第13章 いつか至るところ

80. 聖職者の不都合な真実

 まだ日が上ったばかりだというのに、宿は既にだいぶ閑散かんさんとしていた。先を急ぐ旅人たちは、空が白みはじめる頃にはもう出立したのだ。その多くは商人たちで、人の集まる街や市を渡り歩いている。彼らは明日から三日間開かれる市のために、各地から集まってきたのだ。


 行き先は、ベルリアの聖女ルージェナを称えて開かれる、リドワース修道院の門前市だ。近場の町に住む商人たちには、事前に場所が割り当てられるが、旅の者たちは急いで到着して、場所取りをする必要がある。


 また一人、少々出遅れた感のある旅人が、慌てて宿を出て行くのを見ながら、ミカは朝食のパンをかじった。大方の宿の客と違って、彼らは急ぐ必要がない。向かう方向は逆だ。


「おい、ちゃんと食っとけよ。先は結構長いんだからな」


 小さな卓の反対側で、いささか不満げに牛乳を飲んでいる同行者――先刻、一際ひときわ騒々しい一団が景気づけに麦酒をあおる様を物欲しげに見つめていたのを、ミカが懸命に説得して諦めさせた――に声をかける。微かに頷くような仕草の他は、ほとんど音を立てることもなく、サナンは依然として影のように静かなままだ。しかし、時折辺りを見回すその瞳が、抑えきれない好奇心にきらめくのにミカは気づいていた。物心ついて以来、はじめてあの修道院の外へ出たというのだからそれも当然だろう。まして、この先の長い旅路を考えれば。


 リドワース修道院に、正式に選任された新しい修道院長がついに着任したのが、一昨日のことだ。物腰の柔らかい、如才じょさいのなさそうな男で、おそらくベルリア総大司教府は、よほど注意深く人選したのだろうという気がした。長く独自の体制を強いてきたリドワース修道院に対して、この機に完全に主導権を握りたいのだ。


 とはいえ、その辺りはミカの管轄ではないし、深入りしたくもない。新任者が現れたなら、余計な軋轢あつれきを招かないうちに、臨時の院長はとっとと退散すべきである。ちょうど折よくというか、悪くというか、リドワース修道院の一大祭事である聖ルージェナの祭りが、ほんの数日後に迫っていた。普段の年はひと月ほどかけて準備していくことを、一気に片付けなくてはならなくなって、修道院はどこもにわかに忙しくなった……長く修道院預かりの孤児という、何ともはっきりしない立場にいたサナンがいなくなることを、深く気に留める者はいなかった。


 新任の院長は、身寄りのない子供を連れていきたいというミカの申し出に、快く応じてくれた。彼らは即日荷物をまとめて修道院をち、今こうして、聖都スハイラスへ向かう旅の途上にある。


「……そういやおまえ、修道院を出たんだから、もうそんななりじゃなくていいんだよな」


 豆入りのスープの中身を、吟味する目で眺めているサナンの俯いた頭で、ざんばら髪の毛先がばらばらの方向に逆立っているのを見ながら、ミカは呟いた。『即日荷物をまとめて』出発するのは、ミカにとっては当然簡単なことだが、しかし長くあの場所に暮らしていたサナンも、同じくらい無造作に準備を済ませたのは驚きだ。理由は簡単で、さして持ち物がないからだった。どれも同じように着古した衣類と、手入れの行き届いた小さな刃物やはさみ、庭仕事の道具がいくつか……彼女があの小さな掘立小屋から持ち出したものは、それでほとんど全部だ。


「出発する前、この町の店にでも行ってみるか。いくらかましな恰好になるかもしれん」


 こんなことなら、もう少し修道院に残っていた方がよかったかもしれない。ここに来る間にすれ違った人々の数を見るだけでも、リドワース修道院の門前市は、思ったより規模が大きいもののようだ。買い物をするには都合がよかっただろう。


 サナンにしたって、子供ではあるが娘なのだ、身を飾りたいと気持ちが湧いたかもしれない――あの髪をきちんと切って整えたら、案外見違えるかもしれないのだが……。


「いい」


 だが、サナンの答えは簡潔だった。確かめて納得したのか、豆を口に運びながら言う。


「いらない。これでいい」


「食べながら喋らない。口利くようになっただけ進歩だが、飲み込んでからだ。大体、要らなくはねえよ。その靴はどう見てももう限界だし、上着もあった方がいい。買ってやるから、とにかく、欲しいものがあったら言え」


 聖都へ到着するまでは、彼女のことは彼の責任なのだ。一度聖都へ着けば、世に稀な能力を持つ破格の『聖女』のために、教皇庁はどんなことでもするに違いないが、それまでの間にも、できるだけのことはしてやりたい。


 だというのに、当の本人は、そういうミカの気持ちにはてんでお構いなしのようである。『欲しいもの』と聞いた途端、ぱっと顔を上げると、無言で向こうの卓を指差した。まだ片づけられずに残っている、麦酒の大杯。


「は? 馬鹿言え、それは駄目だ対象外だ。……あのおっさんどもも、朝っぱらからあんな引っかけてどうすんだほんと」


「よる?」


「夜も駄目だ! あのな、酒ってもんは、子供が面白がって飲むもんじゃねえの。基本的に毒だから体に悪い。飲みたきゃ、さっさともっと大きくなれ」


「大きくならない」


「は?」


「もう大きくならない。こどもじゃない」


「何言ってんだ。見てわかる嘘つく奴は地獄に落ちるぞ」


 子供ほど、自分は子供ではないと言いたがるものだ。ミカは一蹴したが、サナンはまだ何か言いたいようだ。両手を広げて、彼の前に突き出す。


「うん? 何だよ」


「じいさんと、いっしょにすんで、これだけ。そのまえは、ほんとうにこども。五さいくらいだったって、じいさん言った」


 言って、サナンは片手の指を全部曲げる。ミカは愕然とした。五歳のときにあの修道院に暮らしはじめたとして、そこから両手の指十本が経ったということは……。


「……おまえ、十五なの!? マジで!?」


 思わず叫びかけて、すんでのところで声を抑える。そんなことはあり得ない。どう見ても、十二、三歳以上ではない。


「じいさん、しんだから」


 だというのに、サナンはそう言って更に指を一本折る。完全に呆気に取られ、ミカはまじまじと目の前の少女の姿を見やった。


 ――十……六? 十六だ……?


 だがその姿には、その年齢の娘らしいところは一つもない。背も、小柄な女性と言われて想像するより更に小さいし、肉付きなどはないに等しい。長く過酷な農作業を続けてきたせいか、痩せ方の割には弱々しいと感じさせるところはなく、引き締まった俊敏そうな印象を与えると言えないこともないが、とにかく絶対的に体積が足りない。十六歳の娘に備わっているべき特徴は全く持ち合わせていない。


「もうおとな。どくでもへいき」


 薄い肩をわずかにそびやかすように言って、サナンはいくらか自慢げである。これでミカが、彼女に酒杯を拒否する理由はなくなったと思っているらしい。


 日頃は感情の乏しいその顔が、どこか期待に輝いているようなのを見て、ミカは驚きの自失から我に返った。朝食のパンが入っているかごを相手に押しやる。


「だったら、いよいよ酒なんか飲ますわけにいかねえだろ。あきらめろ。そんで、それ残り全部食え」


「なんで」


「何でもくそもあるか。いいか、歳を取ったら大人になるわけじゃねえんだぞ。もっと体をでかくしろ。大人になるのはそれからだ」


 貧しい農夫の生活が厳しかったのは想像がつくが、成長期の子供がこうも小さく痩せたままなのは、およそ健康的とは言えない。聖都へ旅をする間、気をつけて食事をさせれば、いくらか改善するだろうか……。


 しかし、ミカのそういう気遣いが、伝わったかどうかは疑わしい。いくらかは不満そうに、しかし従順にパンを手に取って、サナンは小首を傾げて言ったのだ。


「でかくなるのが、いい? でかいむね、ぐっとくるから?」


「!」


 とっさに何か言い返そうとしたが、声が出ない――サナンに付き合って飲んでいた牛乳が、喉に詰まったのだ。せて咳き込むミカに、サナンは容赦なく尋ねる。


「たべたら、むねでかくなる?」


「ば……馬鹿! そういうことは言ってねえよ!」


「むねでかくならない?」


「そこから離れろ! 俺は健康の話をしてんの!」


「でも、ミカはでかいむねがすき。ぐっとくる……」


「もう忘れろ! 忘れてよ頼むから!」


 半ば叫ぶように声を上げてしまう。が、途端に、まだちらほらと残っている宿の客から怪訝けげんな視線を浴びたので、ミカは慌てて口をつぐんだ。


 代わりに深く息をついて頭を抱える。以前、サナンにそう言ったときは、彼女を少年だと思っていた。まさか少女だとは思っていなかった。つくづく己の不明が悔やまれる。


 だが、言ってしまったものは仕方がないし、取り返しのつかないことはどうしようもない。ミカは再び顔を上げると、できるだけ厳粛げんしゅくな顔を作って告げた。


「……いいかサナン、そういうことは、他人がいるところで言うな」


「そういうこと」


「その、胸がどうとかいうやつだ。いろいろと都合が悪いんだ。聖職者なんてのは印象第一なんだから、商売に差し支える」


「ミカ、でかいむね、すきじゃないにする?」


「そういうことじゃなくてだな……。とにかく、胸の話は禁止だ。わかったか?」


 何か言えば言うほど、話がまずいことになってくる。きっぱりと言い渡して話を打ち切ると、サナンはじっと彼を見つめて、やがてこくりと頷いた。


「わかった。でかいむね、つごうがわるい」


「…………」


 話の要旨は伝わっているといえば伝わっているようだが、本当にこれで良かったのかどうかはわからない。パンに食いついているサナンを見やって、ミカはため息をついた。




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