第13章 いつか至るところ
80. 聖職者の不都合な真実
まだ日が上ったばかりだというのに、宿は既にだいぶ
行き先は、ベルリアの聖女ルージェナを称えて開かれる、リドワース修道院の門前市だ。近場の町に住む商人たちには、事前に場所が割り当てられるが、旅の者たちは急いで到着して、場所取りをする必要がある。
また一人、少々出遅れた感のある旅人が、慌てて宿を出て行くのを見ながら、ミカは朝食のパンをかじった。大方の宿の客と違って、彼らは急ぐ必要がない。向かう方向は逆だ。
「おい、ちゃんと食っとけよ。先は結構長いんだからな」
小さな卓の反対側で、いささか不満げに牛乳を飲んでいる同行者――先刻、
リドワース修道院に、正式に選任された新しい修道院長がついに着任したのが、一昨日のことだ。物腰の柔らかい、
とはいえ、その辺りはミカの管轄ではないし、深入りしたくもない。新任者が現れたなら、余計な
新任の院長は、身寄りのない子供を連れていきたいというミカの申し出に、快く応じてくれた。彼らは即日荷物をまとめて修道院を
「……そういやおまえ、修道院を出たんだから、もうそんな
豆入りのスープの中身を、吟味する目で眺めているサナンの俯いた頭で、ざんばら髪の毛先がばらばらの方向に逆立っているのを見ながら、ミカは呟いた。『即日荷物をまとめて』出発するのは、ミカにとっては当然簡単なことだが、しかし長くあの場所に暮らしていたサナンも、同じくらい無造作に準備を済ませたのは驚きだ。理由は簡単で、さして持ち物がないからだった。どれも同じように着古した衣類と、手入れの行き届いた小さな刃物や
「出発する前、この町の店にでも行ってみるか。いくらかましな恰好になるかもしれん」
こんなことなら、もう少し修道院に残っていた方がよかったかもしれない。ここに来る間にすれ違った人々の数を見るだけでも、リドワース修道院の門前市は、思ったより規模が大きいもののようだ。買い物をするには都合がよかっただろう。
サナンにしたって、子供ではあるが娘なのだ、身を飾りたいと気持ちが湧いたかもしれない――あの髪をきちんと切って整えたら、案外見違えるかもしれないのだが……。
「いい」
だが、サナンの答えは簡潔だった。確かめて納得したのか、豆を口に運びながら言う。
「いらない。これでいい」
「食べながら喋らない。口利くようになっただけ進歩だが、飲み込んでからだ。大体、要らなくはねえよ。その靴はどう見てももう限界だし、上着もあった方がいい。買ってやるから、とにかく、欲しいものがあったら言え」
聖都へ到着するまでは、彼女のことは彼の責任なのだ。一度聖都へ着けば、世に稀な能力を持つ破格の『聖女』のために、教皇庁はどんなことでもするに違いないが、それまでの間にも、できるだけのことはしてやりたい。
だというのに、当の本人は、そういうミカの気持ちにはてんでお構いなしのようである。『欲しいもの』と聞いた途端、ぱっと顔を上げると、無言で向こうの卓を指差した。まだ片づけられずに残っている、麦酒の大杯。
「は? 馬鹿言え、それは駄目だ対象外だ。……あのおっさんどもも、朝っぱらからあんな引っかけてどうすんだほんと」
「よる?」
「夜も駄目だ! あのな、酒ってもんは、子供が面白がって飲むもんじゃねえの。基本的に毒だから体に悪い。飲みたきゃ、さっさともっと大きくなれ」
「大きくならない」
「は?」
「もう大きくならない。こどもじゃない」
「何言ってんだ。見てわかる嘘つく奴は地獄に落ちるぞ」
子供ほど、自分は子供ではないと言いたがるものだ。ミカは一蹴したが、サナンはまだ何か言いたいようだ。両手を広げて、彼の前に突き出す。
「うん? 何だよ」
「じいさんと、いっしょにすんで、これだけ。そのまえは、ほんとうにこども。五さいくらいだったって、じいさん言った」
言って、サナンは片手の指を全部曲げる。ミカは愕然とした。五歳のときにあの修道院に暮らしはじめたとして、そこから両手の指十本が経ったということは……。
「……おまえ、十五なの!? マジで!?」
思わず叫びかけて、すんでのところで声を抑える。そんなことはあり得ない。どう見ても、十二、三歳以上ではない。
「じいさん、しんだから」
だというのに、サナンはそう言って更に指を一本折る。完全に呆気に取られ、ミカはまじまじと目の前の少女の姿を見やった。
――十……六? 十六だ……?
だがその姿には、その年齢の娘らしいところは一つもない。背も、小柄な女性と言われて想像するより更に小さいし、肉付きなどはないに等しい。長く過酷な農作業を続けてきたせいか、痩せ方の割には弱々しいと感じさせるところはなく、引き締まった俊敏そうな印象を与えると言えないこともないが、とにかく絶対的に体積が足りない。十六歳の娘に備わっているべき特徴は全く持ち合わせていない。
「もうおとな。どくでもへいき」
薄い肩をわずかにそびやかすように言って、サナンはいくらか自慢げである。これでミカが、彼女に酒杯を拒否する理由はなくなったと思っているらしい。
日頃は感情の乏しいその顔が、どこか期待に輝いているようなのを見て、ミカは驚きの自失から我に返った。朝食のパンが入っている
「だったら、いよいよ酒なんか飲ますわけにいかねえだろ。
「なんで」
「何でもくそもあるか。いいか、歳を取ったら大人になるわけじゃねえんだぞ。もっと体をでかくしろ。大人になるのはそれからだ」
貧しい農夫の生活が厳しかったのは想像がつくが、成長期の子供がこうも小さく痩せたままなのは、およそ健康的とは言えない。聖都へ旅をする間、気をつけて食事をさせれば、いくらか改善するだろうか……。
しかし、ミカのそういう気遣いが、伝わったかどうかは疑わしい。いくらかは不満そうに、しかし従順にパンを手に取って、サナンは小首を傾げて言ったのだ。
「でかくなるのが、いい? でかいむね、ぐっとくるから?」
「!」
とっさに何か言い返そうとしたが、声が出ない――サナンに付き合って飲んでいた牛乳が、喉に詰まったのだ。
「たべたら、むねでかくなる?」
「ば……馬鹿! そういうことは言ってねえよ!」
「むねでかくならない?」
「そこから離れろ! 俺は健康の話をしてんの!」
「でも、ミカはでかいむねがすき。ぐっとくる……」
「もう忘れろ! 忘れてよ頼むから!」
半ば叫ぶように声を上げてしまう。が、途端に、まだちらほらと残っている宿の客から
代わりに深く息をついて頭を抱える。以前、サナンにそう言ったときは、彼女を少年だと思っていた。まさか少女だとは思っていなかった。つくづく己の不明が悔やまれる。
だが、言ってしまったものは仕方がないし、取り返しのつかないことはどうしようもない。ミカは再び顔を上げると、できるだけ
「……いいかサナン、そういうことは、他人がいるところで言うな」
「そういうこと」
「その、胸がどうとかいうやつだ。いろいろと都合が悪いんだ。聖職者なんてのは印象第一なんだから、商売に差し支える」
「ミカ、でかいむね、すきじゃないにする?」
「そういうことじゃなくてだな……。とにかく、胸の話は禁止だ。わかったか?」
何か言えば言うほど、話がまずいことになってくる。きっぱりと言い渡して話を打ち切ると、サナンはじっと彼を見つめて、やがてこくりと頷いた。
「わかった。でかいむね、つごうがわるい」
「…………」
話の要旨は伝わっているといえば伝わっているようだが、本当にこれで良かったのかどうかはわからない。パンに食いついているサナンを見やって、ミカはため息をついた。
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