59. 神の道

「潰れるのなら、潰れればいい。そうだとも――それこそが、神の摂理だ」


 だがその響きは、人の心を和ませるとか、穏やかにするものとはほど遠い。柔らかい音の奥に、どこか人を不安定にさせるものがある。きつく張りすぎた弦をさらに強く巻き上げるような、氷の塊に鋼の刃を滑らせるような、調子外れに軋む不穏な気配が。


 息を呑む人々の前で、イアルト副院長は淡々と言った。


「元々、最初から潰れていたようなものだ。この修道院に、大した信仰があったわけではない。そもそもが、ロードリー伯爵家の行き場のない余った子供に、体裁と食い扶持をあてがうために創建されたようなものだ。神の道とは全く相容れぬ」


 それは確かに、このリドワース修道院のような私設修道院について回る弊害へいがいの一つである。歴代の修道院長には、伯爵家の縁者がえられてきて、その能力や資質がどれほど不適であろうと問題にならなかった。それを誰もが当然と受け入れている状態であれば、およそ俗世と離れて、などという理想は叶わないだろう。


「それでも、いい時代もあったのだ。先代のシノラ院長は、神の道への希望をお示しになる方だった。創立の目的がどうあれ、形がどうあれ、同志を友とし、神の法に従った暮らしを重ねていけば、いつかは高みへ至れると。その積み重ねのみが道であり、そして自らも進んでそれを実践されたものだ。我らとともに地を耕し、木を切り苗を植え、汗と、ときには血を流すことさえ躊躇ためらわなかった」


 修道士たちのうち、いくらかが同意を示すように頭を動かした。いずれも古参の者たちだ。


 ミカは書庫で目を通した資料のことを思い出した。先代院長のシノラは、やはりロードリー伯家の出て、現在の伯爵ゼオンとアルヴァン兄弟にとっては伯父にあたる。兄弟の父の兄であり、本来なら先に伯爵家を継ぐべきところだったはずだが、本来の跡継ぎであった長兄が夭折ようせつすると、それまでに決められていた通りにリドワース修道院の院長に収まり、家督は弟に譲っている。おそらく、生来争いごとの嫌いな性質だったのだろう。たまたま信仰の生活が向いていたのだ。


「だが、だめだ。神の道は既に閉ざされた。この修道院に、シノラ院長の築かれたものは何も残っていない――今の院長に代わってから」


 そしてたまたまアルヴァンは、その生活が全く向いていなかった。常に開かれていた院長宿舎に、武骨な錠前がぶら下がるようになったのはアルヴァンの代からだ。中に誰を連れ込んでいるのか、知られたくないからだ。だが、知らずにいられる者がいるだろうか――普通は教会に足も向けないいかがわしい女たちが、聖堂の周りを我が物顔で闊歩かっぽするようになったのに。


「日々の暮らしさえ、人の手に委ねてしまう。自分たちの汗を流すことなく、土地を人に貸し付け、割高な小作料を得て暮らすなら、我々の存在に何の意味がある。修道は暮らしの中にこそあるのだ。なのに、我々はもう戻れない。一度、安逸な暮らしに浸かった者は、その背徳の沼から這い出すことはできない」


 彼を含め一部の者は、以前の暮らしを厳格に保っている。日々地を耕し、自らの糧を得て、聖なる祈りを積み重ねていく。しかしそうしていても、魂が救われないことはよくわかっていた。そうした活動をすべて止め、日々寝て過ごしたとしても生きていける財力があるとわかってしまえば、そうした行為はただの道楽にすぎないのだ。


 このような日々は堕落に過ぎない。彼らは皆、富に魂を蝕まれてしまった。いくら高い壁で俗世を阻もうと、彼らもまた空しい俗人だ。既にここには、誇るべき信仰も輝ける魂も、何もない。


「なのに――何故、奇蹟などが起きるのか?」


 このような修道院を、神がよみしたもうはずがない。修道士たちは堕落している。その上アルヴァンは、己の邪な計画のために、ユールを修道院に引き込んだ。神聖なものであるはずの修道の誓いを、殺人計画の方便に使って。


「この場所は既に廃墟に過ぎない。いくら見た目に神の家でも、もはやここに神はおられぬ。であるならば、いっそ――拭えぬ汚名とともに、消え果てるのがいい」


 ここはロードリー伯爵家の私設修道院であるから、よほどのことがなければ潰れない。これまでアルヴァンの行状に目をつぶってきたように、伯爵家の影響力の下では、大概の醜聞が握り潰される。もっと大きな、伯爵家でさえどうしようもならないような事件が必要だ――教皇庁の介入を呼び込み、解散命令を受けるためには。


 辺りは水を打ったかのように静まり返った。誰も彼もが驚愕の表情を浮かべている。中でも修道士たちのそれは、ほとんど恐怖に近かった。それはそうだろう、もしそうなれば、彼らは路頭に迷うことになる。単なる転属とはいかない、解散命令を受けるような修道院の修道士と烙印を押されれば、受け入れてくれる別の修道院を探すのにさえ一苦労である。その先のことは言わずもがなだ。彼らの一人、敬愛する副院長が、彼らにそんな運命を望んでいたとは、誰も思いもしなかった。


「あまりにも、身勝手な理想ではありませんか」


 ミカは祭壇に立つ相手を睨みつける。だが、イアルト副院長の表情は変わらなかった。一段高くなったところから、冷然と彼を見下ろして言う。


「神の道を志すというのは、そもそものはじめから身勝手なものだ。世を捨てて、壁を巡らせ門を閉ざし、世界から隔絶したところで、己の身だけを神の道へと至らせようとする。人間の情理すべてに背を向けたなら、せめて神の道に忠実であらねば、我らの存在に価値などない」


「神の道に忠実に、人を闇夜で殺すのですか」


「実に残念だ、パトレス・ミカ、あなたからそのように卑小な言葉を聞くとは。あなたは教皇の名を負って来られた方だ。この地上における神の代理人たる教皇聖下は、地上の神の道を正すために、どのような犠牲も払われることだろう」


 堕落したリドワース修道院を終わらせるために、信仰の歪みを正すために、ミカは不満の声もなく死んでいるべきだったのか。詭弁だ。傲慢で、恥知らずな詭弁だ。彼が堕落したと糾弾する修道士たちよりもはるかに、もしかしたらアルヴァンよりも救いようがなく――少なくとも、アルヴァンは、自分の欲望には正直だった。


「ならば、あなたが私を殺すべきだった!」


 ミカは怒鳴った。そんな嘘を見逃がしはするものか。もし本当に、ミカが死ななければならなかったとしても、こんなことをする理由にならない。


「修道院を終わらせるつもりなら、あなたがご自分で、私を殺すべきだった。それで十分目的は果たせたはずです。教皇特使を、修道院の副院長が殺したなら、それは修道院ごと終わるに相応の理由です。でも、あなたは敢えてユールを使った。何故か。明らかです。そうすれば、罪はアルヴァン院長のものになる。彼が用意した計画が、人を殺すに至ったということになるからです――あなたは、院長を陥れたかった。彼を憎んでいたから」


 長く守ってきたものを、輝かしい理想であったはずのものを、無遠慮に踏みにじった男を憎んでいる。そしてそれこそが、すべての中心にある。修道院の堕落とか、神の道とか、そんなものは二の次だ。


「アルヴァン院長も、そしてユールも、確かに罪を犯したかもしれない。あまりにも愚かで、弱く、神の道に背く行いをした。間違った声に耳を傾け、あるいは聞くべき声に耳を傾けず、誤った確信を抱いた。ですが、それはあなたの罪まで押し付けられる理由にはならない」


 それは罪というよりは、過ちなのだ。誰にでも起こり得る。人は誰しも、そう大きくは違わない――それを罪だと責める者、自分は無謬むびゅうだと確信している者も含めて。


「誤って外れた者を救って戻すのではなく、罪を押し付けて放り捨てるのが神の道か。地上であればそうでしょう。目障めざわりなもの、汚いものを外へ掃き捨てて、美しい花弁でも撒いていればいい。でも神の道が、そこらの地上の道と同じはずがない。神の道は、汚れた者、外れた者、弱い者の前にこそ開かれる――そして、そこに足を踏み入れられるのは、自らをそうであると認められた者だけだ」


 憎しみを抱くこと自体は、罪ではない。人は誰しも憎むものだ。そんなことをすべきでないと思っても、そんなことをしても何にもならないとさとしてみてもどうにもならない。食べることを止められないのと同じように、憎むことも止められない。


 真実罪深いのは、それを受け入れないことだ。確かに存在するものをないと言い切るなら、嘘をつくしかないからだ。悪はそこに生まれる。憎しみが存在してはならないのなら、他を罰したいと思う自分は正しくいなければならない。正しい自分が、悪の誰かを糾弾きゅうだんする、それが正当だと考えるより他にはなくなる。全ての事実を捻じ曲げて、神の道ですらじ曲げて。


 罪とは、嘘のことだ――自分自身に向かってつく嘘のことだけだ。


「あなたは嘘をついている。この修道院を堕落したものと見放したのであれば、そもそもアルヴァンなどどうだってよかったではありませんか。己一人で神の道を探究するのなら、とっととこんな修道院を出て行けばよかった。全部嘘だ、あなたはここを、古い穏やかな暮らしを愛していて――だから、すべてを憎んだ」


 どうして、とミカは言った。どうして、たったそれだけのことを認めてくれなかったのか。


「あなたの前に、神の道は開かれていたのに。清く正しく身を修めるあなたにではなく、何かを愛したり、どうしようもなく憎んだりするあなたこそ、そこへ至るべきだった。人の世の情理に生きる全ての者が、誰でもそこへ至れると信じられるのでなければ――それを身をもって示すのでなければ、一体、私たちは何をしているのですか」


 司祭にしろ修道士にしろ、神に仕える者の使命は同じだ。それは人の情理を捨てることではないし、その必要もない。その内にある人々にこそ、伝えなければならないからだ。司祭は言葉で、修道士は生き方で示さなければならない、世界を成立させる神の法を――この世界は、幸せに生きるに値するということを。


 ミカの声が、高い聖堂の天井に響いて消える。誰も口を開かなかった。イアルト副院長は、依然、その威厳のあるたたずまいを崩さなかったが、やがてその目を伏せて深く息をついた。


「……いかにも」


 再びその目を上げたとき、彼の表情はわずかに、しかしはっきりと変わっていた。辺りを見回し、ふとその視線がユールのところで止まる。周りの人間と同じように、ただ唖然して立ち尽くしているのに、笑みと言うには微かに唇を歪めた。


「『フィドレス』・ユールは、実によくやっていた。敬虔けいけんで勤勉で、情熱のある、良い修道士だった。本当にそのつもりがあって、道を修め続けたなら、いずれは高みへと至ったであろうに。嘘だったのは、残念なことだ。彼も――私も」


 不意に、イアルト副院長は身を翻した。ほとんど優雅とも言える動きで、足音もなく祭壇の後ろの扉へと向かう。あまりにも唐突で、あまりにも自然な動きに、誰もが一瞬動けずに、それを見送ってしまう。やがて扉が閉ざされて、副院長の姿はその向こうに消えた。




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