7 突き落とされる
眼下に広がるのは、深い森。私とマルコは今、崖の上に立っている。
ここから先は人里がない。崖に沿って歩けば人に見られることなく隣国に辿り着ける、とマルコが教えてくれた。
内心ヒヤヒヤしていたから、一応逃してくれるつもりなのが分かってよかった。
マルコから借りた短剣で、鷲掴みにした髪を遠慮なく切り落としていく。
「おお、なんと尊い……っ」
マルコは震える手で、私から白髪の束を受け取った。お陰様でツヤツヤに戻っている。ふふん。
次に、短剣を手首に押し当てる。息を止め、一気に引いた。
「ツ……ッ!」
ボタボタと流れる血を、白髪に振り撒く。白に沈んでいく赤色が、痛々しい。
もういいかなといったところで、手首に手のひらを当てた。ポワ、と淡い光が浮き出す。血が止まり、傷口が塞がった。
実のところ、私の聖力は対瘴気浄化特化型で、治癒には向いていない。私が十分に回復できず倒れたのは、この偏りが原因だと以前神官が言っていた。つまり、治癒は不得意分野。
今回は、ここに来るまで聖力を溜め込んでいられたからうまくいった。でも、毎日祈りを捧げていたあの時だったら、間違いなく発動しなくて出血多量で死んでいただろう。
そんな微妙な技なのに、今回わざわざ目の前で使ってみせたのには、勿論理由がある。
「素晴らしい……!」
この護衛騎士は、国土全体に加護を送るなんていう曖昧なものより、目に見える力の方が信じやすいだろうからだ。
これまでは、治癒を見せる機会がなかった。でも、これでマルコも私がちゃんと聖女だと完全に信じるんじゃないか。
「道中、頭部が腐り始めて臭くてこれ以上持っていられなかったと言えば大丈夫でしょう。万が一疑われた場合は、血痕を祈祷台に置いて下さい」
「祈祷台に?」
「ええ。聖女の血だけでも、反応するそうですので」
「……承知致しました」
私を偽聖女と言っていた彼らがどこまで信用するかは正直微妙だけど、私の知ったことじゃない。あとは自分の力で何とかしてね、だ。
短剣をマルコに返せば、別れの時だ。
「ではここまでありがとうございました。どうぞ息災でお過ごし下さいませ」
聖女らしい微笑みを浮かべて言ったのに、マルコは立ち尽くしたまま何も言わない。
無表情なのが、やけに不気味だ。
嫌な予感がして、さっさと離れようとくるりと背を向けた、その瞬間。
「――臆病な私をお許し下さい!」
「へっ」
とん、と背中を押された。は?
「え、え、ちょ……っ」
「私には、アルベルト様を前にして嘘を吐き続ける自信がないのです!」
つまずいた私は、よろけながら崖に近付いていき――。
「マルコ、」
「神もきっと、貴女を大切に思う私になら神罰をお与えにならない筈!」
ちょっと待て、なんだその自分勝手な理屈は。
「え、ま――っ」
踏ん張ろうとして、片足が空を踏んだ。
あ。
「愛おしい私の聖女ルチア様、何卒お許しを!」
こいつ、嘘がバレたら嫌だからって、私を殺す気なの!? しかも自分なら大丈夫だろうって、どんだけ自信家なのよ!
「マルコ……! ふざけ……っ」
私の罵りの言葉は、最後まで言うことができなかった。
何故なら。
「……――きゃああああああオエエエエエッ!」
浮遊感の後に押し寄せてきた落下速度の凄まじさに、胃がひっくり返りそうになったからだ。
キモチワル、え、これ私死ぬ!? 死ぬやつ!?
「ルチア様! お許しを!」
絶対許す訳ないでしょ! と言いたかったけど、
「……ウオエエエッ!」
になってしまった。
容赦なく襲いかかる風圧に頭の中が恐怖で一杯になった、その時。
――ドンッ!
という激しい衝撃が身体全体に走り。
私の意識は、吹っ飛んだ。
◇
……身体中が痛い。
瞼をゆっくりと開けてみたけど、視界が霞んでよく見えない。
指を動かそうとした途端、全身に鋭い痛みが走った。
「――カハッ!」
呼吸ができない。ブワッと恐怖に襲われる。
どういう状況なのか、全然分からなかった。怖い、嫌だ死にたくない! という自分の叫び声が頭の中に響き渡る。
落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせた。身体の中の聖力を、痛みが強い部分に集中させる。
城から追い出されて以降、マルコの目の前で傷を治してみせた以外、聖力を使わなかった。だから、不得意でも致命傷になりそうな場所から治していけば、きっと助かる筈。
最も痛みの強い部分、背中に聖力を集中させる。
優しい温かさと共に背中がググ、と盛り上がっていく。
な、なに。どういうこと?
背中の痛みが消えると同時に、息苦しさもなくなっていった。身体が横に傾く。
背中に当っているのは、どう考えても尖った出っ張りだ。
何度も瞬きを繰り返している内に、ようやく視力が戻ってくる。
「ゴホッ」
咳と共に口から飛び出してきたのは、血反吐だった。
ギョッとして背中側を目だけを動かして見ると、血まみれの尖った岩が見える。
どうやら、衝突の際この岩に背中を突き刺してしまったらしい。
心臓だったら即死だったと思うと、再びゾゾゾッと恐怖が押し寄せてきた。
「ぐ……っ」
手も足も頭も痛い。……どうして私がこんな目に遭わないといけないの。
それと同時に、ハッとする。私が生きていると知ったら、マルコがとどめを刺しに来るんじゃないか。
頭に聖力を集中させている内に、首が動かせるようになってきた。上空に切り立った険しい崖が見える。――人影は見えない。私が気を失っている間に、死んだと判断して立ち去ったんだろう。
……晴れ渡った青い空を見ていたら涙が勝手に溢れ出てきて、止まらなくなる。
「う……っうう……っ」
怖い。人の無自覚な悪意が、ただひたすらに怖かった。
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