008 愛しの姉

 酒月邸の被害は甚大だった。離れ屋敷は全壊。庭はどれだけ消火しても炎の手が収まらない。門に至っては、その全てが倒壊している。無傷なのは、母屋だけである――その母屋の一室に、氷太朗らは美夜を運び込んだ。

 部屋は八畳くらいの広さで、デスクと箪笥の他に、氷太朗の背丈以上の大きさの本棚が四つあった。本棚には単行本や新書の他に、多数の古書が詰め込まれている。立派な書斎だ。しかし、何故書斎に美夜を運ぶのだろうか――そんなことを思いながら美夜を畳の上に寝かせると、すぐに美夕に退室を命じられた。彼女の服を脱がせ、手当をするからだろう。

 言われた通りに氷太朗は廊下に出る。

 廊下の窓からは、庭に立つ紳士が見えた。美夜の父・酒月美広だ。彼は両手を合わせて俯いている――この惨状をどうにかするよう神に祈っているわけではない。屋敷に施した結界を発動して、ご近所さんや警察の意識を逸らしているのだ。


「………」


 氷太朗は考え事をしながら、そんな美広の姿を見ていると――程なくして、美夕が部屋から出て来た。


「処置が終わりました。じきに目を覚ますと思います」


 と言いながら。


「そっか……。良かった……」

「氷太朗さんも傷があれば治しますよ。出してください」

「ううん。大丈夫だよ。傷一つない」

「本当ですか? 遠慮しないでくださいよ? こう見えて、治療系の妖術に関してはお姉ちゃんより腕が良いんですから」

「本当だよ。ありがとう」

「そうですか。信じましょう。――ここで立ち話もアレですから、こちらにどうぞ」


 美夕は廊下を歩きだした。氷太朗は後に続く。

 歩きながら、この廊下を小学生の頃に何度も通った事を思い出した。


「氷太朗さんはいつ現世に戻ってきてたんですか?」


 美夕は歩みを勧めながら問うてきた。


「ついさっきだよ。ほんの数分前」

「向こうの世界のお姉ちゃんがこっちに戻るように言ったんですか?」

「ううん。魅流さんに掴まれたと思ったら、蔵の中に居たんだ。だから、どうして戻ってきたのか理由は僕もわからないんだ」

「魅流さんが……?」


 美夕は怪訝そうに眉を顰める。その姿に、氷太朗は思わず「何かひっかかるの?」と尋ねた。


「普段、魅流さんが妖術を使う事は禁止されてるんです。特に、常夜と現世の行き来をする『橋渡影術ハシワタシエイジュツ』は強く禁止されているのですが――」

「じゃあ、魅流さんは禁止令を無視したって事?」

「いえ。お姉ちゃんか神社の人が許可を出した場合に限っては、魅流さんも妖術を使用することが出来ます。彼女は不真面目でチャランポランタンですが、禁を破るような人ではないので、恐らくは誰かの指示があったのだと思います」


 そう言うと同時に、客間に着いた。この客間は他の部屋に比べて幾何か小さい。これは、部屋の中央にある六分の一くらいのサイズの畳があることからわかるように、元は茶室だったからだ。かつてはここでよく宿題やトランプをしていたものだが――今は感傷に浸っている暇なぞない。

 氷太朗は通されるがまま、部屋に這入り、座布団の上に座った。美夕も、卓袱台を挟んだ正面に腰を下ろす。


「ここで何があったの?」


 話を切り出したのは、氷太朗だった。


「私も詳しくはわかりません。わかりませんが――」


 そう言って、美夕は知る限りの経緯を話してくれた。

 要約すればこうだ――朝、美夜は珍しく早く起きてきたかと思うと、朝食も摂らずに家を出た。朝が弱い一方で三食の食事が何よりも大好きな彼女がこのような行動をとる時点で、美夕は「只事ではない」と思った。「また何かを一人で抱え込んでいるのではないか」とも思った。

 美夜が帰ってきたのはお昼過ぎだった。汗だくで、決して良いとは言えない顔色をしていた。美夕は昼食を摂り、少し休憩することを勧めたが、美夜はそれを拒み、麦茶をコップ一杯だけ飲み、すぐに自室に籠ってしまった。明らかに異常なその行動に、美夕は居ても立っても居られず、彼女の部屋の襖を抉じ開けると、美夜は古文書を片手に地図と睨めっこをしていた。何をしているのか尋ねてみるが、美夜は口を開かない。それでも、としつこく問い質してみると――やっと口を割った。そこで美夕は、氷太朗の肉体が行方不明になっている事、氷太朗の魂が常夜に居る事、それを探して今朝はハイツ針姫に行った事、その道中に針姫和歌に遭遇した事、二人で肉体を捜索することになった事を知った。

 当然、それらを知って「ああそうですか」と引き下がれる美夕ではなく――彼女は、美夜に捜索の手伝いをすると申し出た。美夜は最初、難色を示した。いつもこうだ。美夜は妹を巻き込ませまいとする。だが、美夕ももう中学二年生だ。姉に助力出来るだけの実力を身に付けた――再びしつこく申し出続けると、美夜は渋々承諾した。

 二人がとった捜索方法は『狐狗狸さん』である。地図にコインを置き、霊験術で呼び出した狐狗狸さんの能力を用いて氷太朗の肉体の位置を割り出そうとした――だが、コインはどこにも導かれなかった。別の地域の地図を用いても同様である。

 次に取ったのは、占星術である。占いを駆使し、氷太朗の肉体の位置を探った。だが、結果は同じだった。

 他にも、思いつく限りの妖術や占術を駆使して捜索したが――どれも有用な情報には辿り着かなかった。

 部屋に夕日が差し込み、美夜と美夕は疲労の色に包まれていた。万策が尽きかけていた。そんな時である、家の固定電話の着信音が響いた。暫くして、美広が部屋に這入って来た。「美夜、お友達から電話だよ」と言って。

 美夜が部屋に戻ってきたのは、数分経ってからだった。例の如く顔には無表情を張り付けていたが、激しく襖を開ける動作から異常事態が起こったことはわかった。何を言い出すのか、どんな言葉が出てくるのか、美夕は構えていると――美夜言った。

 今すぐ身を隠して。

 身を守って。

 万が一、私の身に何かあれば、常夜は美夕が守って。

 ――そう言った。

 美夕の頭は一瞬にして疑問符で埋め尽くされた。だが、問い返さず、すぐに行動に移った。屋敷の地下壕に身を隠したのだ。美夜が理由も述べずに『命令』だけを伝えたということは、即ちそういう事だと理解していたから。

 程なくして、屋敷全体が揺れた。轟く音や、木が弾ける音や、何かが裂ける音が聞こえた。それでも、美夕は出ていかず、隠れ続けた。耐え続けた。


「で、少しして音が止んだから戻ってみれば――お姉ちゃんを抱えた氷太朗が居たというワケです」

「そうだったんだ……」

「次は氷太朗さんのターンですよ。何があったか教えてください」

「僕は……さっきも言ったように、魅流さんに頭を掴まれて、気付けば蔵に居た。どうして蔵に居るのかはわからなかったけど、此処が酒月さんの家だとわかったから、取り敢えず出ててみると、屋敷が半壊してて――酒月さんが血を流して倒れていた。そして、そんな彼女を見下すように姉ちゃんが立ってた」

「お姉さんって……坂之上氷華さんですか?」

「うん。僕が何をしてるのか尋ねたら、錯乱して、苦しそうにして……消えた。それが僕の知る全てだよ」

「そうですか……」

「ごめん。本当にごめん……」

「え? どうして氷太朗さんが謝るんですか?」


 突然の謝罪に、きょとんとした表情で美夕は訊いた。


「氷太朗さん、謝るようなこと、何かしたんですか?」

「いやだって、恐らく酒月さんを傷付けたのは僕の姉ちゃんだし……。もっと言うと、屋敷を壊したのも僕の姉ちゃんだし……。にも関わらず、姉ちゃんがどうしてそんな事をしたのかわからないし……。たぶん、一連の不可解な出来事の中心は僕の肉体だと思うし……」

「なんスかそれ。ふんわりし過ぎじゃないですか?」

「うん、ごめん……」

「何一つ確証が無いのに謝らないでください! 自己肯定感低すぎですよ!」

「ごめん……」

「謝んなつってんスよ! 私は氷太朗さんに謝ってもらおうなんざ微塵も思ってません! 寧ろ感謝してるくらいなんですから!」

「え? なんで感謝?」


 この状況に似つかわしくない単語の登場に、氷太朗は眼を丸くした。


「お姉ちゃんが常夜の管理者に選ばれた経緯はご存知ですか?」

「うん。太三郎さんに聞いたよ。御両親は妖力が少なくて、美夕ちゃんも小さかったから、適任者は酒月さんしか居なかったんでしょ?」

「そうです。一三歳のお姉ちゃんは、管理者に選ばれたその日の夜に、影を切り離しました。誰にも相談せずに――常夜を管理するにはそれしかないからって」


 そのせいで表情まで失い、そのせいで学校では気味悪がられ、そのせいで友達もみんな離れて行った。犠牲にしたのは『影』だけではない。その日を境に、美夜は時間さえあれば自室に籠って妖術や結界の研鑽に励んだ。


「さっき、お姉ちゃんを運んだあの部屋……実は、お姉ちゃんの部屋なんですよ」

「え? 書斎じゃないの?」

「はい。全然女子高生っぽくないですよね……」


 美夜は自分の影も、自分の時間も、自分のプライベート空間も、自分の青春さえも犠牲にした。

 全ては常夜の為に――


「私、自分の全てを常夜に捧げるお姉ちゃんを、心の底から尊敬しています。けれども、同時に、自己犠牲ばかりのお姉ちゃんが可哀想でなりませんでした。なんとかして、自分の人生を謳歌して欲しいと思っていました」


 しかし、美夕は美夜の力になれなかった。美夜が妹の助力を頑なに拒んだからだ。

 美夕は、笑うことなく青春時代を過ごす姉を不憫に思いながらも、何も出来ないでいた――そんなある日、美夜の瞳に輝きが宿った。訊いてみると、氷太朗とお月見をすると言うではないか。

 美夕はとても嬉しくなった。


「私、あんなにも楽しそうにするお姉ちゃんを見たの、本当に久しぶりで……思わず泣きそうになりました」

「まぁ、結局約束は果たせなかったけどね……」

「でも、約束をとりつけてくれただけでも、私は救われました。たぶん、お姉ちゃんも」


 言って、美夕は深々と頭を下げた。


「氷太朗さんがよければ、この件が終わった後も、お姉ちゃんと変わらずに接してあげてください」

「も、勿論! 勿論だよ、美夕ちゃん!」

「へへへ。やったぜ」


 顔を上げた美夕は小さくガッツポーズをした。その笑顔は、いつぞやの美夜の笑顔にそっくりだった。

 そう言えば、氷太朗は、美夜の笑顔に惚れたのだった。屈託なく、それでいて少し遠慮がちな美夜の笑顔に――それがいつからか、彼女も物憂げな瞳に惹かれ、よく食べる所に惹かれ、最終的に一挙手一投足に至るまで好きになったのだ。

 氷太朗は、自分の胸に問いかける。

 その想いは今でも変わらないのか、と。


「ありがとう、美夕ちゃん。漸く覚悟が決まったよ。僕は――」


 言いかけた直後。

 氷太朗は全身が痛みに襲われた。

 ただの痛みではない――腕や足や内臓が引き千切られそうな、強烈な痛みだ。

 このような痛みは、今までに経験したことがない。


「なんだ……これ……ッ⁉」


 氷太朗は身体を押さえ、その場に倒れ込む。

 慌てた美夕は駆け寄ると、彼の首根っこに妙な『影』が見えた。襟を引っ張ってみると、頸椎に沿って妙な文字が描かれていた。

 美夕は文字の正体がすぐにわかった。


「氷太朗さん、拙いです! 氷太朗さんに掛けられた『練縛結界レンバクケッカイ』が力を失いかけてます!」

「なにそれ……⁉」

「あの世と常夜の『魂を引っ張る力』を無効化する結界術です!」

「そういう事か……!」


 あの世は常に魂を引っ張っている。生きている者は、魂が肉体という重りの中に入っているので、引力に晒されても引っ張り込まれることはない。だが、魂を剥き出しにしている霊はその引力に呆気なく負ける。結果、霊はあの世に行ってしまう。

 あの世と同じ性質を持つ常夜も、あの世と同様、常に魂を引っ張り続けている。そのせいで霊は常夜に迷い込んでしまうのだ。

 氷太朗は肉体を失った生霊である――現世に出たら、あの世の引力と常夜の引力に晒される。もしも常夜に引っ張り込まれれば、常夜に逆戻りするだけなので、大した問題にはならない。しかし、万が一あの世に引っ張り込まれれば――氷太朗は二度と現世に戻ることは叶わないだろう。それを見越した魅流は、常夜を出る際、それら『魂を引っ張る力』に抗う結界を氷太朗に施した。

 その結界が消えかけているせいで、氷太朗は引力に晒されているのだ。


「氷太朗さん、一旦常夜に戻って体勢を立て直しましょう」

「わかった……どうやったら常夜に戻れる?」

「私が道を開きます。常夜に戻ったら、影のお姉ちゃんから何があったのか訊いてください。現世のお姉ちゃんと記憶を共有しているので知ってるはずです。その後、どうするかみんなで作戦会議をしましょう」

「了解……」


 氷太朗は歯を食い縛りながら、応える。


「本当に……大きくなったね、美夕ちゃん……」

「私ももう中学生ですから――始めます!」


 美夕は右の手のひらと左の手のひらを合わせると、小さな声で何かを呟き始めた。何と言っているかわからないが、呪文や結界を発動させる詠唱であることはすぐにわかった。

 直後、氷太朗は美夕の影に包み込まれた。

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