57. 告発

 高価な裏地を張った修道衣を半ば踏みつけるようにして、アルヴァンは逃げ出した。立ち尽くす修道士たちを押しのけ、内陣の袖にある扉を目指して――。


 だが次の瞬間、潰れるような奇妙な音とともに、その姿が一瞬、一同の視界から消えた。素早い足払いを受けて、アルヴァンは床に倒れ込む。


 流れるような正確さで、その腕を後ろ手に捻り上げて組み伏せた、王家の制服を着た兵士は、困った顔を上げてミカを見た。


「ああ、思わずやってしまった。何せ、不審な輩をふん捕まえるのが仕事なもんで……。こいつ……この人は、逃がさない方がよかったんですよね、司祭様?」


 先刻、ユールと相対して蹴り飛ばされたイーサは、まだそこにいて、息を潜めていたらしい。本来なら彼が指示を仰ぐべきは、ミカではなくアルティラ王女のはずだが、この場の雰囲気を読んだと見える。さすが王族の護衛兵と言うべきか、察しの良い兵士の対応に、ミカは微かに笑ってみせたが、口に出してはこう言った。


「こちらには特に関係のないことだ。実害のある犯罪を犯したということでもないし。教義上はいくらか問題があるけれど、もし院長がその職を辞したいと思っておられるなら、それで問題はない。ただ、ロードリー伯爵には感謝されるだろう。弟君に、積もる話があるだろうから」


「その馬鹿者を引っ掴まえろ!」


 ミカの言葉を合図にしたかのように、ロードリー伯爵は命令を怒鳴る。それまでユールを押さえつけていて、今は所在なく立っていた二人の男が、即座にその声に応じた。慌てて退くイーサから、隙なくアルヴァンの身柄を受け取ると、抵抗をものともせずに乱暴に引き起こす。


 ロードリー伯爵は、つかつかとそちらへ歩み寄った。すっかり惨めな有様の弟の前に立つと、今やはっきりと怯えの浮かぶその顔を、躊躇いもなく殴りつける。


「この馬鹿が。どうしようもない低能が。貴様のような半端者が、この世に生まれてきたのが間違いだった。情けで修道院長などに収まっていながら、何を勘違いしたのか、畜生にも劣る恩知らずめが」


 二度、三度と鈍い音が響くたび、アルヴァンの整った顔面が血で染まっていく。ことがことなのだ、命を狙われた兄に、何度か殴られるくらいは当然だろう……が、それが五度、六度と重なり、殴る拳さえ赤く変わっていく様には、さすがにミカも眉をひそめざるを得なかった。


 アルヴァンがどうなろうと知ったことではないが、しかしロードリー伯爵の暴力には、どこか非人間的な、見る者を慄然りつぜんとさせるところがある。人間を、特に目下だと考える他者を傲然と虐げる。まして背かれなどすれば、決して許すことはないだろう。


 流血も、他者の苦痛も意に介しないところは、なるほど乱れた世にあっては有用な資質と言えるかもしれないが、あくまで非常のものだ。こういう資質は、日の当たる世界では危険分子でしかあり得ない。王家が、こういう男と手を組むしかないとなれば、ユールが後先考えず排除しようとした気持ちもわからなくはない。


「伯爵、その辺で。お気持ちは理解できますが、祭壇の前を血で汚すのは感心しません」


 誰もが気を呑まれて立ち尽くしたままなので、ミカは仕方なく口を開いた。いくら自業自得とはいえ、アルヴァンが兄に殴り殺されるのをうきうき眺めるほど悪趣味でもない。


 一応は丁寧に言ったつもりだったが、しかし、内心のうんざりした気持ちは声に現れていたらしい。伯爵は手を止めたが、今度はその冷酷な光を湛えた眼差しを、まっすぐにミカへと向ける。


「要らぬ口出しは止してもらおう。これは我が一門のことだ。余所者の出る幕ではない」


「伯爵家の野蛮な家風は、それはそれとして尊重するにやぶさかではないですが、ここは聖堂です。聖堂は神の家、まして祭壇は聖域だ。続きはご自宅でどうぞ。何なら、今日はこの辺で散会してはいかがです。いろいろ新発見もあったことだし」


「ふざけるな!」


 割と真面目に提案してみたが、怒声の一吠えで却下される。ロードリー伯爵は、今度ははっきりとミカに向き直った。危険な目が、憤りを隠さず彼を睨む。


「パトレス・ミカ、あなたは教皇庁の人間としてここにいるのだ。立場を弁えるがいい。愚弟をどうしようが、この私の勝手だ。――それに、その男も」


 やがてその目は、ミカをも逸れて、側に立つユールへと向けられる。ミカに対しては、ひどく恥じ入る顔を見せるユールは、しかし冷然とその視線を受けただけだった。こちらもこちらで、暴力に気圧される類の人間ではないのだ。


「馬鹿どもが、くだらんはかりごとくわだてたことを、地獄で後悔させてくれる。その前に絞首台だ、卑劣な人殺しめ、死ぬべきは貴様だ」


 とはいえ、伯爵もユールに拳で殴り掛からない辺りは、さすがに察するものがあるようだ。もしそんなことになれば、ユールはこれ好機とばかりに、ロードリー伯爵を刺し貫いて葬るに違いない。すべてを告白したと言え、ユールが己の所業を悔い改めたかどうかといえば、それは別問題である。ロードリー伯に対する見方については、特にだ。


 ミカはため息をついて言った。


「伯爵、さっきも申し上げたが、あなたは、この男を絞首台に送り込むことはできませんよ。まあ、罵るくらいはいくらでも罵ればいいでしょうが。結局のところ、すべてはまるきり失敗して、あなたには傷一つついていない。あなたは彼らの無能さに感謝することはあっても、責めることはないはずですよ。――彼らは、結局、罪を犯していない」


「でたらめを!」


 ロードリー伯爵は激昂して喚いたが、しかしミカはさして注意を払わなかった。――実のところ、それは伯爵に向けた言葉ではない。


 ユールは再びミカを見つめていた。何か言いたげに口を開きかけ、しかしすぐに唇を引き結ぶ。血の気の引いた顔で、落ち着きなく手を握り締めている彼の脳裏で一体何が起きているのか、ミカにはおおよそ想像がついた。彼の言う『罪』がどういうことか、ユールにはよくわかっているはずだ。だが、今もそれを忘れられずにいる――もしかしたら、この先ずっとそうかもしれない。


 あの夜、あの雨の中、確かに彼を殺してしまったことを。まっすぐに心臓に刃を突き立てた、その感触を。


 自分でも妙なことと思うのだが、ミカはそれを恨んでいなかった。もちろん、あのまま死んでしまっていたら恨み骨髄、絶対に化けて出ていた自信があるが、どういうわけか生きているせいで、恨むにもいまいち理由が足りない。ユールに悪意がなかったことを確信していれば尚更だ。


 恨んではいない――だが、腹は立つ。殺されたことに対してではない、それをユールにやらせたことにだ。心を持たない道具のように扱って――今まさに、都合よく捨てようとしていることにだ。


「――そうして、ユールはここで修道士として暮らし、じっとあなたを待っていた」


 再びミカが声を張って話しはじめると、ロードリー伯爵の喚き声は収まった。とはいえ、その顔には不審な表情がある。この上、一体何の話があるのかという顔だ。


「修道院内はアルヴァン院長の領地、王国のようなものだ。ここなら、都合の悪いことは何でも、あなたから隠しておける――ただ、修道院の内側に対してまで隠しておけたかは別の話です」


 もちろん、殊更ことさらに全員の前で、この新入りがどういうつもりで修道院に滞在しているのか、わざわざ発表したりはしまい。だがそれでも、陰謀の実行のためにはある程度の打ち合わせが必要だし、新参者と院長との間に、何か奇妙なつながりがあることを察しない修道士はいなかっただろう。外界と隔絶した修道院の内側では、どんなことも秘密にしてはおけないのだ。


 それまでは傍観者のように、呆然と、あるいはいくらかはの野次馬的関心を持ってその場に佇んでいた修道士たちの列に、緊張が走る。驚いた顔で、あるいは探るように互いを見やる修道士たちに構わず、ミカは先を続ける。


「ついに好機が来たのは――あるいは、好機が来たとユールが知らされたのは、三日前の晩です。ひどい土砂降りで、少しくらいの争う音や悲鳴なんか、全部かき消されてしまうほどだった。お誂え向きの闇夜で、ユールは知らされた通りの場所で身を隠し、知らされた通りに現れた相手を殺したのです。事前の計画通り、ただこれが厄介な問題になった。既にご承知の通り、彼が殺したのはロードリー伯爵ではなかった」


「殺した? すでに誰かここで死んだというのか。一体誰が」


「それが……この私です」


 言いにくいのは、それがどういうことなのか、彼自身、未だによくわかっていないからだ。何が起きたのかは大体想像がついている、だがその計画の中で、彼を生かしておく理由はなかったはずだ。どうしてわざわざ彼を即死から救い、にもかかわらずその場に残していったのか……。


 ミカの告白に、辺りには一瞬、奇妙な空気が漂った。その言葉が衝撃的というよりは、何を言っているのかわからないという顔だ。ただ一人、アルティラ王女だけが、何か思い当たったような顔をしてまじまじと彼を見つめている。


「一体、何を言っているのだ。あなたは生きているではないか」


「ええ、神のご加護で!」


 その点はあまり突っ込まれたくないので、ミカは素早く話を逸らした。彼が生きているとか死んでいるとか、どうだっていいことなのだ。重要なのはこの先の話だ。


「わざわざ脱いでお見せする必要もないでしょうが、法衣のここに、剣でついた痕が残っている。見事に真っ直ぐ、心臓の上です。もし伯爵、狙われたのがあなたであれば、確実に命はなかった。そうであれば、アルヴァン院長は喜ばしかったに違いありませんが、実際には生きた心地もしなかったでしょうね。自分の修道院内で、教皇特使が姿を消して嬉しい修道院長はいませんから。――つまりユール、おまえにあの時間、あの場所を指定したのは院長じゃなかったんだ。おまえが間違えたんじゃない」


 蒼白な顔で辛そうに彼を見ていたユールは、ミカが振り向いてそう言うと、びっくりしたように目を見開く。その瞳の奥に、微かな光がちらつくのを見て、ミカは更に尋ねる。


「あの晩、あそこで待ち伏せることを、どう指示されたんだ?」


「書付が……僧房の私の寝台の上に、書付が置かれていました。院長からだと思ったのです、人目のないところで話をする機会がないときは、そうすることになっていましたから。あの夜、あの時間、あの場所を、ロードリー伯爵が客用の外套を着て通ると……連れもなく、ただ一人で」


「その書付を見つけたのは何時だ?」


「夕食が終わって、僧房へ戻ったときです」


「いつそこに置かれたかはわかるか」


「それが……あの日は、私は午後中ずっと、畑の開墾かいこんに出かけていました。雨が降り出して戻ってきて、日没の祈りの後も聖堂に残って、フィドレス・ケリスを手伝って聖具を磨いていました。夕食を終えるまで、一度も僧房に戻っていないので……よくわからないのです。昼には、確かにありませんでしたが」


 だがそれは間違いなく夕刻、雨が強まってからのことに違いない。そしてその頃には、雨が夜通しみそうにもないことも見て取れたはずだ――ミカが修道院の来客用の外套を借りていったことも知っていた。


「あの晩、私は施療所へ向かうところでした」


 再び、ユールから周りに視線を転じて、ミカは言った。


 今や修道士たちまでもが、固唾かたずを吞んで彼の次の一言に耳を傾けている。ここにいる誰もが、他人事ではないと知ったのだ。院長と、仲間とはいえ新入りの、二人だけのことではない。誰かが、この後ろ暗い陰謀に手を付けたのだ。信仰において兄弟である、長く生活を共にしてきた、彼らのうちの誰かが。


「あのときは、王女の侍女であるエーリン嬢があそこに滞在していました。彼女の具合が急に悪くなったと聞いて、それで宿泊棟を出て、施療所へ向かったのです。ユールに書付を残した人物は、私があの夜、あの場所を通ることになると知っていた。誰が知っていたか。まず、私を迎えにきたフィドレス・ジルト」


 列に並んだ修道士たちの頭が一斉に動く。


 後列の半ばほどにいた若い修道士は、見ていてはっきりとわかるほどに、びくりと身を竦ませた。突然の注目に怯えた顔から見る間に血の気が引き、常よりもそばかすが浮き立って見える。


「フィドレス・ジルト、三日前のあの夜、私を迎えにきたのはあなたでしたね」


「そ、そうです。でもあの、僕は……」


 動揺してかすれた声が、なおも何か言いかけるのを制するように、ミカは続けて問う。


「ですが、あなたが独断で私を呼びにきたのではないでしょう。そうするのは、いささか……面倒なことになる可能性があったから。あなたは誰かに許されて、あるいは命じられて、私を呼びに来たはずです。誰が私を呼ぶようあなたに言ったのですか?」


「フィドレス・ヘルマーです。あの日は二人で当直だったんです」


 ほとんど縋るような勢いで、ジルトは素早く答える。人々の視線が、今度は前列の、より祭壇へ近い側へと向いた。ジルトとは対照的に、ヘルマーは憤激した様子で顔を赤く染めている。


「では、あなたが呼んだのですか、フィドレス・ヘルマー? あなたが私をそうも高く買ってくださっているとは、ついぞ知らなかった。時代遅れのやり方を、ようやく捨てる気になってくださったのなら、いくらでもお教えしますよ」


 余計な一言を付け加えたのは、それを面白がる気持ちが皆無だったとは言わないが、単に嫌味を言いたかったわけでもない。ヘルマーの頭に血を上らせれば、ミカに対する怒り以外のいろいろなことを忘れてくれると思ったからだ。彼が知っている事実がどういう意味を持つのか、これから彼が口にする言葉がどういうことを示すのか、考えを巡らせてほしくないからだ。


 案の定、かっとなってヘルマーは叫んだ。


「あなたの手など借りる必要はなかった! 我々で十分対応できたし、実際そうした――結局、あなたは現れなかったのだからな! 殺されただと、そんな馬鹿な話があるものか。大方、手に負えなさそうと見て、逃げ出したに違いないのに」


「それがあなたの意見だったなら、どうしてわざわざ私を呼んだのです?」


「私が呼びなどするものか! もちろん反対だった、邪魔になるだけで何の益もないと。だが副院長が――」


 そこまで言いかけて、ヘルマーははっと言葉を切る。周囲の人々が、息を呑むのが伝わったのだ。


 ミカはまっすぐに祭壇を見つめた。執り行っている式がどれほど引っ掻き回されようと、ただの一言も口を挟まず、これまでずっと無言でそこに立っている姿を――ずっとこうして、正面から相対したいと思っていた男を。


「では、あなたもあの夜、あそこにいた――イアルト副院長」




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