鰊のショートストーリー

明日和 鰊

第1話あの日に戻りたい

「あ~あ、あの日に戻れればな~」

 卒業式の前日、将棋部の部室の片付けに集まった同級生に、田中はいつものグチを始める。

 今まで何度も同じグチを聞かされた同級生は、ウンザリとしていた。


 「だってあんなチャンス、二度と来ないぜ。学校のアイドル姫野さんと、俺みたいなモブキャラが口をきくなんて」

 ロッカーの汚れを雑巾で拭き取りながら、田中は同級生と雑談を始める。

「試験中に、消しゴム拾ってくれって言われただけだろ」


 田中は手を止めて、同級生に向き直る。

「彼女が落とした消しゴムに『インエクスオラブル』のロゴシールが貼ってあったんだって、いつも言ってるだろ」

「お前が好きな、海外のマイナーなデスメタルだっけ。確かにお前以外に学校にファンがいるとは思ってもいなかったけど、姫野の視線に照れて拾う事も出来なかったお前に、それだけで何が変わるんだよ」

 嫌がらせと思われた田中は、試験後から姫野に挨拶すらされなくなった。


「それをきっかけに会話が出来るようになれば、可能性もあったよ。多分」

 そう言って田中は窓の外を見る。

 晴れてはいるが雲も多く、薄暗く感じる。

 モヤモヤしている自分の心を映しているようだと、田中は思った。


「お前ら、サボってないでちゃんと掃除しろよな」

 ほうきで床を掃いている他の同級生が二人の行動を見とがめて注意をすると、二人は無駄話を辞めて、ダラダラとロッカーを拭き始めた。

「あの日に戻れればなぁ」

(その願い叶えてやろう)


 田中の頭の中で声が響き、気付くと彼はあの日の教室で試験を受けていた。

 目の前には田中をじっと見つめる隣の席の姫野がいる。

 何が起きたかは理解できなかったが、何をすべきかは思いだし、床に落ちた消しゴムを急いで拾う。

「はい、ぼ、ぼくも好きなんだ『インエクスオラブル』」

 田中は消しゴムを渡す時に小声で呟く。

 すると試験が終わると、姫野の方から田中に話しかけてきた。

 それをきっかけに二人は趣味の話をするようになり、田中は一年後に告白をした。


「ごめんなさい、田中君の事はお友達としか見えないの」

 田中の出した手を姫野が握り返す事はなかった。

「田中君とは好きな音楽も似ていて話をしてても楽しいけれど、それは恋愛とかじゃないから男の子でも普通に接することが出来たの」

 姫野は困ったように地面を見ている。


 田中は空気を掴んだままの手を引っ込めてクルリと振り返り、水飲み場の方へ立ち去ろうとする。

「僕の方こそ、急にごめん。じゃあ」

「ま、まって。私『インエクスオラブル』を聴いている人とリアルで知り合えたこと本当にうれしかった」

 姫野は次の言葉を告げるかどうか迷っていたが、覚悟を決めて口にした。


「田中君さえ良ければ、ただのお友達に戻れないかな?」

「……うん。じゃあ、また明日」

「また、明日ね」

 田中は教室に戻っていく姫野の方を振り返れなかった。

 姫野の残酷な友達継続宣言に、なんとか我慢していた涙が止まらなくなっていたからだ。


 しかし『インエクスオラブル』を知っている同級生に会えたという喜びは、田中自身があの日に感じた最もうれしかった出来事だった。

 同士とも言える貴重な友達を失う寂しさが、最初の人生で後悔してきた最も大きな理由だった事に田中はやっと気付く。


 水飲み場で赤くなった顔を洗い、鼻をかむと田中は妙にスッキリとした気持ちになっていた。

 運動会、文化祭、それらの様々な出来事が走馬灯のように思い出として忙しく頭の中で流れ、気がついたら卒業式の前日、田中は部室の片付けをしいた。  


「残念だな、姫野と高校が違って」

 振られた事を知っている同級生が、ロッカーを拭きながら田中をからかう。

「おい、やめてやれよ。俺たちみたいなモブキャラの中から、あの姫野に告白するやつが出たんだぞ。その勇気をたたえてやるべきだろ」

「褒めてるのか馬鹿にしてるのか、わからない言い方だな」

 ほうきで床を掃いている同級生に笑ってツッコむ田中。 


「ありがとな、気を遣ってくれて。ただ、今でも姫野さんとは仲が良いし」

 そう言って田中は窓の外を見る。

「やらないでウジウジ後悔していた時より、やって後悔した今の方が気持ちが楽になってるんだ」

 田中の目に映る空模様は、最初の人生と変わらぬはずなのになぜか明るく見えていた。



「いいんですか?千年に一度、選ばれた人間のどんな願いも叶えてあげる権利をあんな事に使って」

 田中の見ていた小さな雲の中に、下界からは見えない大小二つの影があった。

 小さい影が大きい影に話しかける。

「男の子は、結局あの女の子と付き合いたかったわけですよね。本来の一生なら、あの男の子は十年後に女の子と偶然再会した時に、あの日の後悔をバネに猛アタックして幸せな家庭を築くはずだったじゃないですか」

「仕方あるまい。ワシが叶えるのはその人間の最も強い願いじゃ。少年の願いは少女と付き合うことよりも、『あの日をやり直したい』と言う想いの方が強かったからのう」

「でも」

「なに、新しい人生も悪くはないようじゃし、問題ないじゃろうて」

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