソフィアの手を取りながら揃って降りる。
「ちはる」
「んー?」
「…………」
「なにー?」
カフェへ向かう途中、ソフィアに名前を呼ばれる。
しかし、聞き返しても口を閉ざすばかり。言葉が見つからないのだろうか。
「トイレ?」
「ちがう!」
トイレではないらしい。
ソフィアがそっぽを向いて、それ以上の会話は無用だと態度で示してくる。
つれない態度とは裏腹に、ソフィアはよりいっそう千春にくっついて歩くようになっていた。
クラスでも、お外でも、千春の傍にいれば安心できる。
右も左も分からない、言葉も分らない異国の地でも、彼の隣にいれば安全。
二ヶ月掛けて――否、たった二ヶ月で、ソフィアの心は千春に染められていた。
これだけ心を侵されていても、ソフィアはあまりにも鈍感すぎて気づいていない。
千春も、自身の存在がソフィアの中でどれだけ大きくなっているか、気づいていない。
千春と手を繋いだ時に感じている多幸感すら自覚できず、彼に身体を擦りつけるように身を寄せているのも完全に無意識だった。
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