60. 神の世界

「…………!」


 我に返り、ミカは慌てて駆け寄った。ほとんど祭壇を蹴飛ばしそうになりながら、扉に手をかける。が、開かない。向こう側からかんぬきがかけられたのだ。


 ――野郎! 逃げる気か!


 いささか衝撃を覚えながら、ミカは内心毒づいた。何となく、あの副院長はそういうことはしないと思っていたのだ。罪を犯しはしても、それを暴かれたからには、堂々と、あの静かな威厳とともに受け入れるものと……だがもちろん、そんな保証はないのだった。罪から逃れるため、あるいはそれを人々に知られたことを恥じ、あるいは避けられない修道院の醜聞に絶望して、どこへともなく逃げ出すことだって十分にあり得る。


「ユール! この向こうはどうなってる?」


 とっさに振り向いて、ミカは尋ねた。突然のことに、ユールは一瞬だけ当惑した顔をしたが、すぐに答える。


「聖具や、祭式に使う備品の保管場所になっています。その先から、聖堂の裏手へ出られます」


 やはり外か。ミカは他の出入り口を見た。一番近いのは、内陣のそでにある、修道士たちの出入り口だ。


「いや、だめですね。こっちも閉まってる」


 言ったのは、護衛兵のイーサだ。内陣の端、その扉の側にいたのである。扉を強く押してみるが、びくともしないのに舌打ちする。


 となれば、出られる場所は後方、正面入口しかない。ミカは再びきびすを返して、急いでそちらへ向かう。ようやく我に返った者たちがざわめき、あとを追ってくる足音が聞こえたが、振り返らずに扉を開ける。


 外には、ミカが入ってきたときと変わらず、衛兵が待機していた。どうやら中で何事か異変が起きていることは気が付いたようだが、果たして踏み込んでいいかどうか、判断しかねていたらしい。出てきたミカの顔を見て、何か訊きたそうな顔をしていたが、ミカは無視して駆け出した。無駄に大きな聖堂が今は恨めしい、回り込むのに時間がかかる。


 だが、逃げると言って、イアルト副院長はどこへ行くつもりなのか。墓地を抜けて街道へ出たところで、騎馬の追手でもかけられれば、いくらもいけないはずなのに。


 答えはすぐにわかった。聖堂の壁の向こうから、音が聞こえてきたからだ。何かを叩きつける音……そして、メリメリと生木が折れる音。


 聖堂の裏手、光を反射して輝く薔薇窓の下。イアルト副院長は、逃げも隠れもしていなかった。ただ、どこからか持ち出した手斧を一心に叩きつけている。棘だらけの枝がうねり、また一本、破片を弾き飛ばして切られる。


「ああ、もっと早く、こうしておくべきだった」


 無残に枝葉を切り落とした『奇蹟の薔薇』を前に、イアルト副院長はそう呟いた。静かな、しかし確かな満足が感じられる声。思わずその場に立ち尽くしたミカを振り返ると、穏やかに告げる。


「あなたの言う通りだ、パトレス・ミカ。私はずっと憎んでいた。憎んで――望みを失ったのだ。この修道院が誠実な信仰を保った良いときではなく、最も信仰を失った今になって現れる『奇蹟』とは、一体何であろうと。もし神が我らを見ておられるなら、決してこのようなことはなさるまい。神はいない、でなければこちらを見てはおられぬ。『奇蹟』には何の意味もない。私の一生の信仰も――この世界には何の意味もない」


 ミカは密かに息を呑んだ。それは異端の言葉だ。耳にするだけで呪われると言われる、まして聖界の者が口にすれば破門の危機さえあり得る。何か言わなければならない、信仰を取り戻す言葉を。


「神はおられる、あなたもご存じの通りに。ただ、人と遠く隔たったところにおられる彼の御方が、人間の基準で人格者なんてことはないでしょう。時に皮肉屋で、依怙贔屓えこひいきが過ぎて、何の思慮もないくそったれだ。でも、それでも愛するだけの価値がある――この世界と同じように」


「…………」


「愛した相手が理想通りでなくても、愛したことに変わりはない。愛し方を間違ったとしても、愛に違いはありません。我らが主は根性悪のくそったれではあるが、ただ一つ、その全てを補って余りある美点がある。彼は私たちを愛しているのです。だから、彼の作ったこの世界は、何度でもやり直せるようにできている。罪を犯さず――自分に嘘をつかず、幻で現実を捻じ曲げず、誰のためでもなく自分のために、生きていけるようにできている」


 もちろん、やってしまったことが都合よく消え去ったりはしない。責任は取らなければならない。だが、そこが終わりではない。それに向かい合えば、さらにその先へ行けるのだ。


 イアルト副院長は、少しの間、何も言わずにミカを見返した。やがて、小さく首を傾げる。至極真面目くさった、無垢な子供のように。


「皮肉屋で依怙贔屓、根性悪のくそったれ。なるほど、それはいい考えだ――もっと早くに気づいていれば、また違っていたかもしれないな」


 次の瞬間、副院長の手の中には、まるで魔法のように燭台が現れた。聖堂内を照らすのに使われるものだ。実際には、ずっと彼の足元近くにあったのだが、明るい太陽の光の下ではあまりにも存在感がなくて、たった今までミカの注意から外れていたのだ。


 それがどういうことなのか、予測する暇も与えず、イアルト副院長は無造作にその炎を、切り散らされて傷ついた薔薇の木に押し付ける。


「!」


 ミカの背後に追いついてきた人々の間から、悲鳴と呻き声が上がった。燭台に収まっていた小さな火は、見る間に枝を這い上がって、聖堂の壁一面に燃え上がる。いくら何でも、生木がこんな松明のような燃え方をするはずがないのに、と思ったミカは、そこでようやくもう一つの見落としに気付いた。少し離れたところ、他の木の陰になったところに、優雅な装飾の施された甕が転がっている。祭式に使われる香油の入れ物だ。彼らが追いつくまでの間に、あの油を撒いていたものらしい。


 折しもの風に煽られて、炎がますます強くなる。誰かが、水を、と叫ぶのが聞こえた。木のあちこちが大きく爆ぜて火の粉が舞い飛び、ミカはたまらず数歩退いた。炎は壁を舐めるように広がり、今やはるか上方の薔薇窓にまで達する勢いだ。


 しかし、その炎のすぐ側に立って、イアルト副院長は身じろぎもしなかった。降りかかる火の粉を避けることなく、むしろまっすぐに顔を上げ、炎を見つめている――地獄の炎に貪欲に食い尽くされていく、彼の忌まわしい『奇蹟』の姿を。


 一際大きな音がした。はるか頭上、もう少しで薔薇窓に届かんばかりだった枝が、ついに炎に屈して弾け飛んだのだ。繁りはじめた若葉を燃やした火の塊が、まっすぐに下へと落ちる。その炎をここへ呼び出した男の真上に。


 一瞬にして、修道衣が炎に包まれる。だがそこへ至っても、イアルト副院長は平静な態度のままだった。火をもみ消そうと試みることも、修道衣を脱ぎ捨てようともしない。


 ただ、素早く片手を上げただけだ。さっきまでは薔薇の枝葉を叩き斬っていた鋭利な刃を、今度は己の首筋に当て、無造作に引いた。まるで何千回も繰り返した、日々の何気ない作業をこなすように。


 炎の塊が地に倒れる。いくつもの悲鳴が上がる。しかしそれさえも圧して、炎は天をくほどに燃え盛る。


 血と肉の焼ける、吐き気を催す悪臭が、煙に乗って辺りに広がっていった。



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