78. 在りし日の

「手紙?」


「最初は、アルとユールから。結婚することになったと。あまり事情がよくわからないと思っていたら、ロードリー伯爵から知らせが来て、これが事細ことこまかに教えてくれた」


 嬉しかったんだ、と王子は言った。


「二人が一緒になってくれて良かった。ずっと、そうなればいいと思っていたから」


 幼馴染と妹が、惹かれ合うようになってきたことには気づいていた。ほんの少しも寂しく思わなかったと言えば嘘になるが、それ以上に歓迎するべきことだと思った。妹には幸せになってほしかったし、それを託す相手がユールであるならば、これ以上望める人間はいない。シアラン自身が、誰よりも信じている相手なのだから。


「でも、王都にいる間は、彼らはそれ以上近づかなかった。動くに動けなかったんだろう――私がそこにいる間は」


 気心が知れている反面、長い付き合いは厄介だ。それまで積み重ねてきた関係を築き直すのは、新たに関係を結ぶよりはるかに労力がかかる。子供の頃から、彼らは常に三人だった。シアランは常に、二人の間にいたのだ。


「何度か、それとなく言ってみたこともあるけれど、それくらいではどうにもできなかった。つまり、ここでも私は邪魔だったんだが、だからといって、どこかへ消えてやることもできないし」


 もしできるなら、喜んでそうしたに違いないと思わせる言い方で、王子は軽く頭を振った。だから、と言葉を続ける。


「二人の結婚は良かった。問題は、それが正式に認められるものではないということだ。少なくとも、それがロードリー伯爵の主張だった。彼と王女の結婚を妨害したのは教皇庁の差し金だ、彼個人の名誉を蔑ろにするだけではなく、我が国の現状の混乱につけ込もうとする謀略だと。二人の結婚を無効として、教皇庁のこれ以上の干渉を防ぐべきだと」


「ああ、そういう……」


 そう持ち掛けて、王子を引っ張り出したのか。ミカは以前、伯爵がまさにこの執務室で、勝ち誇ったようにシアラン王子の来訪を告げたときの様子を思い出した。


 一旦授けられた婚姻の秘蹟を無効にするのは至難だ。教皇庁に文句を言うにしても、国内での影響力はそこそこあるといっても一介の貴族が、教皇その人にまで異議を届けられるわけもない。


 しかし、一国の君主であれば別だ。天上の栄光を代弁する教会と、地上を統治する王たちの間には、緊張をはらんだ共生関係がある。スワドの神と教会の権威を受け入れた国の王は誰であろうと、教皇の『最も尊く敬愛する友人』となり、いかなるときも教皇に直接話し合いを申し入れることができる。小国であっても例外はない。


 もっとも、たとえシアラン王子を次代の君主と押し立てて教皇に迫ったとして、『秘蹟』の撤回が叶うかどうかは確かには言えないが……ただ、腹いせに、ミカのような平司祭をどこかに飛ばすくらいなら、それは問題なくできそうだ。


「改めて申し上げておきますが、教皇庁はベルリアの内政に介入するつもりはありません。私がここへ来たのは、修道院に起こる奇蹟の調査のためです。王女殿下とユールを結婚させたのは、単なる成り行きです。おかしな意図はありません」


「わかっている。もしあなたの教会が、本気で我が国に対して何かを企んでいたなら、伯爵の結婚を邪魔するなんて、効果のはっきりしない小細工をしはしないだろう。もっとましな手段がいくらでもあるのに」


 さらりと言ったシアラン王子の表情は平静そのものだった。教会に対する悪意も疑念も浮かんではいない。だがそれは、脅威を認識していないということではないのだ。大陸のどの国の君主とも同じように。


「ただ、どういうことなのかは気になった。伯爵が言うところの『不法なやり方』とは何か。どういうわけで、教皇庁の司祭が派遣されるなんてことになったのか。もし、アルとユールの間に何か困難があるのだとしたら……私はこんなところで、寝ているわけにはいかないと思ったんだ。私の周りでたった一つ、うまく進んだことだったのに。まさか取り消させるなんて、そんなことはさせられない」


 近しく積み重ねてきた関係は、人を破滅に追いやりもするが、そこから救い出しもする。ありがとう、と、ミカを見つめてシアランは言った。


「あなたに感謝している、あの二人を結婚させてくれて。こんなことでもなければ到底叶わなかっただろうし、私もまだ王都でぐずぐずしていたはずだ。まあ……私が結婚式を見られるようにしてくれたら、もっとよかったんだけど」


「それ、さっきも仰ってましたね」


「あの子には、ちゃんとした結婚式を挙げさせてやるつもりだったんだ。花嫁のドレスも着せて」


 そんなものだろうか。ミカは肩を竦めた。王家の標準などは知らないが、庶民の例に比べてみても、ベルリア王家の兄妹は仲がいいようだ。今やたった一人の肉親となった妹に、王子が向ける愛情は理解できるが、結婚『式』だなんて形式がそんなにも重要なものだろうか。


 内心が顔に出ていたのだろう。嘆息したシアラン王子は、そこでミカの表情に目を留めると、微かに笑った。


「家に、昔の花嫁衣装があるんだ。古いものだが、手入れしているから、着ようと思えばそのまま着られる――母のものだ」


 兄妹の母親が死んだとき、妹はまだようやく歩くか歩かないかという頃だった。アルティラには、母の記憶は全く残っていない。他人から伝え聞く母のことしか知らないのだ。


 しかし年長のシアランには、いくらか覚えていることがある。


「きっとアルは、噂話の中の母しか知らないだろう。王国のために健康な息子を欲しがっていて、生まれたのが娘で落胆していたと……それは確かにそうなんだが、だからと言って、母があの子を気にかけていなかったというわけじゃない」


 古い記憶の中で、やつれた母は寝台にいる。遊び疲れて寝入った赤ん坊が、その側に丸まって眠っている。母は痩せた腕を伸ばして、その小さな体をでながら言うのだ、愛おしそうに。


 ――可愛い子。きっと、綺麗な娘になるわね。


「アルが成長したところを見たがっていた。いつか彼女が結婚するときに使えるように、自分の花嫁衣装は取っておくようにと言い遺していたんだ。その頃には流行が変わって着られなくなっているかもしれないが、それでも装飾の宝石なんかは使えるだろうと」


 そして、後に生まれたために母のことを何も知らない彼女に、それを伝えるのが、年長者の務めであったのに。


「アルが好きな男と結婚するときに、着せてやりたいと思ってたんだけど……機を逸してしまった。それが残念なんだ」


「ああ……でもそういうことでしたら、今からでも遅くないですよ。結婚は一度だけですが、結婚『式』は何度やっても別にいいんですし。大体、ここでの『結婚式』は無効ですよ」


 リドワース修道院の聖堂で行われかけたのは、アルティラ王女とロードリー伯爵の実現しなかった結婚なのだ。やり直して何の問題もない、むしろやり直した方が正当というものだ。


 ミカは、あの日聖堂で見た王女の姿を思い出した。銀糸の衣装に身を包んだアルティラは、女王の風格さえある美しさだったが、それは彼女自身に備わったものだ。衣装の装飾の簡素さが、その気品を引き立てていたという面は確かにあるが、もしもっと壮麗に着飾れば、さぞかし見応えのあることだろう。


「王女殿下の『正式な』ご結婚は、どうせ広く公表しなければならないんでしょう。王都へお戻りになったら、宴会だか舞踏会だか、そういったことをすればいいじゃないですか。王侯貴族の方々は、そういうのがお好きでしょう?」


 何となく投げやりになったのは、ミカ自身はそういう趣向に何ら面白みが見いだせないからである。彼の育ちには全く無縁のものだったし、その後、仕事や知人の関係で何度か紛れ込む羽目になったその手の会も、あまりいいとは思えなかった……ただ酒が飲めると聞いていたのに、上流ぶった人々がうろうろして、何やかや話しかけてくるのでは、ろくに飲めもしないではないか。期待外れだ。


 ミカの声音に滲む恨みを聞き咎めたかどうか、シアラン王子は微かに眉を上げた。


「急に雑な意見を言うね。身分は関係ないよ、ああいうことが好きな人種と嫌いな人種がいるだけだ」


「そうでしょうかね」


「そうだとも。あなただって、私が、そうしたものを楽しんだとは思わないだろう」


 さらりと言う言葉に、義足が軽く床を擦る音が重なる。なるほど、確かにそうだ、とミカは納得せざるを得なかった。いささか自分の不明を恥じもした――実際に上流階級に、それもほぼ最高位に生まれて、あの手の催しに加わらないというのは、只酒を飲み損なうよりはるかに辛いことだろうから。


「だが、そうだな、それはいい意見だ。私が楽しまないにしても、人が楽しむなら意味のあることだ。その上、アルが美しい花嫁になって見せてくれるなら尚更いい。確かに、ご機嫌取りはしなくてはならない……あらゆる方向に」


 そう呟く王子の表情は、先刻までの、純粋に妹のことだけを考えている兄のものとは違っていた。王女の結婚は個人の幸せという枠を超えて、王国の慶事である。広く世に知らしめるべきだ。アルティラが美しく幸福な花嫁であればあるほど、人心を惹きつけることができる。王家に対して人心を向かわせることは、シアラン王子を利することにもなる。これまでに失った威信や力を取り戻すために利用できる、重要な機会だ。


 人情に欠けるとか、浅ましいことであるといえばそうかもしれないが、駆け引きもはかりごとも、人の世には避けて通れないことだ。まして、それを治めようとする者には尚更だ。


 何にせよ、やる気になってくれたならいいことだ、と思ったミカは、そこではたと思い出した。もし王子が、少しばかり行儀の悪さに目をつぶってくれるのだとしたら、まだ力になれそうなことがあったではないか。





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