第2話 願いの音
私は、通訳の女性の後についてトビーさんの楽屋の方へ歩いて行った。その間もざわめきのような声が消えることなく聞こえていた。
多くの高価な花たちが飾られた楽屋に通され、椅子に座るように通訳の女性に言われたので、言われるままに座ると、会場のスタッフであろう人がお茶を入れて下さった。それを頂くと緊張が少しほぐれてきた。
その数秒後にトビーさんが入ってきた。彼は、目に涙を浮かべて私の顔をじっくりと見た後で、お辞儀をして
「僕のこと、覚えてますか?」
私はすぐにこの言葉の意味を理解した。
私が、毎年母と来ていたソロリサイタルに、ある年パタリと来ていなかったことから、忘れられてしまったのだろうと思っていたのだろう。
「申し訳ありませんでした」
私は頭を深く下げて絞り出すようにそう言った。
「どうぞ、お顔をあげてください。その、僕は
千花は、私の母の名前である。母もトビー程ではないが、世界各国でピアノを弾くピアニストであった。
「千花が重い病気を患っていることは、本人から、最後にこの会場で七年前に聞きました。麻白は、別の部屋で待機してもらっていたみたいだけど」
日本語で、一生懸命に話している。彼は、母と同じイタリアの音楽院を卒業したという情報は母から聞いていた。母とは仲が良かったそうなので、日本語も母から少し教わっていたのだろう。
今、彼は流暢に日本語で話しているように見えるが、単語を思い出すようにゆっくりであることが伺える。
「それで、いえ、君をステージから見つけた時から、麻白と話すことで頭がいっぱいだったけど」
トビーさんの右隣で座っている通訳の方がため息をつかれたが、気付いていないようで私の方をみて話をする。
「麻白、君にピアノを続けて欲しい」
私は、とっさに周りを見ると、誰も私と同じようにトビーさんに言われた言葉の意味がわかっていないようだった。恐らく、私が
「あの、それはどういう意味なんでしょうか?」
私の口からやっと出てきた言葉。彼は質問に答えず
「せめて、君のピアノ、聴かせてほし――」
「――弾きません」
私は、トビーさんの話を遮って言った。その後の数秒の沈黙が長く感じた。私は、彼の顔が見れずにいたが、恐らく彼の顔は今、短調の悲しみの表情に変わっているであろうと分かった。
「どうして?」
「あなたの前では、尚更弾けません。母の演奏とは違います。きっと、絶望するでしょう。そして、千花はもういないんだと改めて思い知らされると思います」
「日本人は、みんなそう感じているのですか? それとも、評価を得れなかったからですか?」
トビーの口から『日本人は、みんなそう感じる』という、人によっては差別を感じさせる言葉が発せられたので、部屋にいるスタッフの方から少し焦りが生まれたような雰囲気が伝わって来た。
「違います」
という私の言葉でまた驚きの色が滲んでいた空気が変わった。
「私は、裏切りたくないのです」
この言葉の返事はなかった。
ここから、会話は成り立たなくなり沈黙になったが、少ししてから次に口を開いたのは彼だった。
「これは、僕のエゴなのかな?」
彼はそう聞くとトビーは数秒程私の目を見ていたが目を少し俯かせて、自分の分のお茶が一口飲まれた。
「質問を変えますね」
自分を落ち着かせるように、ゆっくり喋っている。
「千花は、本当に幸せだったのでしょうか?」
私は驚いた。彼が泣きそうになっているのが確かに分かったからだ。何か救いの言葉はないかと自分の記憶を辿ったが、すぐに思いつかなく言葉が詰まった。
母が死の際に言っていたことは、たくさん思い出せた。
だが、それをこの場で伝えても彼には意味がないと思うことばかりだった。
だから言葉ではなく、態度で伝えるべきだと思い椅子から立ち上がるとトビーさんの側に歩みを進めて彼の両手を握った。
彼は驚いた様子でこちらを見たが私の行動でまた涙が溢れていた。
「麻白、僕は、僕は」
涙がポロポロと出てきている。四十半ばの男性が涙ながら、仲が良かった女性のことを思い出す姿に胸が痛くなったが、自分の中にある想いをここで出さなければ後悔すると思った。
「あの、母は幸せだったと思います。私に私の好きなピアノを弾き続けてほしいと、そして」
言葉に詰まっても大丈夫というようにトビーさんは、頷きながら次の言葉を待っている様子であった。
「私に、幸せになってほしいって、いつも言っていたんです」
言葉がうまく出てこず私は言葉に詰まりかけた。
スタッフの方、通訳の女性も、トビーさんを見て状況から何かを察し、席を外していった。
ドアが閉められる音が楽屋に響く。
「勝てないんだとは。そう、言ってはいましたけど」
私が言葉を繋げたのを最後に、トビーさんはまた声を震わせて涙を落とたが、今までのように遠慮せずにはっきりと自分の悲しみを表していた。
そして、少し私の手の甲を触りながら頭を私の方にやって静かに涙と共に口を開きだした。
「そうなんだね」
「すみません、本心じゃなくて……伝えたいこともはっきりと伝えることができずに申し訳ないと思っています」
言葉尻が徐々に小さくなり始めたので、私はまた席に戻るために彼に背を向けたのだが彼はそれを止めるように、私の手を掴んだ。
「千花は、良きライバルであり、良きピアニストであり、真っ直ぐで、初心を忘れないような女性だった」
彼はそう語った。
「そして」
彼はまだ話そうとするので、私の手を握っている手を離してもらうように私は手を動かした。すると
「ごめん」
と、謝られ、手を離される。
「君の、お父さんには内緒にしててほしい話なんだけど」
と、話を切り出される。
「千花は素敵な女性だと、僕は、音楽院を卒業する頃には、千花に恋に落ちていたんだ」
私の父は、母と同じ中学に通っていたことから母との交流はあったそうだが、私たちの両親は不倫関係にあったわけではなかったと話してくれた。
「僕が、後出しで、二番手だったんだ。いや、二番手でいさせてくれたかも分からない」
父と母は、中学を卒業する時に付き合って、イタリアに行った母と父は遠距離恋愛がうまくいかずに、一度別れて、五年後に復縁したというのは知っている。
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