わたしの、美しい時間

凪村師文 

☆わたしの、美しいセカイ☆

新宿から車内は一気に騒がしくなる。わたしの知らないアニメの仮装を着た男たちが隣に立っていて、肩を抱き合っていた。そうか。今日はハロウィンだっけ。そんなことを思いながら、わたしはまた、昨日、学校の近くで買った本に目を落とす。


 山手線の運転手は運転が荒いというのは、この路線を使い始めて気づいた。まあ、山手線に限らず、JRの一部の運転士と言った方が良いのかもしれない。そんなこんなで、揺れるたびに男の肘が当たる。そんなことはどうでもいいし、電車に乗るなら他人の体が当たるのは当たり前だ。わたしは、このいつもに増して騒がしいこの空間に嫌気がさしていた。今日という日に限って、委員会の仕事が長引き、帰宅の電車に乗り込んだのは五時頃だった。夜に近づくだけ仮装をした馬鹿みたいな若者が増えるのに、そういう日に限って遅い電車に乗ることになってしまった運の悪さに呆れる自分がいたのだ。


 渋谷で降り、さらに増す仮装をした人の波をかき分け、地下通路へ続く階段を下りる。なぜ人はこんなにも他人と触れ合うことが好きなのか、わたしにはわからないし、わかる必要もないと思う。乗り換えのために改札を抜け、丁度ホームに入ってきた急行電車に乗り込む。相も変わらず仮装した人であふれていて、さらに億劫になる。


 満員電車に耐え、やっとの思いで家の最寄り駅に着いた。外に出て、わたしの視界には最初に満月が目に入った。わたしは知らないうちに電車の中でたまっていた鬱憤を晴らすように一つ大きな息をつく。そうして、目前に広がる坂道を登り始めた。道路を車が通り過ぎる。静かな日の暮れた住宅地に、ただ車のエンジンの音と、風を切る音が響く。わたしの耳には、その音がやけに気持ち良い音に感じた。さっきの喧騒とは違い、騒音がやけに心地よく感じるのだ。


 坂道を登り切り、左手に見えてきたのは誰もいない公園だった。いや、一人の男が暗い中で小さな文庫本を読んでいる。明らかに怪しげな男であるのはわかっていたけれど、わたしは何か興味を惹かれて公園に入り、その男に一番遠い椅子に腰を掛けた。座ったわたしの耳に届くのは、その男がページをめくる音だけだった。そう、それだけなのに、わたしはなぜか心の底から幸せを感じた。心地よいこの静けさに、わたしは心を奪われた。

 

 男は、わたしが公園に入ってきたときに一度こちらに視線をよこしたけれども、それっきりわたしには何も興味がないようで、こちらを向くことは無かった。一応、わたしも華の女子高校生なんだけどなぁ、とわたしに興味をよこさないことにどこか残念に思いながらも、わたしは鞄の中からスマホを取り出し、写真のアプリを起動した。そうしてスマホのカメラのレンズを夜空に向ける。わたしはなぜかこの満月を、この美しい夜空を写真に収めたくなったのだった。

 

 逆光であることもいとわず、わたしはシャッターをきった。公園にスマホのシャッター音が静かに響いた。男は気にする様子もなく、相変わらず本を読んでいた。あれ、何か頬に熱い水滴を感じた。それをたどると、目の端に行き当たる。そこでわたしは気づいた。ああ、わたしは涙を流しているのか、と。不思議には思わなかった。男の前だけれども、恥ずかしいとも思わなかった。流れることに抗うことをせず、そのままわたしは綺麗な夜空を見上げていた。涙もろい自分に内心驚きつつ、この水滴の温かさが不思議と気持ちよかった。

 

 人は疲れやどうしようもない嫌気を感じると負の感情に支配されがちだと聞いたことがあった。どうやら想像以上にわたしは心に疲労を感じていたらしい。最近は家に帰るなり、食事もお風呂も忘れてベッドで眠りこけることが多かった。中学のクラスの雰囲気になじめなくて、中高一貫だったのに高校受験をして、心機一転して晴れて進学したはずの期待に満ちた新生活。けれども実際は違って、慣れない高校生活と、どこか居心地の悪さを感じていた教室。幼いころから騒がしいことが苦手で、一人で静かに過ごしてきた。正直言うならば、わたしは学校にも行きたくない。自分の部屋というわたしだけのセカイに引き込まってずっと本を読んでいたかった。


 今の生活と、わたしの理想のセカイとの差にわたしは耐えられなかったようだ。もう、視界がにじんで夜空どころではなかった。ただ、わたしの頬を伝う温かい水滴に温もりを静かに感じていたかった。イヤホンを耳にはめ、お気に入りのピアノの曲を流す。聴覚は大好きなピアノの音に支配され、わたしはにじむセカイに映る、ひたすらに輝く一等星を静かに眺めていた。

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