第4話 お気楽な悩み 灰色雲の脳占領

 海に来たのは、久しぶりだ。

 もちろん、今年の最初はリノと行った。でも、あれは冬に行ったのだ。だからまだ夏になってからは行ってない。もちろん、リノと。

「意外と人少ないなー」

 セツは薄目で水平線を見やりながら言った。いくら七月とは言え、朝方まで雨が降っていたんだから、海に来る人はいないかもしれない。セツは、カニ食べいこうーとか、鼻歌を歌いながら歩いていた。テレビのCMで流れてた歌。

「おまえ、そのゴミ、どうするんだ?」

 変な顔をしてる。俺は拾い集めた流木を、持ってきたカゴに入れた。いいじゃん別に。これでいいもの作っても、セツにはやらない。

「ほら、スカートよごれる」

 セツは俺の腕をとって立ち上がらせると、スカートの後ろをはたいた。

 今日はスカートが長いから、ちょっと動きづらい。ジーンズを改良して作ったロングスカートは、ポケットの所にバラの刺繍がしてある。あまりロングスカートははかないけど、これはリノも似合うって言うし、お気に入りなのだ。

 サンダルに砂が入ってじゃりじゃりする。

「足、いたい。砂入った」

 俺がそう言ってサンダルを脱ごうとすると、セツは足を押さえた。

「だめだって、この辺ゴミ多いから、ケガするぞ」

「うーーーー」

 砂もいたいけど、ケガはきっと、もっといたい。

 俺はあきらめてサンダルを履きなおすと、波打ち際へ向かった。セツは、片手に持っていたビールをどぼどぼこぼしていた。

 きたない海だ。うそつきの顔をしてる。

 風が水しぶきを運んで、顔をはたく。目をつぶって息を鼻から吸ったら、大嫌いな魚屋のにおいがした。これがなければ海も結構いいのに。あとべたべたの風と。

 振り返ったら、セツが何か砂で作っていた。

「何やってんの」

 大声のつもりが、3メートル先ぐらいのところで風にさらわれて、きっと彼に届いたのはつぶやき程度に違いない。セツはちょっとこっちを見たけど、黙々と作業を続けた。

 俺はどうしてそんなに働くのかわからなくて、波打ち際で風に吹かれて佇んでしまった。

 そんな風にしてまでつくるモノが、どこにあるんだろう。

 よくわからない。どうしてそんな風に、人の言葉を聞き流してまで作りたがるモノがあるんだろう。

 俺は泣いてみようとしたけれど、風がうるさくて集中できず、結局涙は流れなかった。

 セツの所まで走った。セツは城を作っていた。ああ、ビールの缶を立てたら、それだけで飽き足らず、まわりの建物も作り始めたんだな。中心に立つビールの塔を見てそう思った。

 セツは一生懸命、湿り気のある砂を盛り上げながら、ちらちらこっちを見た。

「おまえも、やりたいんじゃない?」

 でも座ったらきっと、スカートを気にするね。セツはそういうやつだ。

「待ってる」

 俺はセツの横で立ったまま、作業を見つめた。

 セツの城は、簡単なものだった。センスのないバランスと、ありきたりな城壁。まさにビールのための城だ。めりはりのない壁は、セツの指のあとがついて、まるで生き物のようだ。

「ようし、完成。雪本青吾作、ビール城」

 雪本青吾。俺はその四文字の漢字を思い浮べてみた。へんな感じがした。俺だって持ってる四文字の漢字が、まるで別の生き物のように感じられた。

 ユキモトショウゴ。セツの方が合ってるじゃないか。

 雪だからセツ。俺がつけた。

 二人でたっぷり一分はビール城を眺めた。それからセツは、俺の方を見た。

「どうぞ。ご自由に」

 セツにうながされて三秒くらい考えてから、俺は足を上げてビール塔に隣接する建物をふみつぶした。右足が砂に埋もれてあたたかい。

「やると思った」

 セツは笑っていた。俺は右足を引きぬいて、今度はビール塔をおもいきり蹴飛ばした。

 缶はへんな方へ飛んでいった。俺は自分の蹴り上げた砂をかぶってしまった。

 ちくしょう、砂のくせに。

 それから二人で城を砂に戻した。ようするに、形がなくなるまでふみつぶしたのだ。

 セツは俺のカゴの中から、またビールを取り出した。俺にはピーチフィズを渡した。苦いのは嫌いなのだ。ピーチフィズの缶は小さくて、にせもののようだ。開ければお酒が出てくるのに、もったいないことをしていると思う。

 でも俺にはこれがお酒でもジュースでも、あまり関係ない。酔ったことがないのだ。酔うほど好きではない。リノ以外の人間と飲むことなんてないし、飲まなくてはいけないことなどないのだ。リノ以外の人間と飲んだのは、セツと初めて会ったときだけだ。

 高校の(たぶん)クラスメイトに頭数として呼ばれたことがあった。どこかの大学の集まりらしかったけど、そんな事どうでもよかったから、よく覚えてない。ただリノに買ってもらったバックを持ちたかったから行ったのだ。その中に財布とハンカチとティッシュと、入れるものがなかったから眼鏡とブルーナのアドレス帳を入れていった。

 そこでセツと会ったのだ。アドレス帳にはYの所にセツの電話番号が書いてあるだけだ。もらい物のアドレス帳は、まだ一度きりしか使われていない。

 ピーチフィズはすぐに終わってしまった。

 スチール缶は、持っていてもつまらないから砂に埋めてしまおう。穴を掘って落とすと、セツも入れた。

「それ、アルミ缶だから、つぶして遊べるよ」

「俺はやんないの」

 セツはさっさと穴を埋めてしまった。俺はカゴをその場において、埋められた穴のところが、他の所と違う色になったのを見ていた。波打ち際まで走ろう。

 俺は突然っぽく走りだした。本当は、波打ち際まで行くつもりが、何となく、海の中まで入って行ってしまった。

「セリカ!」

 セツは大声を上げた。ずるい。俺の声は風に飲まれてしまったのに、セツのはどうしてうまく運ばれるんだ。

 スカートが水分を含んで重くなって、水圧でうまく歩けない。サンダルが脱げそうになって足を取られて、たおれるーと思ったら、セツの腕が支えていた。

「セリカっ」

 お前、さっきから名前しか呼んでないよ。背中から強く抱きしめられる。

 ごめん。セツは本気で心配してる。

「だいじょうぶ、ちょっと、海がゼリーみたいだったから、試してみただけなんだ」

 実際、足に当たって波が弾けなければ、ふるえるゼリーのように海は寝ているのだ。

 セツが心配してくれたのを、とても心地よく感じた。こいつ、俺のこと、どう思ってるんだろう。はっきりと表す言葉がない。だから、たぶん、彼氏と彼女なんだろうな。そんなの、ただの三人称でしかないはずなのに。

 セツは今、何も考えてない。何も考えずに、俺のことを抱きしめているんだ。俺は遠い水平線を見ながら、たかだか線で、この世の全てができているのがバカげてると思った。




 本物の親というのは、どういうものなんだろう。

 産んでいれば本物だろうか。育てていれば本物だろうか。血が繋がっていれば本物だろうか。

 じゃあ産みの親が再婚した相手は、偽物だろうか。血が繋がっていても、離れていたら偽物だろうか。血が繋がらない育ての親は、偽物だろうか。

 でもこれは、幸せな人間に聞いても、わかることじゃない。それなりに不幸な所にあって、それについて思い知らされた者にしか、わからない気がする。

 俺の場合(俺はあまりそう思わないけど)親がいないってとこで不幸ってのはあってるかもしれないけど、思い知ったことはない。

「また、何考えてんの?」

 セツはアイスティーをちびちび飲みながら言った。

 だめだ。セツに聞いたって、わかることじゃない。

「なんでもない」

 俺はウインナアイスティーの生クリームをつついた。変な飲み物だ。セツは振り返って、さっきまでの俺の視線の先を見てから向き直った。

「両親のこと?」

 こいつはたまに、カンがいい。セツのちょうど後ろには4人家族が遅いランチに盛り上がっていた。

「ちがう」

 しゃくだから否定してみたけど、きっとセツはわかってるな。

「リノが……たぶん、リノが、俺が寝つくまで、体をさすっていてくれたことがあったんだ。いつだかわからないけど」

 急に思い出した感覚。腕をさする、あたたかい手。

「それが、なんかすごく気になるんだけど、なんでなのかわかんなくって」

「はー。でもよく、母親が子どもを寝かしつける時にやらない? それ」

 そう言えば映画で見るかも。そういう記号だったのか。でも俺の所じゃありえないな。

「案外、それ、リノちゃんじゃないかもね」

 ! 何を言うんだ。リノ以外に、誰がするって言うんだよ。

「そんな事、ない」

「そう?」

 セツは、母親の記憶だと思ってる。そうじゃない。母と暮らしてたことは三歳の誕生日からはっきりと記憶してる。だから、まちがいじゃない。母はそんな事していない。

 思い出はいくらでも風化するのに、記憶はいつまでも残るのだ。

 誰も、欲しくないのに。

 これ以上、セツに言ってもムダだ。セツは幸せなのだから。

「この後どこにも行けないなー」

 セツは窓の外を見ながらつぶやいた。どこにも行けないというのは、天気のことで、セツは濡れたズボンを気にするようなやつじゃない。

「雨か」

 外を見ると、少し暗くなった空は、にわか雨程度の雨を降らせていた。

「今日は俺もジーンズだし、セリカとペアルックなのにな」

 セツは白いTシャツにジーンズ。俺の部屋着だ。外に出るのにもう少し考えて着てくればいいのに。でもセツには合ってる。こいつのよそ行きなんて、たかが知れてるし、セツにきれいな格好はあんまり似合わない。

「そうか。気づかなかった」

 俺はそう言って、うれしそうなセツからグラスに目を移した。

「ごつ」

 セツのげんこつが、頭にふれる。自分で効果音を言って、セツは俺の頭にふれたまま恨めしそうな頻をした。あ、シャツも持ってたか。なんか、へなちょこな柄のシャツ。

「このシャツ、高かったんだってば」

 わかったわかった。俺はもうほとんど溶けた生クリームをぐりぐりまぜた。

「おなかすいた」

 口に出したら、本当にお腹が空いてしまった。

「え、じゃ、じゃあ、ピザでも食うか?」

 何か、焦ってる。ああ、俺がへんな顔してたからか。空っぽの胃は無意識に、俺の表情をへんなものにしていた。そんなに情けない顔だったかな。

「うーん、ちがう所に行こう。ここじゃ、あんまり食べたいのがない」

 でも本当は、お腹が空いていただけで、何が食べたいのかはわからなかった。

「そうか。じゃ、そろそろ出るか」

 セツはそう言って、さっさと立ち上がろうとした。

「え、」

 俺は目で訴えた。頼んだものを残したまま出るのはイヤなのだ。俺のグラスには、まだウインナアイスティーが三分の一ぐらい残っていた。

「あ? ああ、」

 セツはまた座りなおして、自分のちょっと薄くなったアイスティーを少し飲んだ。俺のウインナアイスティーは、アールグレイのアイスティーに生クリームがのっている。

「こないだねー、新メニュー考えた」

「何?」

「あのね、ホットティーにバニラアイスを浮かべるの。溶かしながら飲むんだよ」

「ウインナコーヒー?」

「うん、生クリームわざわざ作るのめんどくさいから。コーヒーでもやるよ」

「コーヒー、飲めたっけ?」

「イタリアンなら。豆がまっくろで苦いけど酸味がなんにもないの。エスプレッソとか作るやつ」

「ヘー、今度飲ましてよ」

 セツが俺のアイデアに賛同してくれて、俺はうれしくなった。顔が笑ったまま、ストローを吸っていると、セツも笑っていた。

 二人で笑っていた。

 何かおかしくなって、そのまま二人で声を出して笑いだした。

 セツの後ろの家族が、変な顔で見ていた。関係ない。

 俺も、幸せなのかもしれない。




 風が強くなってきた。

 セツが大学の知り合いから借りてきた車は、国産のまるっこい車だ。俺の趣味じゃないけど、まぁいい。

 ボンネットにすわって、さっきコンビニで買ったおにぎりを食べる。

 ここからは、さっきの砂浜が見渡せる。駐車場のすみに止めた車は、あと少しで砂浜へ転がり落ちてしまうほどギリギリの所にあって、ボンネットの上では、まるで空中に座ってるようだ。

 さっきの通り雨は、ざわついた空気を落ち着けて、今通る風はすがすがしいにおいがする。

 セツのシャツのにおいに似てる。

 目を閉じて大きく息を吸うと、そのまま後ろに倒れる。

「何、やってんの?」

 ジュースを買いに行っていたセツが帰ってきた。俺をのぞき込む。

「どうかした?」

「……どうもしない」

 自由であることが、ちょっと淋しくなった。この体に、空気と風しか触れていない事が、ものすごくもどかしい。両手を握って、目に押しつける。泣いてはいない。

 セツの気配を感じる。

 セツの気配は、ゆっくりと俺に近づいてくる。セツの優しい手が、さりげなく俺の両手をどかした。俺は目を閉じたままでいる。

 セツのキス。

 必ず、触れる直前に止まる。でもそれは躊躇ではなくて、今まで唇が乾いていた事に気づいて少し唇を湿らせる間なのだ。

 セツは絶対に、体重を相手に感じさせない。今だって、両手をしっかり俺の傍らについて、まるで浮いているようなキスだ。無重力のキス。

 そして、さりげなく離れる。離れるときも、なんとなく、止まる。それは確実に躊躇なのだ。そしてたいてい離れた後に、おでこを当ててくる。

 セツのキスが、あまりにもいつも通りなので、おかしくなってしまった。

「ぶう」

 セツが笑いだした俺にそう言った。ぶう。

「何が、ぶう?」

 俺はあるはずもない意味を聞く。本当におかしい。

「お前、梅のおにぎり食べただろ」

「え?」

「梅の味がしたぞ」

 キスは梅の味。何だ、考えてみれば、おにぎりは梅とシーチキンしか買ってない。傍らのシーチキンのおにぎりを見て、種明かしがバレた。

「うそつけ」

 でも、本当だったらどうしよう。ちょっと不安だから、口にした言葉は負け借しみに似てる。セツは答えないでほほえんでいた。俺は体を起こして、俺に背を向けて車によりかかっているセツの背中を見た。俺から見れば、結構広い。

 男の背中ってのは、女からくらべると、想像もつかないほど広い。広いっていうか、大きい。大きいっていうか……何だろう。何か違うのだ。形や、そういう事じゃなくって、リノでは持てない何か。

 リノは確かに、俺をつつんでくれる。それは大きいからじゃないし、広いからじゃない。

 俺はそれを素直に心地よいと思う。セツとは違う。でもセツには、リノにはないモノもあるのだ。リノにできない、何かがある。でもそれが何か、わからない。

 俺はセツの背中に触れてみた。

「? なんだ?」

 あ、やばい。きっとセツは誤解した。いつも以上に優しい声。気持ち悪いほどだ。

「何も。セツ、気持ち悪いぞ。そういうしゃべり方、するなよ」

「変だった?」

 うん。俺は大きくうなずいた。

 愛されてるって、自信に満ちた声だ。そんな事、あるはずないのに。

 もちろん、普通は友人とキスしないし、友人とセックスしないだろう。でも、それは普通だからであって、俺は違う。異性じゃなくて同性を愛する分、普通じゃないのだ。これは普通じゃないから、言葉にしてはいけないことだ。

 セツと付き合うように言ったのは、リノだった。俺はリノ以外の、誰かと付き合うなんてした事がないから、リノが勧めるならそうすればいいかと思ったのだ。

 それが、セツとの関係の答えになってるかどうかはわからないけど、少なくとも、俺の愛してるのは、セツじゃなくてリノだ。

「……マシュマロ食べたい」

「げっ、俺何度も買いにいくのやだよ。家に帰る時、買ってけよ。どっか寄ってやるから」

 ああ、俺、今マシュマロ食べたかったのか。ふーん。考える前に、言葉が出てしまった。

 セツは買ってきたエスプレッソの缶コーヒーを飲みながら、おにぎりを食べていた。シーチキンとエスプレッソ。ぜったい味が合ってない気がする。

 俺はスプライトの缶のプルトップに指をかけようとしたまま、またぼんやり空を見た。脳みそが、いろんな考えを押しやって、全面に、まだ少し雲の多い空を写そうとしている。

 カメもこんな風に、考えられなくなることがあるのかな。

 気がつくと俺は、スプライトを振っていた。じゃかじゃか思いきり振って、突然開けた。

「うわ!」

 セツが本当に驚いた声を上げて振り返った。ぬれた。

「おまえはーーーー」

 セツが何か言うけど、もう俺の脳みそは空を写しきっていたのでよく聞こえなかった。

 そのまま、またボンネットに寝転がった。スプライトは、どぼどぼこぼれてボンネットを泳いでいく。閉じかけた目に、セツがあわててスプライトを処理しようとしているのが見えた。今日はセツの所に泊まろう。

 何となく、そう考えた。セツは一日、いい奴だった。セツのにおいの風が、体をかすめて通り過ぎていく。

 今日はセツのシャツを着て眠ろう。

 車の音が途切れた瞬間、遠くで波の音が聞こえた気がした。

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