短編集

河伯ノ者

同居人

 春、それは出会いの季節。

 春、それは始まりの季節。

 新たな勤め先。新たな住居。新たな出会いと新しい環境に胸を膨らませながら、小さくない緊張感に身を震わせた日。

 同期との飲み会を終えて、心地よい夜風に吹かれながら歩いた帰路は今まで感じたことのない高揚感を覚えた。

 そして、錆びついた鉄の階段を小気味よく上がり、寂れたボロアパートの一室の鍵を開ける。

 扉を開けると、ふと何か話し声のようなものが聞こえた。

 暗い部屋の奥から射す青白い光。聴き馴染みのある声からそれがテレビのものであるとわかった。

 朝方、家を出る際に消し忘れたのだろうか。いや、今朝テレビを点けた記憶はない。

 それにテレビ以外に何か別の声が混じっている。

 部屋を間違えたかとも思ったが、表札にはわざわざ手書きした自分の名字が書いてあった。

 誰かいる。

 泥棒か不審者か。どうやって入ったかわからないが、見知らぬ誰かがそこにいる。

 しかし、ならば何故その人物はテレビを見ているのかという疑問も浮かんだ。そういった人物ならばこちらに気配を悟らせるような真似はしないだろう。

 それに扉を開けたことに気付いた様子もない。

 俺は恐る恐る部屋の中を覗く。細く短い廊下、その奥にあるリビングの様子は見えそうにない。

 仕方なく、覚悟を決めて部屋に入る。

 警察を呼ぶべきとも思ったが、思い過ごしでは恥もいいところだ。

 廊下を抜け、リビングに入り、電気をつける。

 小さな六畳間で、三十代くらいの白シャツの男性が横柄な態度でくつろぎながらテレビを見ていた。

 見知らぬ男性だ。しかし、この男がこの世ならざる者だということはすぐさま分かった。

 なぜならば、この男の身体は透過しているのだ。大体、五十%くらいの透明度の人間などこの世のものであるはずはない。

 そして、急に明るくなったことに驚いたのか、こちらを一度見ると男はすぐさま視線をテレビに戻す。

「おっさん、何?」

 俺が話しかけると、男は偉く驚いた顔で飛び起きる。

「え……もしかして自分、見えとるん?」

 男は関西弁で話しかけてきた。

 なんで、この東京の一等地に関西弁の幽霊がいるんだよ。

「いや、見えてるけど……」

 俺がそういうと男は心底いやそうな顔をした。いや、お前にその権利はねえよ。あったとしてもそれは俺のだよ。

「……うわぁ、まじかぁ~。え、ちょ、ガチで言っとるん? 最悪や、なんで見えてるやつ来るねん、男ってだけでテンション下がったのに、見えるって、はぁ……」

「いや、それは俺のセリフだろ。完全に事故物件じゃん」

 明日、空き時間に大家に連絡しよう。家賃下げて貰わなきゃ。

「なに被害者面しとんねん、自分よく考えてみ? 先に住んどったのはどっちや?」

「そりゃ、アンタだけど」

「せやろ? で、自分は引っ越してきた身やろ、こっちからしたら、なにコロンブス気分で開拓してくれてんねんって話やねん」

「いや、知らねえよ、それに家賃払ってんの俺じゃん、お前は居候じゃん、わきまえて押し入れの中にでもいろよ、気色悪い」

「せやな、押し入れの中に布団でも敷いて……って誰がドラえもんやねん、どっちかと言えば土座衛門や!」

「どっちも青くて丸いんだから一緒だろうが!」

「何を上手いこと言ってくれてんねん。て、そんな上手くもないわボケ!!」

 男は幽霊とも思えぬほどに饒舌だ。

 胡散臭い関西弁で捲し立てられるのは正直気分が悪い。

「とりあえず今度の土曜お祓いしてもらうから、それまでに静かにしてろ」

 こんなの悪霊の類だろう。少々金は掛かるだろうが、お祓いでもしてもらって早めに片付けた方がいい。こんなのが一緒にいるなんて悪霊よりもタチが悪い。

「なんやて! それは困る、わかった。大人しくする、せやからお祓いだけは堪忍や、俺はまだ消えとうない!!」

 どうせ、こんなこと言っても噛みついてくるのかと思ったが、意外な反応が返ってきた。この世に強い未練でもあるのだろうか?

「なんだよ、何か思い残したことでもあるのか?」

 幽霊になったくらいだ。未練の一つや二つあるのだろう。どうせならそれくらい聞いてやってもいいだろう。もしかすれば除霊の助けになるかもしれない。

「なんや兄ちゃん、俺の話聞いてくれるんか?」

 しおらしくなった男は泣きそうな声でそう言った。

 男は手を合わせると口を開いたり閉じたりを繰り返す。初めてあった男に未練を離すことが恥ずかしいのか、何度も言おうかと口を開くが、その度に声が出ずに大きな呼吸を繰り返すばかりだ。

「内緒やで、実は……」

 腹をくくったように男が口を開く。

「実は?」

 俺も前のめりになり男の言葉を繰り返した。

「実は……」

 勿体付ける様に男が言葉を濁す。

 じれったい気持ちになりながらも、俺は男が自発的に話すのを待った。

 何度目かの問答を繰り返す。

 しびれも切れそうなほどの時が流れた時、ついにその言葉が放たれた。

「実は、ガッキーと来世で一緒になりたいねん」

 土曜日の予定が決まった。

「さてとどこの寺がいいかなぁ」

 構っていられるか、こんな男。

 俺はテーブルの前に腰かけると鞄からノートパソコンを取り出す。

「いや、待ってぇな。自分考えてみ? 今世が駄目だとしても来世ならワンチャンあるかもしれんやん??」

「ねぇよ、よしんばあったとしても、その権利は星野源のものだよ」

「あ、ガッキーいうても石垣の方やで?」

「そっちかよ!! 男でそっちのガッキー推しは見たことねえよ!!」

 予想外の回答に声を荒げる。確かに石垣拓磨はかっこいいが、それで現世に残るほどの思いとは末恐ろしくさえ思える。

「別にええやろ、『ひぐらしのなく頃に』でファンになったんや」

「よりによって触れづらい作品出しやがって、ごくせんとかいろいろあっただろうが」

「なんでや、VHS擦り切れるまで見たで?」

「何で幽霊がVHS見てるんだよ、あと今どきの子に伝わらねえよ!」

 ある意味でとんだ怪物が同居人になってしまったようだ……。

 ん? この男、確かガッキーと一緒になりたいとか言ってたよな……?

「お前、もしかして……」

 恐る恐る男に尋ねると、男の顔に影が落ちた。

「兄ちゃん、気付いてもうたか……もう逃げられへんで?」

 ふと、リビングの電気が落ちる。

 暗くなった部屋で男は、滲みよるようにこちらへと近づいてくる。

 逃げ出そうとするが、指先一本さえ動かすことができない。

 リビングの扉が音を立てて閉まった。

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