娯楽としての恐怖

安達ヶ原凌

第1話 お風呂が呼んでいます

お風呂が呼んでいます


『お風呂で呼んでいます。お風呂で呼んでいます』

 聞き慣れた電子音がキッチンの方から聞こえてきた。うちのお風呂は浴室内とキッチンに給湯器の操作パネルがあり、浴室内の操作パネルから呼び出しボタンを押すとキッチンの操作パネルからこのような電子音の呼び出しが流れるようになっている。

 今お風呂にはお父さんが入っている。夕飯の後片付けをしていたお母さんがお風呂場へ向かう足音を聞きながら私はドライヤーの電源を入れた。普段通りの夜のことだった。


 暗闇の中で目が覚めたことにしばらく気づくことができなかった。枕元に置いたスマホに手をのばす。液晶に表示された時刻は二時十七分、真夜中だった。

 無性に喉が渇いて、私はベッドから出た。水を飲むために階下へ下りてキッチンへ向かう。

 わざわざ部屋の明かりを点けるのはなんだか面倒だったのでスマホのライト機能を使って暗い家の中を進む。よく知っている自分の家のはずがただ暗いというだけでまるで知らない場所にいるよだった。小さい頃はこういう暗闇が怖くて堪らなかったことを思い出してなんだか嫌な気持ちになった。

 スマホの小さな明かりに辺りの陰が大きくゆらめく度に心臓が跳ね上がる。ただの陰に怯えてしまう自分が情けなかった。

 キッチンにようやくたどり着いた。自分の家のキッチンに行くだけなのにそんな気持ちになっていた。

 冷蔵庫を開けるとキッチンがわずかに明るくなった。冷えた水を飲むとさっさと部屋に戻ろうと思った時だった。

『お風呂が呼んでいます。お風呂が呼んでいます』

 聞き慣れた電子音が聞こえてきた。こんな時間に誰かお風呂に入っているのだろうか? いや、キッチンに来るまでにお風呂場の前も通ったが、明かりは点いていなかったし誰かがいる気配もなかった。私はこの時はっきりと恐怖を感じた。

『お風呂が呼んでいます。お風呂が呼んでいます』

 また呼び出し音が鳴った。何度も、何度も何度も繰り返し呼び出し音が鳴る。

 呼び出し音は無視して部屋まで一気に走ろうかと思った時だった。気がついてしまった。聞き慣れたものと思っていた呼び出し音が普段のものと微妙に違うということに・・・・・・。いつもなら呼び出し音は『お風呂で呼んでいます』という電子音のはずだが、今聞こえてくるのは『お風呂が呼んでいます』というものだった。さっきから何度も聞いているので絶対に聞き間違いではない。

 いよいよ恐怖でその場から動けなくなってしまった。静まりかえった家の中で聞き慣れたものとは違う不気味な電子音が何度も何度も繰り返される。大きな声を出して両親に助けを求めることなど考えつかなかった。私はただただ恐怖のためにその場に固まっていた。

 キィッと甲高い軋み音が聞こえた。浴室の戸が開く時の音だとわかった。風呂場から何かが出てきたのだろうか? 

 ペタッ、ペタッと水に濡れた足でフローリングの床を踏む音が聞こえてきた。浴室の中から出てきた何かが家の中を歩き回っている。足音が聞こえ出すとあの電子音は鳴り止んでいた。

 しばらくすると足音は止まった。暗闇と静寂の中で私は動けなくなったまま息を殺していた。もう終わったのかと思いかけたころ、再び足音が聞こえだした。

 ペタッ、ペタッ、ペタッ

 次第に足音大きくはっきりと聞こえるようになってきた。足音はゆっくりとこちらに向かってきているようだった。

 私はその場に座り込んで固く目を閉じた。ペタッ、ペタッと足音が近づいてくる。足音はすでにリビングまで来ていた。キッチンまでもうすぐだ。

 ペタッ、ペタッ、ペタッ、ペタッ

 足音が私の目の前で止まった。私は顔を上げることができない。ぎゅっと目をつぶり、頭を抱えるようにしてその場にうずくまる。目の前に何かがいる。そしてそれはこの世のものではない。なぜか直感的にわかった。

 何かが私の身体に触れた・・・・・・。


 激しく身体揺すられた。誰かが私の名前を呼んでいる。お母さんの声だ、とわかった途端に目が覚めた。

 寒い。目が覚めるとおそろしいほどに寒かった。身体が痛いほどに冷たい。私は冷たい水の中にいた。ここは、家の浴室だとわかるまでにしばらく時間がかかった。私は水をはった浴槽の中にパジャマを着たまま横たわっていた。

 なぜこんなとこに、こんな格好で? 昨夜、なにがあったのか? 疑問は尽きないがとにかく寒かった。冷え切った身体は思うように動いてくれない。お母さんに助けられてなんとか浴槽から出た。ただの乾いたバスタオルがとても暖かく感じられた。

 服を着替えて、冷えた身体が温まってきてようやく落ち着いてきた。私は昨夜のことを少しずつ思い出してきた。思い出した自分の記憶を自分でも信じることができなかった。信じたくなかったのかもしれない。結局このことは両親にも誰にも話すことはなかった。

 今でもこの家に住んでいるがあれからおかしな出来事が起きたことはない。ただ、お風呂に入っている間、シャンプーや洗顔の最中でも目を閉じないようにする癖ができた。

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