陰陽(いんやん)のペルトゥルバーティオー
河合ゆうみ
第1話 19XX年・元関東消滅地区・通称スラムシティ①
一日降り続いた雨のせいで、ヒガン地区一帯はしっとりと濡れていた。
二度にわたる世界規模の戦争と、それを追うようにして襲ってきた未知のウイルス『クエイク』ですっかり見る影もなく荒廃したこの元関東消滅地区は、誰が呼び始めたのか、今ではスラムシティの名で通っている。
その中でも南に位置するヒガン地区の夏もそろそろ終わりだ。
繁華街特有の喧噪の中。
雨がやんでも風が吹いていないから、じっとりとした湿気が鬱陶しかった。
「どうでもいいけど、そろそろ涼しくなってくれないもんかなぁ」
浮かない表情を浮かべているが、基本的な目鼻立ちはきりっと整った青年だ。
年齢は十八。
どこか飄々として、つまらなさそうな、何にも興味を持てないような雰囲気は、この街によくいる、ちゃらちゃらとした若者とそう変わらない。
ただ、百八十センチを優に超える長身といい、細身なのに鍛えられた体つきといい、妙に存在感のある青年だった。
艶のある黒髪は左右アシンメトリーになっていて、少々長めの左サイドは気分によってかき上げたり、そのまま流したりしている。
気だるそうに歩いていた濫枒は薄暗い路地裏に差しかかるなり、つと顔をしかめて足を止めた。
地元の人間しか通らないであろう細い裏道に、人がうつ伏せに倒れている。
「……なんだぁ? 酔っ払い? …いや、違うな」
濫枒は無造作に近づきながら、ちらりと周囲を確かめた。
周辺には誰もいない。
夕食の時間帯を終え、酒飲みたちが本領を発揮し始める頃合い。
そこかしこの店から酔客たちの乱痴気騒ぎが聞こえ、厨房のある裏口からは安酒や料理の匂いがごちゃ混ぜになって溢れる。
そんな目立たない場所に人が倒れているというのは、治安の良くないこのスラムシティで、珍しいことではない。
けれど。
「へぇ……? まだガキじゃねえの」
濫枒が様子を見るため、しゃがみこむ。
ぷんと、血の濃い匂いが漂った。
街灯が切れたまま放置されているのではっきり見えないが、でこぼこした石畳のうえに血だまりが広がっている。
「……ひでえな」
ほっそりとした子供は、全身傷だらけだった。
襟の高く詰まった長袍を着ていたが、あちこち破れて汚れて泥だらけの血だらけ。
「格好からして、うちの地区の人間じゃなさそうだけど」
蒸し暑い夜の血の匂いは、濫枒のトラウマを刺激する。
雨が瀕死の弟から体温を奪い、拭っても拭っても血が流れ、そして息絶える――雨に打たれて倒れていた弟を発見したのも、濫枒だった。
ポケットから携帯用のカードセンサーを取り出し、子供に向ける。
何はともあれ、まずクエイク・ウイルスに感染しているかどうかを確認しなくてはならない。
それは濫枒だけではなく、この世界に生きる人間全員に共通の常識だった。
チェックには、数秒もかからない。
陰性反応が出たことに、濫枒はとりあえずほっとした。
陽性だったらすぐさま通報して、しかるべき施設に移動させなくてはいけないから、非常に面倒なことになる。
「おい、生きてるか?」
頼りないくらい小さな肩をそっと揺さぶってみても、うつ伏せた子供はぴくりとも反応しない。
ただ、かすかに息はあった。
濫枒は苦く舌打ちした。
「ただの喧嘩や殴り合いってレベルじゃねえだろ、こりゃ」
ちょっとしたいざこざに巻きこまれたレベルではなく、リンチに遭ったかのような惨状だ。
「このまま放っておくってわけにも……いかねえよな」
ため息をついて、濫枒は手近な店の裏口のドアを叩いた。
顔なじみの店の料理長が、建てつけの悪いドアからひょこっと顔を出す。
使い古したエプロンで、洗ったばかりらしい手を拭きながら出てくる。
「あれ、メ組の頭。お疲れさま。見回りか~?」
立場上、濫枒はとても顔が広い。
もともと懐っこい性質をしていることもあって、古くからの住民たちは、ほとんどが知り合い状態だ。
「いや、違う。ちょっと明かり貸してくれる?」
「ああいいよ。ちょっと待ってな」
すぐに、恰幅の良い料理長が腹の贅肉を揺らしながら、携帯用の明かりを持ってくる。
すると彼も、倒れている子供の姿に気づいたらしい。
「頭ぁ。あれ、何だ?」
「さあねえ。俺も今さっき見つけたばっかり」
「おかしいな。さっきゴミ捨てに出たときには、いなかったと思うんだが……うわ。仏さんか?」
「まだ息はあるよ」
「クエイクは? まさか罹患者じゃねえだろうな」
濫枒は、先ほど使用したセンサーをそのまま料理長に見せた。
「安心しな。陰性だったから」
「良かった~……! こんなところで感染者が出たら、この一帯の店は軒並み廃業しちまうよ」
「だろうねえ」
料理長に明かりを持たせたまま、濫枒が子供の身体を抱き起こす。
白く小さな顔が明かりに照らし出され、濫枒と料理長は揃って息を飲んだ。
「わーお」
料理長が、ぴゅうっと口笛を鳴らす。
濫枒も、一瞬息を飲んだ。
「……これはまた」
血に汚れ、まだあどけなさが残るが、大層な美少年だ。
このヒガン地区では顔の広い濫枒でも、初めて見る顔だった。
ぐったりして青ざめてはいるが、肌理の整った大理石のような肌に、長く影を落とす睫毛。
その美貌ははっきりいって、異様なくらいだった。
どう見ても十代半ばにしか見えないくせに、閉じたままの目尻や形の良い唇から、青く透き通るような色香が滴る。
「やばいくらい綺麗なガキだな。珍しい服着て……へえ、耳に綺麗な宝石まで着けてるぜ。こりゃあ、どっかの娼館から足抜けしてきた娼年見習いってところかな?」
そういった連中が見せしめのためにリンチを受けることは、この辺りではよく聞く話だ。
「そっち系だったら、痕が残るような怪我はさせないだろ。それに、こんなところに放っておかないで連れて帰る」
「何にしても、カタギじゃあねえわな。どうするんだ?」
この手の騒ぎには慣れているので、料理長も落ち着いたものだ。
濫枒は上半身を起こさせた美少年に、改めて声をかける。
「おい、起きろ。起きて自力でどっか行きな。このままここにいると、生き延びたところで、物盗りか
そう言って、軽く揺さぶる。
美少年は濫枒に支えられたまま、かくりと首を項垂れさせた。
意識は戻りそうにない。
濫枒と料理長は顔を見合わせて、やれやれとため息をついた。
「仕方ねえ……連れて帰るわ」
「え」
料理長が目を瞠る。
「おいおい、頭。いくら絶世の美少年でも、あんたがそんな厄介そうなの拾っちゃって、大丈夫なのか? 久我がめちゃくちゃ怒るだろうに」
「そりゃ、まあねえ……面倒だけど、見捨てておくわけにもいかねえだろ。ま、これも何かの縁ってもんなのかね」
濫枒らしくない重苦しい口ぶりに、料理長はふと思い当たることがあって、表情を曇らせた。
「――そう言えば、今日だったな。
「ああ」
今日は、濫枒の弟が死んだ日。
濫枒が一年に一度、ナーバスになる日だ。
料理長が、明かりを持ったまま腰を屈めて、美少年の顔を覗きこむ。
「懐かしいな。璃泉が生きていたら、ちょうどこのくらいの年格好になっていたかね」
心優しくて、誰からも愛された弟。
無残な死は、今も濫枒の胸に鋭い棘のように刺さったままだ。
濫枒が、美少年の身体を肩に担いで立ち上がった。
ざっと見回すものの、所持品などはないようだ。
「邪魔して悪かったな」
「重いだろ。店の若いやつに手伝わせようか」
「いや、軽いよこいつ」
それから、と濫枒が続ける。
「こいつのことでなにかわかったら、すぐ知らせてくれ。身元でも相手の様子でも、何でもいい」
「ああ、わかったよ。うちの連中にも、何か知らないか聞いてみてやるよ」
「よろしく」
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