第2話 行き先のない幸せ

「セリ、手紙来てるわよ」

「手紙?」

 セリは何のことかわからないといった声を出した。私だって、セリに手紙なんか来たら驚いちゃうけど。

「はい」

 セリに渡すと、何だ、といった顔をした。

「これは手紙じゃなくて、お金」

 そう言って茶封筒をローボードに置くと、また元のように寝転がって透明なソーダ水の泡を眺めた。セリが気に入って買ってきた薄い緑がかった色のコップは、内側からぼこぼこと不揃いの大きな泡が飛び出たようなモノだ。

 まるで普通にコップに空気を入れまちがえて、いぼができたようなのだ。セリはその突起の分、飲み物が多く入って得だと信じている。そしてそのコップで炭酸水を飲むと、わき立つ泡がそのいぼに溜まるのがたまらなくおもしろいらしい。

「今日は、何飲んでるの?」

「ラムネ」

 そう言えば、近所に小さなお菓子屋さんがあったっけ。でもセリがそんな所に顔を出してるとは。

「いつからごひいきなの? そのお店」

「ちょっと待って」

 セリはどうやら今眺めている泡が水面に無事到達しないかぎり、観察をやめないらしい。

「早く飲まないと、炭酸抜けて不味くなっちゃうよ」

 セリは顔を上げる。変な顔をしてる。ああ、そうか、という顔をして、初めてコップを手に取る。飲む気なんてなかったんだ。両手でコップを持って、二、三口飲んでから、これでいい? という風に私を見た。

 しょうがないから、笑って応える。

 両手いっぱいに抱いてた洗濯物を、一度手近な椅子の上に置いてカゴを探す。いつもある所に見当らなかったからだ。疑うわけじゃないけど、たいていセリが遊んでる。

「セリ、カゴ知らない? 洗濯物のカゴ」

「あ、」

 そう言ったけど、セリに動く気はないらしい。手のなかのコップを眺めたままだ。

「セリ」

 眉間にしわを寄せて、迷ってる。いったい何を企んでいたのか。

 セリはそのままの顔で立ち上がり、私の横をぬけて寝室へ向かった。

 しょうがないから、たまった洗濯物を仕分けにかかる。古びた二層式の洗濯機は、先に仕分けておかないと洗濯物が絡まって大変な事になる。全自動の洗濯機欲しいなあ。

 休日に気持ち良く晴れると仕事が増えて困る。本当なら一日中ゴロゴロしてるか、セリとどこかへ出かけたいのに、そんな時に限ってすべき事をいくつも思い出すのだ。

 体が勝手に洗濯物の仕分けをしてると、セリの物はほとんど同じTシャツなのに気づいた。ヘインズの薄手のやつだ。

 出かけてないのかな? もちろん、セリは昼間は働かない。どうしてかは自分でもわかっているらしい。今はこのマンションの上の階に住む、面倒見のいいバーのママさんに気に入られて皿洗いなんかをやっているのだ。週に何回か夜出かけていく。でも昼間出かけるときは、必ず私が見立てたよそいきを着るのだ。決してTシャツで出かけない。Tシャツは、部屋着とバイト着でしかないのだ。今回の洗濯物には、よそいきの服は見当らない。

 何やってたんだろ。

「はい」

 セリがカゴをかぶってやってきた。大きめのカゴに肩まですっぽり入って、ちょっとつまらなそう。

「何やってたの?」

 カゴを受け取ると、まだ眉間にしわを寄せたままのセリは言葉を探していた。

「……犬を、飼いたいなって」

「犬?」

「うん」

 犬と洗濯カゴに何の関係が。犬用のベッドかな。

「ここ、犬飼えないのよ」

「じゃ、カメでもいい」

 カメ。どうして犬からカメに。セリに生きものが飼えるとは思ってないけど、どうしてそんな事いきなり思いついたのか。

「犬は昨日、お菓子屋のがへんな顔したから。カメは、きっと俺より色々考えるから、俺も楽になると思ったんだ」

 セリは私の顔を見ただけで、そう答えた。

 この娘は、人が考えたことを感じることができるのだ。ただそれを処世術として利用できてはいないけど。むしろ口にしてしまうことで、さらに距離を置かれてる。

「でも、たぶん無理よ。しかられちゃうわ」

 洗濯機の水を出しっぱなしで回して眺めているようなに、生きものは扱えない。

 セリはあきらめていぼのコップの所へ戻っていった。私も仕事に戻ると、ビリビリと音がして彼女はさっきの封筒を開けていた。

 中身はたぶんいつもと同じ、三十万円分の小切手。セリの生活費だ。手紙は、まず入っていない。

「また日付入ってない」

 小切手に日付が入ってないと、ダメなんだっけ?

「そっと入れちゃえば?」

 私が言わなくても、セリはすでにペンを取って「一九九七年五月……」とか言いながら日付を入れていた。

「母、字が下手になった気がする」

 封筒の宛名には、小泉芹夏と佐々木李野と二人分の名前が並んでいた。

 セリの親は、全て知っているのだ。

 その上で私の事を、セリの保護者のように思っている。

「そんな事ないと思うよ」

 洗濯物を置いてセリに近付くと、小切手と封筒を別々に見せてきた。

「でも、父のがうまくない?」

 セリは両親を、父、母と呼ぶ。それも、本人に向かってだ。それがまた、セリを両親から他人のように引き離す。まあ、半分は当たってるけど。

 セリのお母さんは未婚のままセリを産んで、数年前に再婚した。セリは再婚と同時にこのマンションを与えられ、一人で住み始めた。セリと幼なじみの私が就職して部屋を探している時に、セリのお母さんは私に同居を勧めてきたのだ。

 セリはこの部屋で毎日何もしないで暮らしていた。何もしないっていうのは仕事とかそういう事じゃなくって、本当に何もしていなかった。部屋の中でケーブルテレビの映画を延々見て暮らしていたのだ。好きで見ていたのかどうかもわからない。

 私が同居するようになって少しは外にも出ていくようになったけど、相変わらず両親とは会ってないみたい。彼女の口振りからすると、再婚時から一度も。

「どっちもキレイな字じゃない」

 ちょっと辛くなって、さっさと洗濯物に戻る。

 仕分けした洗濯物を持って洗濯機に向かう。何が辛いのかなんて、言葉にできそうにない。

「ねえ、すすぎの時、手入れててもいい?」

 セリは期待いっぱいの声で、背中に呼びかけてきた。

「ダメ、危ないから。水遊びはベランダでリセとやって」

 ため息を吐いて振り向くと、セリはそれは名案とばかりに日を輝かせて、何やら支度をしに出て行った。

 何でも楽しもうとするセリと、疲れた自分がおかしくて、笑ってしまった。




 午後になって、突然の来客があった。

 彼は手みやげに、プリンとレアチーズケーキと柿の種を持ってきた。

「ここのケーキ屋、うまいんだって。俺はわかんないけど」

 そう言って、にこにこ笑いながらケーキの箱を差しだした。

 セツくんは好青年だ。まるで絵に描いたような。ちょっと暗い顔を見せたと思うと、それを吹き飛ばすような明るさで振り返る。そこがまた、いい。

 だいいち、一から十まで明るい人間などいないのだ。

「セリカがさー、リノちゃんはレアチーズが好きってうるさいのよ。もう、来るとき買ってかなかったら、家に入れてもらえないんじゃないかってくらい」

「そんな、気にしなくてもよかったのに」

 セツくんは、セリをちゃんと名前で呼ぶ。一度私の真似をしてセリって呼んだ事があったけど、セリが無言で睨んだからやめてしまった。

 居間に入るとセリは国語辞典を読んでいた。セリの趣味なのだ。辞書ならたいてい何でも面白がって読む。変わってるのかもしれない。

「セツ、酢油ソースって、何かわかるか?」

 セリはセツくんを見ないで言う。

「酢油ソース? 何だそりゃ、わからん」

「フレンチドレッシング」

「……はぁ?」

「本当に載ってるの? そんな事」

 セツくんは、辞書を閉じたセリの近くに座った。私はお茶を入れにかかる。

 二人を見てみたけど、何もしないでぼーっと座っていた。この二人には彼氏と彼女という雰囲気がない。セリの言うようにその気がないだけではなくて、何となく同性愛のカップルに似てる。相手の存在を楽しんで、満足してるようなのだ。

 セツくんと付き合うのを勧めたのは私だ。セリが私以外の人間とまったく関わっていなかったから、セツくんからの連絡があった時に飛びついてしまった。

 ……もちろんセリに私以外の人間が触れるなんてって嫉妬もあったけど、正直、続くとは思っていなかったところはある。私の予想に反して二人の関係は続いている。

 私がこんなことを考えるのはちょっと変だけど、二人はそのままで幸せそうだ。ただ行き場がないように思えるのは、やっぱり同性愛的に見えるからなのか。セツくんが体いっぱいでセリのことを愛してるって宣言するのなら、絶対勝つ自信があるのに、こんなんじゃ私とセツくんとどっちがセリに近いのかわからない。

 私が嫉妬に狂わずにいられるのは、聞く度にセリが否定してくれるからだ。セリが好きなのはセツくんじゃなくて私だと。

 私は時々、わざとセツくんの事を聞く。

「リノー、セツ、ラムネ飲みたいみたい。買ってくる」

 目線が泳いだままのセリはそう言って、よいしょと立ち上がった。セツくんは、あれって顔をしてる。どうしてわかったんだろって。

 お金を渡すと、セリはそのまま寝室へ向かった。

「ラムネで柿の種食うと、結構くるっスよ」

 そりゃそうだろう。セツくんはおもしろそうに笑った。でも、もうお茶ができるのに。

 胸に小さなパンダの刺繍がしてある黄緑色のチビTに、膝丈のデニムのスカートを履いてセリが出てきた。私がおしりの所にミッキーマウスのワッペンをつけてあげたやつだ。

「お茶ねー、アイスティーにして。アールグレイでしょ」

 香りでわかったのかな。それだけ言ってセリは出て行った。

 セツくんは、ソファによりかかって大の字になっている。セリと一緒でソファに座らないのだ。たまに辞書をめくってみる。でもすぐに飽きて閉じてしまう。

 何だかおかしい。セリがいれば何にもしないでも平気なのに、いなくなったとたん落ち着かない。セツくんもセリでできているんだ。

 お茶の作り溜めをしながら、ちょっとうれしくなった。

「セツくん、今日は何で来たの?」

「理由? うーん、いつもないんだけどね。セリカに会いにきた、とか? そんなクサい事は言わないけどさ、顔が見たかったんだ。ホントに。二人の顔が見たかったんだ」

「二人の?」

「うん。リノちゃんと、セリカの」

 変なの。セツくんが好きなのはセリなのに。私の顔までまとめて見てどうするのよ。

「えーと、あのね、二人がいっしょにいるのって、何か安心するんだ。うーん、何て言うのかな、リノちゃんがセリカのことわかってるから、まぁだからって俺がセリカのことわかってるわけじゃないんだけど……そんなとこだ」

 セツくんは、私の顔を見て、そう説明した。

 私、そんな変な顔してたのかな。でもそれは私から見て二人が幸せに見えるのと、似ているのかもしれない。セリは中性なんだな。どちらから見ても、同性愛的なんだ。

「私も、そう思った。セツくんとセリを見てると安心する」

 出来上がったアイスティーを三人分、グラスについで持っていく。

「セリカ、どこまで行ったの?」

 彼はケーキの箱を開けている。

「ここ、おりたすぐの所に駄菓子屋さんがあるの。たぶんそこだと思う」

「え、じゃあ、ラムネってビー玉の入ったやつ?」

「そう」

「うわー、なつかしいじゃん。早く帰ってこないかな。俺あのビンの方が、ラムネってうまいと思うんだよね」

「私、あれだと飲めないのよ。飲みにくいでしょ」

「えー、」

 彼が明るい声を上げたとき、セリが茶色い紙袋を抱えて帰ってきた。

 ところどころ、濡れてまだらになっている。

「ただいま。あそこで開けると持って帰れないから、栓抜きもらった」

 セリは、水色のプラスチックの簡単な栓抜きを見せた。

「やらせて、やらせて」

 セツくんは、喜んでる。

「だめ。リノのアイスティーが先」

 セリはそう言って、冷蔵庫にラムネを冷やしにいった。こういうところが、セリは優しい。セツくんには悪いけどちょっと優越感だ。でもセツくんは、あ、そうかって顔をして、ケーキを皿に移す作業をはじめる。彼も優しい。もう、ちょっとはふてくされてくれれば、私も空回りしないですむのに。二人とも、私よりずっといい人なんだ。

「俺さ、こういうお菓子の美味い不味いってわかんないんだけど、どこが違うの?」

「え、それは……」

 難しい質問だ。女の子にそれは、ちょっと愚問かもしれない。

「ねえ、またおもしろいの見つけた。これ」

 セリが指した辞書のページには『よう』とあった。

「ここ、ここの用例」

「『そんなに殴りたいというなら、一つ殴られてみじゃないか』」

「だれが考えたんだ、その用例、」

「この前ねー、この辞書の第四版を立ち読みしたらね、プリンの説明がね、グレードアップしてた」

 辞書を立ち読みしたのか、セリは。

「これだとね、『洋風の、ぶよぶよした生菓子』なんだけどね、」

「なんか、まずそう」

「うん、第四版には『ぷりんぷりんした洋菓子』になってた」

「プリンだけに、ぷりんぷりん……」

 セツくんは笑ってる。

「やー、なんか、金印一京助なんかが、真面目な顔してこれ書いたかと思うと……ぷりんぷりん、」

 セツくんは笑いをかみしめながら、キッチンヘ行ってガムシロップを持ってきた。そうか、彼はシロップを入れるんだった。

「あ、プリン、焼きプリンだ」

 セリは、さっさと食べはじめた。セリを待っていたようなものだから、本当ならちょっと許されない事だけど、本当においしそうに食べてるからいいにしよう。セツくんはアイスティーのストローをもてあそびながら、うれしそうにセリを見てる。そんな二人を私が観察してるのも何か変だけど。

「うまいうまい」

 セリは、わざわざ私に向かって言った。買ってきたのはセツくんなんだけど、きっと私が食べるのをうながしてるんだな。

「本当、おいしい」

 何がおいしいのかは、やっぱりわからない。でも、おいしいのは確かなことだ。

 それはどこか、わたしたちに似てる。幸せなのは確かなことだけれど、なにが幸せなのかはわからない。三人の上を流れる空気が、心地いいことを誰もが知っていながら、それがなぜかを知らない。行き場のない想いだけが、ぐるぐると三人をとりかこんでる。

 その均衡を、私は崩そうとしているのだ。

 バランスのとれた形を、私だけが乱そうとしている。三人で幸せなのに。三人に足りないのは、その行く末だけなのに。何を求めてるんだろう。

 そうか、ケーキがおいしいのは、この三人で食べているからだ。

 一人で食べたって、こんなにおいしくはならない。それなのに。

「わかった」

「え、何が?」

 セツくんが聞く。

「ケーキのおいしい違い。好きな人達と食べるから、おいしいんだ」

「あー、そうか。わかるわかる。そりゃ、何でもそうだよ、うん」

 セツくんはそう言って、自分の分のプリンを食べた。彼は納得したようだった。

 気がつくと、セリが私を見てる。

 あ、読まれてしまう。

「……新しいケーキを試すのも、必要だと思うけど」

 セリはそう言って、なおも私を見続けた。そういうセリは、プリンしか食べないくせに。

 セリの視線が辛くなってケーキに日を落とすと、レアチーズケーキの自さに驚いた。

 こんなに白かったっけ? ああもう、泣いてしまいそうだ。

 そのあとはセツくんの言うように、柿の種を食べながらラムネを飲んだので、口の中がヒリヒリして、見上げた空があまりにも青くて、何だかいつもより疲れてしまった。

 セツくんは帰り際に、今度から柿の種とラムネはやめましょう、と言った。

 彼は優しいのだ。セリは彼を送った帰りに、私の知らないケーキを買ってきた。セリは優しいのだ。

 その夜はめずらしく、セリよりも先に寝付いてしまった。

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