ある日、幼馴染みが言った。「ごっこでいいから、結婚しよう?」と。
機村械人
プロローグ 結婚ごっこ
「やっと来たわね。待ちくたびれたわ、
ある日、俺に婚約者ができた。
彼女の名は、
大企業を経営する東城一族の令嬢であり、俺の通う進学校の同級生でもある。
梨乃は、その血筋や肩書きと比較しても何ら遜色のない、いや、そんな血筋や肩書きに相応しい外見をしている。
艶やかで長い黒髪。
頭の後ろには、いつも椿の花を象った髪飾りをつけている。
椿は東城家の家紋にも使われている花らしい。
切れ長の瞳に、朱を引いたように赤い唇。
スッと通った鼻梁。
立てば芍薬、座れば……なんていう使い古された言葉が、正に肉体を得て降臨したような姿。
上品な美しさと近寄りがたいオーラを纏った、ミステリアスな麗人。
学校の中を歩けば、十人中十人が振り返る、それくらいの美人である。
そんな彼女が、俺の名を呼ぶ。
ここは、放課後の校舎。
広々とした空き教室。
普通なら、何か用途がなければ入れない場所だが、東城梨乃なら何の許可も必要なく使用を許される。
教師も黙認している。
夕刻の日差しが差し込む会議室内。
俺は椅子に腰掛け、梨乃はその前に立っている。
「今日は、何故呼び出されたのかわかっているのかしら」
「ええと……」
俺は言い淀む。
何故、呼び出されたのか。
思い当たる節がない――というわけじゃない。
むしろ逆だ。
理由が、いくらでも考えついてしまうからだ。
例えば――何故、今日の朝8時ちょうどに校門前で自分を出迎えられなかったのか。
例えば――読破しておくようにと言った海外の文学書を、何故全く読み終えていないのか。
例えば――制服には縒れ一つ皺一つ、汚れ一つつけず清潔に保てといっているのに、どうしてそれができていないのか。
どんな理由が来るか想像できないし、いくらでも想像できてしまう。
それこそ、昼食に食べた学食のメニューさえ彼女が気に入らなかったのではないかと、そう疑心暗鬼に囚われてしまうくらいだ。
発言に言い淀む俺を前に、梨乃は「ふぅ」と溜息を吐く。
呆れ果てた、まるで出来の悪い子どもを前にした教育熱心な親のような、そんな溜息。
もう高校二年生の俺にとっては、著しく自尊心が傷付けられる溜息だった。
「理由を問い掛けているだけなのに、何故言葉の一つも発しないのかしら? まともに会話も出来ないの?」
「いや、その……」
「私はわかっているのか、と聞いているの。ハイかイイエで済む質問よ?」
返答しようとした矢先に、こんな言葉を続けてくる。
そうなれば、相槌を打つ気力すら奪われる。
「いつまでも黙ったまま。言葉も喋れないの? もう一度聞くわ。私は何故呼び出されたのかわかっているのか、と聞いているのよ」
「……イイエ」
「考える時間は
再び溜息を吐く梨乃。
「今日の朝、校門前に登校した私を何故出迎えに待機していなかったのかしら。東城の婚約者として当然の務めと、以前言ったはずよ?」
ああ、やはりその事だったか。
梨乃は毎朝、運転手付きの車で学校に登校してくる。
俺は、校門の前で彼女の到着を待ち、出迎え、一緒に校舎へと登校すると決められている。
この学校には、少なからず梨乃の家とも親交のある起業家の親族も通っているようで、そんな周囲へのアピールの意味もあるとか。
頭の中に浮かんだ候補の一つに入っていたが、結局答えるタイミングはとっくの昔に逃してしまっている。
俺は彼女の簡単な質問にも答えられない暗愚として、黙ってネチネチとした質問攻めを受け続ける。
「指定された場所で待つなんてことは、躾のされた犬でもできることよ。あなたは犬未満なの? 修太郎さん。私は犬未満の存在を婚約者と公言できるほど恥知らずではないわ。わかっているの?」
梨乃の容赦無い言葉の数々に、自己肯定感が欠落していく。
「それにあなた、今日の昼食の時間。あれはどういうつもり?」
昼の時間。
俺は時々、梨乃と一緒に昼食を食べる。
まさか、本当に学食のメニューが気に入らなかったのか?
「あなた、私よりも後に食事を終えたわよね」
「あ、ああ……」
それは、梨乃よりも先に食べ終わったら、彼女に早く食べるようにと急かしている形になってしまいそうで、ペースを合わせたのだ。
「気遣いができていないわ。私があなたよりも先に食べ終わったら、まるで私が食い意地の張った女のようでしょう」
まったく……と、梨乃はわざとらしく額を押える。
俺は、梨乃に気を使ったつもりだった。
けれど、その判断は間違っていたようだ。
こんな事が今まで何度もあった。
俺が良かれと思って、正しいと思ってやった事は、ことごとく間違いなのだ。
「どうしたの? 修太郎さん。顔色が悪いけれど」
そう聞かれても、声が出ない。
何と返答すれば良いのか、わからないのだ。
体調を心配されている――ただそれだけの、簡単な会話だ。
なのに、それさえ何と答えるのが正しいのか、わからない。
「……何か言ったらどうなの? その口は飾りなのかしら?」
呆れ顔で言う梨乃。
……俺は駄目だ。
なんでこんな受け答えすらできないんだ。
「……修太郎さん、『矯正』よ」
そこで、梨乃が呟いた『矯正』という言葉に、俺は腹の底に重い何かが落ちていく感覚を覚えた。
「明日までに、さっき述べた問題点に関する内容の再認識と、改善行動の提示。原稿用紙に無駄なく纏めてきなさい」
『矯正』――それは、梨乃が俺に与える、自身の婚約者に相応しい存在に育てるための糧。
その実態は、彼女の意に反した行動をしてしまった事に対する、罰でしかない。
「わかったの? 修太郎さん」
俺はやっと「……ハイ」と声を絞り出した。
■□■□■□■□
「はぁ……」
夕暮れ前、学校近くの公園にて、俺はベンチに腰掛け項垂れている。
今日もやっと、梨乃から解放された。
といっても、明日までに宿題を出されてしまっているので、それも短い間だけなのだが。
こんな人生が、これからずっと続くのだろうか。
気を張り詰め、常に緊張し、心臓の痛みと共に生きながら、何が楽しいのかわからない人生を歩んでいくのだろうか。
それとも、いつかは慣れて、何も感じなくなれるのだろうか。
まだ17歳なのに、どうしてここまで人生に絶望しなければいけないのだろう。
「………はぁ」
再び溜息を吐く。
その時だった。
「よっす、修太郎!」
俺の前に、一人の女子高生が現れた。
「
俺は、眼前の女子高生を驚いた表情で見上げる。
短くボーイッシュにカットされた茶髪。
女子にしては少し高めの背丈。
カッターシャツの首元にはリボンタイ、下は短いスカートという爽やかな格好で、膝にサポーターを装着している。
学生鞄の持ち手に両肩を通し背負っているのが、年齢と性別に似合わず幼く悪戯小僧っぽい印象を受ける。
しかし、同年代と比べても比較的立派に成長した胸や尻が、アンバランスな色気を醸し出している。
彼女は、
俺の幼馴染みだ。
女子バスケ部に所属している、ボーイッシュでスポーティーな少女。
家もご近所同士で、物心ついた頃から一緒に居た。
気付けば小学校、中学校、高校も同じ学校に進学していた。
「どうした、元気ないね」
「ん……ああ」
いつもの調子で声を掛けてくる蜜香に、俺はしかし、曇った表情のまま返す。
すると、蜜香も口籠もってしまう。
「だい、じょうぶ? なんだか、いつもの修太郎らしくないけど」
「あ、いや、そんなこと……」
ごく自然な動作で、蜜香は俺の隣に座り、心配そうな表情で顔を覗き込んでくる。
顔が近い。
思わず照れて、俺は顔を逸らした。
「ひ、久しぶりだからな、蜜香と話すの。なんだかんだで」
「ああ、うん、まぁね。アタシもほら、最近は部活の方に熱中してたし。それに……」
蜜香は、双眸を伏せる。
「修太郎、婚約したでしょ? ……あんまり、女のアタシが、修太郎の近くでうろちょろしてるのも迷惑かと思って」
俺と蜜香は、いつも一緒に居た。
それこそ男女の垣根を越えて、仲の良い友人同士だった。
しかし、俺の婚約が決まり、梨乃と行動を共にする事が増えてから、蜜香は俺の近くに来る事が無くなっていた。
まさか、そんな風に思っていたなんて……と、俺は思う。
「そんなこと……気にすんなよ。お前が近くに居たって別に――」
そこで、俺はハッとする。
そんなことを言えば、梨乃が何と思うだろう。
婚約者がいながら、不用意に女性と近しい態度を取っていれば、周囲に何と思われるか。
そんなことも配慮できないのか――と。
「そ、そうだな。ありがとう、蜜香。気を使ってくれて、助かるよ」
そんな俺の発言に、逆に蜜香が驚いた顔になった。
「そ、そんなに畏まらなくたって……やっぱ、修太郎らしくないなぁ。どうしちゃったの?」
「……俺らしくない、か」
はぁ、と、俺は盛大に溜息を吐く。
自己嫌悪が募っていく。
「……なぁ、蜜香。俺、自信がないよ」
久しぶりに蜜香の顔を見たら、なんだか、溜まっていたものが決壊してしまった。
「ど、どうしたの?」
「梨乃さんに相応しい婚約者に、なれる気がしない。毎日毎日、自分は駄目な奴だって、そう思わされるだけの日々で……もう、死んじまいたいよ」
蜜香は、憔悴した俺を心配する。
そんな蜜香を前に、俺は弱音を吐き続ける。
溜まりに溜まった鬱憤を、久しぶりに会った気の置けない幼馴染みに、甘えるかのように。
「大変だね……修太郎」
俺の話を聞き、蜜香は同情するように優しい目を向けてくる。
「元気出しなよ」、と、肩に手が置かれた。
距離が近いので、彼女の胸が二の腕に当たる。
友達のような距離感で、当たり前のように接する蜜香。
そんな彼女に、俺はドキドキを隠せない。
……ハッキリ言ってしまえば、俺は蜜香にずっと恋心を抱いていた。
長年一緒に居れば、自分の気持ちくらい気付くときが来る。
俺は、すぐ間近の蜜香の表情を見る。
蜜香はほんのりと頬を桃色に染め、視線を逸らしている。
自分からやっておきながら、俺に接近したり、触れる事に緊張しているような、そんな顔。
そう――この人生の中で、俺が理解した感情は、自分の蜜香に対するものだけじゃない。
蜜香が俺に対し抱いている感情も、一緒のものだと、いつの日からか感じ取っていた。
――俺達は互いを意識しながらも、二人とも奥手で一歩前に出ることが出来ずにいた。
それでも、高校二年となった今、告白しようというところまで来ていたのだった。
『蜜香、明日、俺の家に来ないか?』
やっぱり、男の俺から告るべきだな――と、決心した日。
学校からの帰り道。
コンビニでアイスを買い食いし、もうすぐ家の前というところで、俺は蜜香にそう言った。
『大事な話があるんだ』
雰囲気を感じ取った蜜香も、覚悟したように頷いていた。
……まさかその日の夜に、両親から婚約の話をされることになるとは、思ってもいなかったが。
そんな経緯があった手前、蜜香と顔を合わせるのもバツが悪くなり、更に梨乃と婚約するということで色々ゴタゴタがあり。
あれよあれよという内に、彼女とは疎遠になってしまっていたのだ。
「まぁ、でも、あれだね。梨乃さんに同情するよ。こんな修太郎を上流階級の人間に育成しなくちゃいけないなんて。柴犬にテーブルマナーを教えるようなもんじゃん」
「うるせぇ、誰が柴犬だ」
「柴犬じゃん。修太郎ってば、黒柴って感じ」
「お前は昔から何故か俺に対して黒柴のイメージを持ってるよな。つぅか、俺だって頑張ってんだよ、色々と」
んふふー、と、昔から変わらない笑い方をする蜜香。
そんな彼女を相手に、俺は愚痴を零し続ける。
「でも無理なもんは無理なんだよ。合わないんだよ、あの人と。なんか、当たり前みたいに自分の思ってることや考えてることを、俺が察知できて当然みたいに言うんだぜ? 疲れるよ」
「あー、そりゃ大変だ。テレパシーが使えたらいいのに」
「そう、正にそれ! あの人、俺がテレパシー能力持ってる前提で会話してきてるのかな?」
「あはは、難易度高っ。アタシも無理そうだなぁ、上流階級。超能力者じゃないと務まらないじゃん」
ケラケラと軽妙に笑う蜜香を前に、俺は完全にリラックスしていた。
思っていた事がそのまま口から出る。
「マジで、貴族の価値観ってよくわかんねぇんだよ! 毎朝一緒に校門から教室まで登校するだけだぜ? それで周囲に婚約関係をアピールするって、それ必要あるか!? 伝言でも通知でも、『私達婚約しました』って通達するだけでいいんじゃねぇの!?」
荒ぶる俺の姿が面白いのか、蜜香は「うんうん」と相槌を打ちながら、合間合間で「んふふふ」と含み笑いを漏らす。
そんな蜜香の反応が心地良く、俺は久しぶりに楽しい気分を味わった。
「アタシも同感だなぁ。なんでも思ったこと口に出して、考えてること言い合える方が楽だしなぁ。多少乱暴なこと言われても相手によっては全然気にしないし」
「わかるわかる、そりゃ言葉遣いとか礼儀とかは必要だとは思うけど、気に掛けなくちゃいけない事や責任持たなくちゃいけない事が多すぎて目が回っちまうよ。もっと楽に生きたいぜ」
「えへへ、修太郎のそういう素直なところ、好きだなぁ」
軽妙で楽しいやり取り。
蜜香と一緒に居ると、摩耗していた自己肯定感が回復する。
蜜香が、俺を肯定してくれる。
「ああ、なんかお前と徹夜でFPSしてた時代が懐かしいよ」
「時代って」
笑う蜜香。
「でも、悪かったな。お前、部活の朝練があるだろ? なのに、いつも俺に付き合わせちゃって」
「何ガラにもないこと言ってんの。修太郎と遊んでて、そんなこと気にしたこと一度も無いし」
カラカラと笑った後、蜜香は言う。
「でも、修太郎ってばこんなにアタシに気を使う人間だったっけ? 流石、梨乃さん。ちゃんと修太郎の育成が出来てるね」
「はは……まぁな」
「でも――」
そこで、蜜香は視線を落とす。
「アタシは、いつもの修太郎の方が良いな。全然気なんて使ってくれない、がさつだけど……なんていうか、一緒に居て楽しい修太郎の方が」
「なんだよ、がさつで気遣いの出来ない唐変木の方が、こっちも気を使わなくて楽って意味か?」
「そういうこと」
「こいつ!」
俺は、蜜香の頭をぐしぐしとかき回す。
「あはは!」
蜜香も、お返しとばかりに俺の肩に腕を回してグイグイと引っ張る。
「はーあ……」
そんなやり取りを交えつつ、一通り笑ったところで、俺はぽつりと呟いた。
「お前が結婚相手なら良かったのにな」
思わず、そんなことを言ってしまった。
夕焼けの明かりが照らす、公園。
薄暗い、遠くを走る電車の音くらいしか聞こえない。
動きを止め、俺達二人は黙りこくる。
「あ、アタシが結婚相手って……や、やめろよー」
笑って誤魔化す蜜香。
「アタシ、修太郎のこと偉そうに言えないくらい、がさつだし……」
「でも、一緒に居ると楽だろ」
「……アタシ、清楚とかそういう感じじゃないし……女の子っぽくないし」
「十分女の子っぽいよ。良い匂いするし、体も柔らかいし」
「へ、変な事言うな……」
「そうやって、恥ずかしがって照れるところも……」
「………」
「俺は、かわいいって、ずっと何年も思ってた」
「………」
その場に、沈黙が流れる。
自然と、俺の手は蜜香の手に伸ばされていた。
蜜香の手も、自然に俺の手に手を合わせる。
「……ん」
蜜香の喉から、むず痒そうな声が漏れた。
ベンチの上で、手を繋ぐ。
互いの指先を擦り付け合う。
今はそんな行為でさえ、愛おしい。
……ああ、このまま、時間が止まれば良いのに。
蜜香と二人のまま、この瞬間が永遠に続けばいいのに。
馬鹿らしい願望。
そんな恥ずかしい想像を、平気でしてしまう。
「……修太郎」
そこで、胸が締め付けられる思いに駆られていた俺の名を、蜜香が呼んだ。
「結婚しよう、修太郎」
その瞬間、正しく時間は止まった。
制止した空間の中で、俺は蜜香の顔をただ見詰めることしか出来なかった。
「は……」
やがて、やっと、俺は声を発する。
「結婚って、お前……何、言ってるんだよ」
心臓の鼓動が増す。
その真意がどうであれ、蜜香が自分に言った台詞は、あまりにも現実離れしていると同時に……あまりにも、道理から逸した言葉だったからだ。
だってそれは、端的に言ってしまえば『浮気』というものだ。
「あ、あくまでも、ごっこだよ。遊びで。それなら、梨乃さんにだって言い訳が立つでしょ? だって、本気じゃないんだから」
そう慌てて言葉を追加した後、蜜香は赤らんだ顔のまま、真剣な表情になる。
「修太郎は……嫌?」
「………」
「アタシ、修太郎が辛い顔してるの、嫌だよ」
蜜香は視線を伏せて言う。
「少しくらい、少しくらい、いいじゃん。嘘でも、遊びでも、修太郎が修太郎らしくいられる場所があったって。アタシ……修太郎が、死んじゃいたいとか言うの、嫌だよ」
子どもの頃からずっと一緒だった。
将来は結婚しよう――なんて、微笑ましいやり取りも子どもの頃にしたと思う。
互いに奥手ながらずっと意識し合い、同じ学校にも進学し、恋人になる寸前の関係だった。
しかし、俺達は引き裂かれ、もう恋人にも……一緒になることも出来ない。
偽物でも、お遊びでも、ただこの現実から離れて、理想の人と一緒になる夢を見たい。
見たって、いいじゃないか。
蜜香も、そう望んでくれている。
何より、彼女が絞り出すように紡ぐ懸命な言葉の数々を聞いて、断れるはずがない。
「……な、なんてね! やっぱり嘘! 冗談冗談、本気にしないで!」
沈黙に耐えきれなかったのか、正気に戻ったのか。
そこで蜜香は恥ずかしくなって、大慌てで発言を取り消す。
蜜香らしい――と、俺は思った。
蜜香は時々、こちらが驚くような思い切った発言や大胆な行動を起こすことがある。
そしてその後、ハタと正気に戻ると、大慌てで焦って前言を撤回するのだ。
よく知る幼馴染みの姿を前にして、俺はほとんど衝動的に動いていた。
鞄をあさり、奥からそれを取り出す。
「修太郎?」
「……本当は、お前に告白するとき、渡そうと思ってたんだ」
俺が取り出したのは、指輪だった。
「嘘……そんなの、用意してたの?」
「……色々考えてたんだよ、俺なりに」
蜜香の指のサイズは知っている。
彼女の家に遊びに行ったとき、アクセサリーのリングを調べたのだ。
たかが付き合おうという告白に、わざわざ指輪を用意するなんて、世間的に見たらちょっとおかしいのかもしれない。
でも、つまりそれが、がさつで不器用な、俺なのだ。
俺は箱から指輪を取り出し、それを蜜香の薬指に嵌める。
「……修太郎」
ゆっくりと、蜜香は俺の目を見詰める。
眼に宿った光は、よく知る幼馴染みの、いつもスカッとしていて晴れ渡った青空のような、そんな光ではない。
熱情に満たされ、色気に満ちた、女の目をしていた。
「……病める時も、健やかなる時も」
そこで、蜜香が言う。
ごっこ遊びらしく。
「妻を愛することを誓いますか?」
誓います、と、俺は答える。
「妻、蜜香は、いかなる時も夫を愛することを誓いますか?」
誓います、と、蜜香は答えた。
互いに誓いを立てたなら、次にする事は一つしか無い。
熱に浮かされ、脳のぼやけた俺は、自然とその動作に入る。
蜜香もまた、そんな俺の行動を、拒むことなく受け入れる。
「……ん」
夕日の落ちかけた公園の薄闇の中で、俺達は誓いのキスをした。
触れた唇の、柔らかい感触。
鼻腔をくすぐる、清潔な洗剤の匂い。
喉の奥で小さく発せられた、淡い少女のような声。
その一瞬の全てが、俺の中に残る。
絶対に忘れられない記憶になる。
「……ねぇ、修太郎」
互いの唇が離された後、俺は蜜香の顔をすぐ目の前で見る。
頬を紅潮させ、これ以上無いほどときめいた表情をしていた。
「アタシ、今、人生で一番幸せ」
嘘なのに。
遊びなのに。
何一つ偽りの無い笑顔で、蜜香はそう言ってくれた。
こうして俺達は、子どものような『結婚ごっこ』を経て、嘘っぱちの夫婦になった。
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