006 氷の華
結界内は混沌を極めてた。
烏天狗が、赤鬼が、餓鬼が、阿修羅が、明王が、火狐が、河童が、ダイダラボッチが、牛鬼が、猫又が、前鬼が、後鬼が、金槌坊が、妖猿が、鬼婆が――入り乱れて戦っている。
敵は誰か。
自分自身の影だ。
或る者は自分の影に攻撃された事により倒れ、或る者は自分の影を攻撃した事により倒れた――この奇妙な現象に疑問を抱く式神は一匹もいない。皆、氷華により洗脳され、思考する能力が奪われているからだ。
身体が動く限り、目の前の敵を攻撃し続ける。
何も考えず。何も思わず。
それが式神たちの残された道である。
ただ痛みは在るようで――妖たちは血を流す度に小さな呻き声を上げる。もしくは、悲痛な叫び声を上げる。
「ぎゃあああああアァァァァァッ!」
またどこかで誰かが斬られた。
「痛ェ! 痛ェェよォォォ!」
またどこかで誰かが血を流した。
「グギイイィィィッ!」
またどこかで誰かが絶命した。
結界内は混沌を極めてた。
* * *
激しい倦怠感に襲われた美夜は、とうとう膝をついてしまった。
妖力の消費が激しすぎる。
当然だ――戦場を取り囲む結界だけでなく、影を具現化しコントロールする秘術『
「はぁ……はぁ……」
汗を拭い立ち上がる。
と、少しだけ倦怠感が軽減された。どこかで妖が五匹くらい同時に死んだのだろう――
また倦怠感が減った気がする。
美夜は鈍い痛みのする頭で影の数を数えてみた――現在
やっと半数と言うべきか。まだ半数と言うべきか。
「やっぱり……化け物……」
美夜は遥か向こうで氷太朗と拳を交える氷華を見た。
式神を使役するには、膨大な妖力を要する。一一五〇匹もの式神を使役しようものなら、
妖力の量、妖術の練度、経験――どれをとっても一級品だ。今まで出会ったどの妖術遣いをも凌駕している。まさに桁違い。それに加えて、六神通まで備えているなんて……。
境遇さえ違えば、彼女は日本一の妖術遣いになっていた筈だ。
それこそ、針姫家なぞ目じゃないレベルの、唯一無二の妖術遣いに。
そんな彼女が、喉から手が出る程欲した刀の元に漸く辿り着いたというのに、その類稀なる才能のせいで満足に柄を握る事さえできないだなんて――なんて残酷な運命だろうか。
「――ッ⁉」
妙な気配を感じた美夜は顔を上げると、頭上に巨大な刀が差し迫っていた。持っているのは、炎を纏う青黒い肌の巨人だ。恐らく不動明王だろう。となると、そんな彼が振り下ろして剣は魔と煩悩を切り裂く『
ならば――
「■■■■■■■……ッ!」
美夜が詠唱すると、不動明王の腕が、胴が、足が、光に包まれた。万物の動きを停止させる結界『
「お願い……ッ!」美夜は呟く。
駆け付けた不動明王の影は応えるように拳を放った。身動きの取れない不動明王の顎めがけて。
顎が砕かれ、ついでに脳震盪まで起こった不動明王はその場に頽れる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
美夜は両膝の上に手を置いて、肩で息をした。
「まだだ……まだ倒れるな……美夜……!」
美夜は知らぬ間に俯いてしまっていた顔を起こす。
まだ倒れるわけにはいかない。
まだ膝を付くわけにはいかない。
自分が倒れれば、結界は消え失せ――五七〇体もの妖が街に放たれてしまう。
そうなればどうなるか。
考えるまでも無い。
「私が街を守らないと……ッ!」
* * *
氷太朗の空中で大きく身体を捻って回し蹴りを繰り出した。キレも速度もある素晴らしい回し蹴りだ。だが氷華は上半身を逸らして軽々と避けた。それだけではない。ついでに氷太朗の軸足を払って体勢を崩させる。
そして――
「お姉ちゃんを蹴る馬鹿はこうよ」
サッカーボールを蹴るように、氷太朗の胸に足の甲を叩き込む。
氷太朗は接触する寸前に両手を交差させ防御を行ったが、衝撃までは防げず――氷太朗は遥か後方に吹っ飛ばされてしまった。
「ぐあぁッ!」
身体は、瓦礫の上で何度かバウンドした後、停止した。
痛みが絶え間なく走り続けている。あちこちから血が出ている。打撲箇所は数えきれない。左手の小指と薬指に関しては、最早感覚が無い。まさに満身創痍だ。こんなにも痛くて苦しいのは生まれて初めてだ。
いつもの氷太朗ならば、蹲って泣いていただろう。
嵐が過ぎ去るのも待つ子羊のように、歯を食いしばって耐えていただろう。
だが、今は違う。
氷太朗はすぐに立ち上がり、氷華と対峙する。
もう逃げないと決めたから。
「まだ立ち上がるの?」
氷華は憎そうに睨みつけた。「退き際を弁えないと、いい加減本気で殴るわよ?」
「退くのは姉ちゃんだ。約束したじゃないか、
「今更諦められるものですか! 私は何としてもこれを持ち帰らないといけないのよ!」
「持ち帰らないといけないなんて事は無いんだよ。義務じゃない。誰も強制してないんだよ」
「いいえ、これは義務よ!
「そんな事――」
「そんな事⁉ 今、そんな事って言った⁉ 私はこんなにも必死にやってるのに‼」
「違……ッ!」
否定する前に、氷華は掌から火を放っていた。美しい橙色の炎だ。
氷太朗は神足通で横に大きく跳んで躱した。躱しながら、地面に転がっている妖たちが落とした刀を搔き集めた。そして、着地したタイミングでそれら全てを投げた。
回転する事無く氷華に向かっていく刃達。その直線的な軌道と言い、速度と言い、最早達人技である。伊達に大道芸で剣投げばかりしているわけではない――普通の者ならば、数秒後には串刺しになっていただろう。しかし、氷華は違った。
「物乞いのような事ばかりしているから――」
そう言った氷華は、直後、姿を消した。
どこに行ったのか――
「小手先ばかり達者になるのよッ‼」
振り返るが、遅かった。
後ろを向き終わる頃には、刃は氷太朗の肩に到達していた。
しかし、斬れることは無かった。
その代わりに、鈍い痛みが響いた。
峰打ちだ。
「痛――ッ‼」
氷太朗は思わず左肩を抱いてその場で丸くなった。
鐘の音のような痛みが波のように定期的なリズムを帯びて打ち付けてくる。肘から先は痺れが止まず、手を開くことも閉じる事も叶わない。医者に診せなくてもわかる、この左腕はもう使い物にならないだろう。
「痛い? 痛いわよね?」
氷華は刀を捨てながらしゃがみ込むと、優しい手で弟を撫でた。
「ごめんね。こんな傷、お姉ちゃんがすぐに治してあげるから」
「いらないよ……ッ!」
氷太朗は右腕を大きく振るう。救いの手を拒むつもりで――けれども、力加減を誤り、手を弾くついでに氷華も打ってしまった。
その姿を見て、氷太朗は確信をした。氷華が
氷華は小輪と同等かそれ以上の
何故か――偏に、
理由はわからない。
単純に手を抜いているだけか、或いは――
「随分酷い事を言う子に育ったわね」
氷華はゆっくりと立ち上がり、言った。「育て方が悪かったのかしら?」
「そんな言い方……姉ちゃんは僕の親じゃないだろ?」
「いいえ、親代わりよ。私はお父さんやお母さんの代わりに、貴方をきちんと育てる義務がある! 貴方に何不自由ない暮らしをさせてあげないといけない義務がある!」
「それが間違ってるんだよ……!」
「間違っている⁉ 何が⁉ どこが⁉」
「姉ちゃんは姉ちゃんだ……!」
氷太朗は言った。
「父さんや母さんじゃない……!」
ずっと言いたかった言葉を。
「僕の姉ちゃんだ!」
ずっと心の内に秘めていたその言葉を。
「黙れッ!」
氷華はそれを一蹴した。
「ガキがわかったような口を利いてんじゃないわよ! 姉ちゃんは姉ちゃん? そんな事わかってるわよ! よくわかってるわよ!」
氷華の口から涙と共に零れたそれも、内に秘めていた言葉だった。
「でも世間はそう思ってくれないのよ!」
紛れも無い本心だった。
「誰かが貴方の親にならないといけないのよ!」
「だからって……!」
「これ以上私を否定しないで!」
氷華は拳を振り上げ、それを振り下ろした。逃げる余裕のない氷太朗は目を瞑り、衝撃と痛みに備える。だが――待てど暮らせど、それらはやって来なかった。
目を開けてみると、氷華が腕を振りかぶった状態で停止しているではないか。
更によく見てみると、氷華の振り上げた腕に青い光が纏わりついていた。
「兄弟喧嘩の邪魔をしないで頂戴!」
氷華は首を一八〇度回転させて、五〇メートル後方に居た魅流を睨みつけた。そう、彼女の結界『
「お遊びに付き合ってあげようと思ったけど――気分が変わったわ!」
「ま、待て――ッ!」
氷太朗は慌てて止めたが、遅かった。
瞬きが終わる頃には、氷華は美夜の前に移動し――美夜の首を絞め上げていた。
「貴女を
「や……やめ……ッ!」
美夜は脚をじたばたさせ、自身の首を掴む手に爪を立てる。
「やめない! これは私の前に立ちはだかった貴女と、聞き分けの無い事ばかりする氷太朗への罰よ!」
「その手を離せ、姉ちゃん!」
立ち上がった氷太朗は、氷華が落としていった刀を右手で握り、構えた。
そして、叫ぶ。
「もし放さないのなら、容赦はしないッ!」
「好きな女の前では威勢が良くなるのね!」
「いいから放せ! 放すんだ!」
「恰好付けるのもいい加減にしろ、糞ガキ!」
「放さないのなら――ッ」
言って、氷太朗は刀を投げた。
氷華の方向に、ではない。
四時の方向――つまり、明後日の方向に。
「どこに投げて……グぶプぅッ」
氷華の口から大量の血が飛び出した。口だけではない、喉に入った亀裂からも、赤い血が大量に噴出している。
慌てて両手で喉の亀裂を押さえても、血は止めどなく溢れ出してくる。
拙い――これは拙い。
「は……がっ……ッ!」
氷華は掌に火を灯すと、迷いなくそれを喉の裂傷に押し当てた。傷口を焼くことに止血しようと試みたのだ。結果は、成功だった。亀裂は焼き爛れる代わりに、血を吹きだすのを止めた。
けれども、口からは未だに血が溢れ続けている。
「な……ら……ッ!」
また掌に火を灯す。
今度は何をしようとしたのか――氷太朗はわからない。
氷華は成す前に血だまりの上に倒れたから。
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