スケルツォ
さい
第1話 きっといつまでも同じ日
リノのつくるパスタはおいしいと思う。
リノはいつも、いろんなソースを考えて何でもパスタにかけてしまう。もしかしたらそういうパスタ料理があるのかもしれないけれど、俺は知らないから、それはリノのオリジナルパスタだ。今日のはサラダになっていて、イタリアンドレッシングがかかっている。セロリのみじん切りが入っていて、時々にがい。レタスの芯のところを思いっきり噛んだら、汁が飛び散ってしまった。
彼女はいっしょうけんめいにしゃべっているから、俺は視線をそらさずに、ナプキンを探す。昔、つき合っていた男の話をしているのだ。
本当は、あんまり開きたくないけど、リノの事をもっとよく知るために、テキストとして聞いておこう。女の俺には、わからない事もあるのかもしれない。
「でね、そいつ、クリスマスはバイトが入ってるって言ったの」
うん、うん。俺は目でうなずく。リノのパスタはぜんぜん減ってない。
「どこに彼女を持っていながらクリスマスにバイトをいれる奴がいるの! もうそれで冷めちゃったってわけ。クリスマス後に電話でどっか行こーって言ってきたけど、今さらね。それで自然消滅」
「ふーん。リノは、そいつの持ち物だったのか」
「ちがうわよ。だから、うーんと、持ち物じゃないから、独立できるんじゃない」
俺の言葉は、よくヒトを悩ませる。でも、リノはいつも答えをくれる。
リノがくるくる、きしめんパスタをフォークに巻くのを見ながら、俺は、そうか、と納得していた。手元を見たら、さっき飛び散った汁がシャツにしみをつくっていた。ヘインズだから、べつにいっか。バイト着にしてしまおう。
「それより、今日のパスタ、どう?」
自分だって、ちょっとしか食べてないのに。ほとんど終わりかけた俺の皿を見てから、俺は話の間中、パスタしか食べてなかったのに気づいた。
「おいしい。リノのパスタ、いつもうまい」
「ふふー。よかった。でも他のも食べてよ」
「うん」
他のは、ポテトとひき肉のグラタンと、なすとかにんじんの入った煮込み。
ラ・タ・トゥイュというらしい。名前で食べるわけじゃないけど。フランスの料理なんだそうだ。フランス語だったのか。
「セツくん、元気?」
リノはいつも、セツをセツくんと呼ぶ。あだなに『くん』づけなんて、何か変だけど。いきなりそんな話題を振ったリノを、俺は見ないで返事した。
「さあ、死んではいないでしょ」
「何か、冷たいなぁ」
明るくそう言うと、彼女はひじをついたまま、フォークの先でレタスをもてあそんでいた。ちょっとリノを見たけど、別に変な意味はないようだ。俺といえば、ラ・タ・トゥイュのにんじんをどかすのに集中していたのだ。
「別に、何とも思ってないし」
軽くそう言ってから、ちょっと考えた。変な意味は、セツじゃなくって、リノにあるんだ。
「セツくん、それじゃかわいそうねー。セリにべたぼれなのに」
リノの食事は進まない。
「俺が好きなの、リノだけだから」
「……知ってる」
「じゃ、言うなよ」
少し、腹立ってきた。煮込みの汁のついたままのフォークを机に置く。ランチョンマットが汚れる。お気に入りの群青色のやつなのに。もう、にんじんも煮込み汁もキライだ。
「ごめん」
「リノ以外のやつなんて知らないよ。俺には関係ない」
「だから、ごめん。本当にそういうつもりじゃなかったの。セリを怒らせるつもりじゃ、」
「じゃ、何?」
俺は手でレタスを食べた。煮込み汁のフォークが嫌いになったのだ。でもそのかわり、手は油でべタベタになった。
「…………私、結婚してみようと思うの」
リノは、俺を見ていた。返答を求めてる。ああ、やっぱりそうか。おかしいのはリノで、リノはちっとも悪くない。
もちろん俺の中には、たくさんの言葉が渦巻いていた。どんな奴なの? やさしいの? かっこいい? どれぐらい知ってるの? リノのこと、愛してるの? リノも、愛してるの? 俺より好きなの?
俺は、どうするの?
でも、口に出てくる勇気は、一つとして持っていなかったらしい。
「そう」
俺はリノの持ったフォークの先あたりに、視線を泳がせながら言った。意味もないのに、手だけがレタスを口に運ぶ。ばかばかしくなって、目を閉じて、ゆっくり開いた。
「……それだけ?」
リノがちょっと期待はずれの声を出した。
「その程度、言えるぐらいの事しか、聞いてない」
そうだ。結婚しようと思っている人間に、何を言えというのだ。
「このままいたって、しょうがないのには気づいてたよ。リノなんか、そろそろ
「まだ二十五よ。まだ大丈夫と思ってるわ。でも親もうるさいの。心配しすぎよね」
「俺といっしょに暮らしてるからじゃない?」
「まさか! 両親は何も知らないわよ」
何も知らない。リノの両親は。俺の両親なんて、いないも同然だから、イミないけど。俺の親は、生きていれば何も言わないのだ。もしかしたら死んでも、何も言わないかもしれない。でもリノは違う。ちゃんと会社に勤めてるし、ちゃんとした人なのだ。俺とは違う。
「知らないんだ。ふーん」
「ちょっと、でも、セリを認めてないわけじゃないのよ。ほら、うちの親変な所でうるさいから、そういう事言えなくって……」
「俺、へんな所なんだ」
「そうじゃないわよ、ちょっと、セリ!」
俺はベタベタの手で顔を拭いた。油にまみれて、まぶたが重い気がした。さっきから気になってたのは、オリーブオイルのにおいだったのか。そのまま手をシャツで拭いてたら、あったかいタオルが顔にふれた。
「ちがうの、セリ。あなたじゃない、私が悪いのよ。自分に正直になれない、私が悪いの」
俺の顔を拭きながら、リノは何だか寂しげだった。俺が傷つけたんだ。どうしよう。
「俺、リノが好きだよ」
そう言って、リノのまぶたにキスした。リノは、少し笑って、知ってると言った。
食事のあとはいつも、ベランダでカルピスを飲む。
雨が降ったら、窓を閉めて外を見る。
俺は果汁のジュースが飲めないから、白いカルピスに少し入れて飲む。少し香りがするくらいだ。リノは分離しそうだといっていやがる。そのくせカルピスミルクが好きなんだ。
今日は晴れているから、ベンジャミンを抱いてベランダに出た。
この前、生花市で見かけて買ってきたのだ。幹がぐるぐるねじれているのに、根元あたりのねじれが甘くてかすかに離れている。何となく、その辺が一歩、足を出そうとしているように見える。そのうち、ここから逃げていってしまいそうだ。朝起きたら、鉢に穴だけ残して、どこかへ行ってしまうに違いない。だから生花市でこいつを見たとき、その旅立ちを見送ってやろうと買ってきて、毎晩いっしょに過ごしているのだ。リノにそう言ったら、
「じゃ、ここを発つ時は、カルピスにシャンパンを入れて祝ってあげよう」
と笑った。
リノは、俺の言うことを、いつもちゃんと開いてくれる。別に頭がおかしいわけではないと言う。想像力が豊かなんだと。木が歩いてどこかへ行くなんて、変な事じゃない。人間なんて月まで行ったじゃない。そう言って、シャンパンを常備しているのだ。でも、まだ旅立ちの気配はないから、いつも食前酒になってしまう。
「気持ちいいねー」
リノはベランダにつっかけを出しながら言った。
風がベンジャミンの葉を揺すって、木が返事をしたように聞こえた。
俺が答えようと思ったのに。
リノに気づかれないように、ベンジャミンの幹を叩いた。
「五月が一番好きかも。ちょうどいいよね」
リノはそう言って、俺に向き直る。何がちょうどいいのかわからないけど、なんとなく頷く。いろいろ、ちょうどいい感じはする。
「リセも元気だね。葉っぱがつやつやしてる」
リセなんて、気に入らない名前だ。たかがベンジャミンのくせに。
リノが、こいつと俺が似てるといって、俺の呼び名を逆にした名前をつけたのだ。リノに名前をつけてもらうなんて、ずるすぎる。だから俺は、リノのリとセリのセをくっつけたものと思うことにした。
リノは俺のとなりに腰掛けて、肩と足をぴったりつけてきた。
「まだ、怒ってるの?」
「怒ってないよ。別に」
怒ってるわけでは、ないのだ。
「私も、セリが好きよ」
コップの氷をカラカラと鳴らしながら、目だけまじめになって言った。
かみしめるような言い方に、何となく不安になる。
「本当よ。言葉だと何か説得力ないけど。こんな風に一緒に暮らすようになったのも、セリが自由にしてたトコヘ私が勝手に転がり込んだようなもんだし、セリは何にも知らないうちに私がつかまえちゃったみたいだし、」
「そんな事ない」
無意識にしゃべるようなリノを止めるように口をはさんだ。
リノからそんな事、聞きたくない。
「……結婚のこと、どう思う?」
どう、と言われても。脳が受けつけない、考えたくても、どうしようもないのだ。
リノは俺から離れてく。
でもそれは、ごく自然な事なんだ。俺のが、おかしいんだ。それは、わかってる。
わかってるけど、
「親がうるさいのよ。一応、形ぐらいかためておかないと、やっぱり私も不安だし」
いつバレるか知れないから。こんな風にいられるのは、きっと永遠じゃない。
リノは体裁を気にする人だから、俺のことなんて、他で何と言ってるか知らない。でも、それでも、リノといられればよかったんだ。いつか、壊れるとわかっていても、もう一秒、いっしょにいたいと思っていた。
「じゃ、その人に、俺のこと、話すの?」
「それは……」
そんな事は、ありえない。俺が一番、よく知ってる。
「うそだよ。いいんじゃない? 結婚しても」
俺がこう言えば、全て丸く納まる。だいじょうぶ。リノが幸せになるのなら、俺は平気。
リノのためなら、何でもできる。
まだ冷たい風が吹き抜けて、リセが葉を揺らしてBGMをつくる。物干しのついたベランダは、こんな風に座るのなら十人ぐらい余裕で入れそうだ。部屋はたいしたことないくせに、ベランダばかり広い。
何かを忘れたように、何も考えずにいたら、裸足のつま先がおどろくほど冷えているのに気づいた。リノの体温を、ふれている足から感じる。
ヒトの体温は、好きではないのだ。生あたたかい、生きている証が、俺にとっては気味の悪いモノでしかない。ヒトの体温は、他の熱とはちがう。
だからリノだって、本当はこんなこと、しないはずなんだ。でも冷えすぎた足には、それさえも熱と思えなかった。
リノは、何も考えていないように見えた。俺によりかかったまま、カーテンの端の方を見てる。リノは俺より体が大きいから、ちょっと不自然な格好だ。
不意に足を引き寄せたら、リノは驚いて、ちょっと離れた。
「ごめん、嫌だった?」
「ううん」
膝を抱えて、うつむいた。嫌だったわけじゃない。嫌なのは、リノが不幸せになることだ。
「俺こそ、あの、本当に、結婚してみれば? それで両親が安心するのなら、いいと思うし、それに、リノも安定、するわけだし。うまく言えないけど、何ていうか、」
そうだ。俺は桃のジュースを入れたカルピスをリセのとなりに置いて、目線を泳がせた。
これは、俺の本心だ。
リノは黙っていた。
「確かに、安定するわね。親も安心するわ」
「だろ? リノがいいなら、俺はかまわないよ」
「そう」
リノは、小さくなった氷を口に含んだ。
カシリと音をたてて氷を噛む。
「セツくんは……」
リノは、大きく息を吸ってからはじめた。
「セリとセツくんは、どうなの?」
「……どうでもないよ。セツは、何か、ちがうんだ」
セツのことを、リノのように想えない。どうしてだろう、俺は、男性と付き合ったことがなかった。セツが初めてだ。でも、何か違う。
「どういう風に、違うの?」
「よくわかんないんだけど、うーん、」
「セツくんとも、寝るんでしょ?」
「それは、そうだけど、別に特別なにかあるわけじゃないし、」
リノは小さく「そうなんだー」と言って、寄りかかっていた方の俺の肩に手をかけ、その指先で俺の頬にふれた。
「セツくんと、キスする時って、どんな気分?」
リノはさっきから、質問してばっかりだ。
「……わかんない。俺から、したことないし、されても別に、」
リノはゆっくり、俺の頬に口づけた。耳のすぐ近く、かすかな息が聞こえる。
俺もゆっくり目を閉じた。リノの唇は、少し離れてから、俺の唇と重なった。
次は、首すじにおりていくだろう。気配でわかる。閉じたままの唇を、あわせるだけのキス。でも、リノは、あごのラインをたどっただけで、ゆっくりと離れていった。
「……やっぱり、ちがうよ、」
何となく、照れる。いつもしているはずのキスなのに、リノはいつもの十倍優しくキスをした。こんなこと、きっとその結婚する相手の人にもわからない。
俺にしか、わからないことなのだ。でもリノは、この事も知らない。たぶん。どれだけ俺が全身でリノを感じようとしているか、どれだけ俺が全身でリノを記憶しようとしているか。
夜はその姿をむらなく空の上にのばし、不思議と月だけが目立っていた。
肌に冷たい程度の空気が、俺の熱を奪おうとして、俺を包み込む。
リセはあいかわらず、わさわさとBGMを作り、その葉っぱで俺の頭をなでる。
リノは何も言わなかった。何のキスかもわからなかった。
ただ、別れのキスじゃなかった。
俺がわかるのは、もしかしたらそれだけかもしれない。
「……セツくんは、セリのこと、どう思ってるのかな」
リノはぼーっとしながら、まるでイミのない言葉のように、そう言った。
「セツくんも、私ぐらいセリのこと、好きなのかな」
氷が溶けてまずそうなカルピスを、リノは一口含んだ。
セツは、普通の人だ。
「セツくん、セリに会った時、何回好きって言う?」
やっと意志のあるような声で、リノは俺の方を見た。
俺はまじめに、だいたい何回言うか考えてみた。でも、好きという言葉が、はっきりと思い浮かばなくて、結局、何回ぐらいだったのかわからなかった。
「何回……かな、あんまり言わないんじゃない」
「私と、どっちが多く言うかな」
でも、リノはあまり言葉にしない方だ。俺のが、言ってるかもしれない。
「今日、一回聞いたから、リノ」
「ふふ、そうね」
リノは、わざと俺によりかかって、目を閉じた。
俺はカルピスを飲み干して、部屋の中でぼんやり灯る、小さなランプを眺めていた。
でもそのうち目が疲れてしまった。目を閉じて、リノの息を聞いた。
リセは今日も、旅立つ気はないらしい。
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