13. 聖堂


 ケリス修道士は、六十を過ぎた年配だった。と言っても、修道生活は想像されるほど長くなく、四十も半ばを過ぎて妻を亡くしてからだという。外の世界では細工職人だった経験もあって、金物や繊細な装飾の多い祭壇周りの管理を一手に任されてからは十年ほど経つ。


「何もかも、あっしが引き継いだときから、一つも変わっちゃいませんよ」


 現在、修道院中をざわつかせている客、聖都からやってきたという若い司祭が自分を訪ねて現れたことに、ケリスはひどく驚いたらしかった。長く修道士として過ごしても、完全に抜け切らない職人言葉でそう言うと、じろりとミカを睨んだ。どうやら、自分の仕事ぶりに文句でもつけられるのかと警戒したらしい。


「ええ、実に美しい。細工自体が素晴らしいのはもちろんですが、これほどの輝きを今もなお保っているのは、日々の弛まぬ手入れあってのことでしょう。『奇蹟』の修道院に相応しい、不断の信仰の現れです」


 だが、ミカが彼を責めにきたのではない、むしろその仕事に敬意を示す様子なのがわかると、ケリスの態度は軟化した。求めに応じて、普段は修道士のみしか立ち入ることができない内陣にミカを迎え入れると、彼が手塩にかけている諸々の物品を指し示し、得意げに説明した。


「祭壇の、この辺りをごらんなさい。窓からの光を受けると、そりゃあ見事に輝くもんです。これほど繊細な象嵌ぞうがんは、ちょっと他ではお目にかかれませんよ。こっちの香炉は金細工です。実はね、こいつはあっしが作ったんだ」


「あなたが?」


「と言っても、ほんのちょっと、この窓の部分の細工だけですがね。あっしはまだひよっこの徒弟で、こいつは親方の工房が、ロードリー伯に収めたもんです。この修道院を建てたときにね」


「ロードリー伯というと、この辺り一帯のご領主ですね。伯爵が、個人で、この修道院を創建なさったのですか」


「そうですよ。先代の……いや、もう先々代になるのか」


 香炉を布で磨きながら、ケリスは懐かしむ顔になった。


「あの頃は、この修道院のおかげで、町は随分景気が良かったもんです。どんな職人にも山ほど仕事があって、てんてこまいだったし、それにこの聖堂が毎日少しずつ組み上がっていくのを見ると、わくわくしましたよ。……あの頃は、まさか自分が、将来その中で暮らすことになるとは思わんかったですが」


 一つ、小さくため息をこぼし、老人は香炉を元の場所に戻した。彼にとっては遠い青春のひとかけらを、愛しげに眺める。


「いつの間にか、時は過ぎているもんですな。親方の荷物持ちとして、ロードリー伯の御前にこれを差し出したあっしが、神の御旨みむねを受けてここへ入り、あの方の孫に仕えるようになるとは」


「孫?」


 突然の言葉に、ミカは思わず問い返したが、一方で、問い返された方も驚いたようだ。ケリスは片眉を上げると、何を言っているのかという顔で答える。


「アルヴァン院長ですよ。ここはロードリー伯ハノエル家が建てた修道院なのだから、一族の人間が院長になると決まっとります」


 決まっているかどうかはともかく、世にはしばしばある例だ。貴族や地主たちが私費を投じて修道院を建てるのは、自らの信仰の証でもあるが、同時に一族の、特に自分の子のためということが多い。門地を継がない、財産を相続させることができない下の息子たちに、聖界での身分を獲得してやろうというわけだ。たとえ叙階されていなくても、修道院長という身分は確たるものであるし、教会によって保護を受ける。一度認められれば、よほどのことがない限り食うに困ることはない。


 ――そういうことか。


 今更ながらに納得がいった。アルヴァン院長が俗名を名乗るのも当然だ、土地の名士の一族の出なのだ。たとえ叙階されていても、生まれ持った姓を名乗りたくなるだろう。いや、そもそも、叙階される必要がない。ここで、彼の地位は何があっても安泰なのだ。


 ――にやけた男前で、女にモテそうで、金のある修道院長で、その上貴族の御曹司だと?


 また一つ、いけ好かない理由ができてしまった。ケリス修道士に丁重に礼を述べ、聖堂を後にしながら、ミカは内心で憤然としていた。どういう星の下に生まれついたら、そんな人生楽勝な設定になれるのだ。


 だが、それだけにわからない。もしこの修道院での奇蹟が何らかのインチキだったとして、アルヴァン院長には、そんなことをでっちあげなければならない理由がないのだ。金に困っているわけではない、是が非でも修道院の名声を高める必要があるわけでもない。どちらも、あればあるほどいいには違いないが、そんな漠然とした欲をかいて、奇蹟の捏造ねつぞうなどという手の込んだことをするだろうか。


 一方で、アルヴァンには確かに、ミカに知られたくない何かがあるのだ。要求される前から金を出す素振りまで見せて、教皇庁の使いを追い払いたがった、どんな隠し事があるというのか……。


「パトレス・ミカ、次はどちらへいらっしゃいますか」


 ついてきていたユールが口を開いて、ミカはそこで考えを中断した。聖堂にいる間は、彼と先輩修道士の会話をさえぎらず静かに控えていたユールだが、聖堂を出た今、再び案内役としての自分の務めを果たさなければと思ったらしい。


「修道院内で、奇蹟が起きたとされている場所は、今、回られた二ヶ所だけです。何か、他にご覧になりたいものがございますか。お望みでしたら、作業棟へもご案内できます」


 一瞬、このまままっすぐ文書庫へ連れて行けと言いたくなる。信徒台帳のみならず、ありとあらゆる帳面を調べて、いくらむしり取れそうか考えるのはさぞ素敵な気晴らしになるだろう……。


 しかし今や、それは彼の任務ではなくなった。リドワース修道院の『奇蹟』を解明しないことには、というか、アルヴァンが隠していることを突き止めなければ、いくら金を積まれようと、任務を果たすことにはならないのだ。となれば、彼らのものを図々しくあさり回って、修道士たちの反感を買うのは得策ではない。


「それは願ってもないお話です。神に誓願せいがんを立てられた修道士の清らかな生活に触れることは、滅多に叶うことではありませんから。きっと私にとって、学ばせていただくことが多くあるはずです」


 むしろ、修道士たちに近づき、彼らから何か手掛かりを得られないか試してみる方がいい。返す返すも面倒なことになったと嘆息する気持ちを、笑顔の裏に押し込めて、ミカはせいぜい愛想よく申し出を受け入れることにした。


 修道院内には、ありとあらゆる施設が揃っている。神に捧げるための祈祷きとう書や福音書などを作る写字室や、聖歌隊のための音楽室など、修道院ならではの施設は、しかしほんの一部に過ぎない。あとは粉き場やパン焼き場、家畜の加工場に皮なめし小屋といった、生活のためのものがほとんどだ。


 修道士は修道院の敷地から出ずに暮らすのが基本だから、壁の内側で生活が成り立つようになっているのは当然だが、しかし立派な厩舎きゅうしゃの隣に、蹄鉄ていてつを打てる鍛冶場かじばまで備えているのは、いささかやりすぎとも思えなくもない。修道士が立派な馬に乗って外へ出かける機会など、そうそうあるものではない。


 その上、その鍛冶場から出てきた男が、通りすがりの彼らに慌てて頭を下げるのを見て、ミカはますます唖然としてしまった。ほつれた、すすだらけの服を着たその男は、どう見ても修道士ではなかったからだ。


「この辺りの仕事は、町から通いの職人が来てやっています。修道士にはない技能が必要なこともあるので」


「ですが、聖堂はともかく、修道院の中に、そう簡単に部外者が入ることはできないのでは?」


「アルヴァン院長は……在俗の者が、神に仕える修道士たちのために働くのは、神への献身と同じことで、彼らの信仰の道であると仰っていました。彼らの仕事の分だけ、我々は祈りに没頭する生活に近づけるのだからと」


 心許こころもとなさそうに、ユールは答える。新米修道士としては、院長の言葉に対して疑念をていすることはできないが、心から確信できるとも言い難い、といったところか。


 ――よくもまあ、そんなことを……。


 つまり、金で雇った職人たちを常駐させて、自分たちの労働を減らしているというわけだ。まあ、職人たちに仕事の口を与えているという点では、悪いことではないのかもしれないが、修道院の在り方としては、もちろん問題がある。まして、修道士への献身が神への献身と同じだとは。


「他にも、修道院所有の農地のほとんどは、雇われ農夫たちが耕しているんです。寄進された土地が、この地方中に散らばっていて、とてもここの修道士だけでは管理できないので」


 小作人を雇って働かせて小作料を取れば、汗水垂らして働かなくても悠々と暮らしていける。こうなれば清貧を旨とする修道院も、単なる世俗領主だ。やはり何が何でも台帳を覗いて、金目の物をふんだくるべきではなかろうかとミカは思案しかけたが、黙り込んだ彼に不穏な気配を感じたのか、ユールはさらに言葉を続けた。


「あ、新しく加わった土地は無理ですけど、それでも古くから修道院の土地であったところは、今でも皆で耕しています。ほら、ちょうど」


 言いながら、ミカの背後を指し示す。振り返ると、少し離れた南向きの通用門のあたりに、修道士たちがたむろしている。手に手に鋤や鎌を持ち、牛も連れている。


「この先に麦畑、森の際には果樹園があります。野菜畑もありますよ。最近は、これまで荒れ地になっていたところをもう一度耕して、使えるようにしようとしているところなんです」


 予定の人数が集まったのか、一団は牛を引きつつ門を出て行く。先頭に立っている、見覚えのある背筋の伸びた姿は、イアルト副院長だ。肩に大きなかごを担いでいながら、その颯爽さっそうとした足取りは少しも乱れることなく、彼がこうした作業によく馴染んでいることを示していた。


「副院長直々じきじきに、畑作業をなさるのですか」


「ええ、イアルト副院長は皆の指導者で、何でもよくご存じなのです。副院長の采配さいはいのおかげで、効率的に仕事が進められるのです。私のような経験の浅い者では、皆の足を引っ張ってしまうこともあるのですけど、副院長はうまく、私でもできる仕事を回してくださって」


 そのときのことを思い出したのか、ユールは少し恥ずかしそうに笑った。仲間が出て行った方向を、羨ましげに見やる。


「ですが、畑仕事はいいですね。楽しいし、いい鍛錬になります」


「鍛錬?」


「あ……足腰を鍛えておくのは、どんなときでも大事です!」


 元気よくユールは言い、ミカはしげしげと相手を眺めてしまった。確かに、この溌溂とした小柄な修道士には、荒仕事も苦にはならないのかもしれない。ミカはといえば、子供の頃に養父の教会の畑を耕した経験から言って、それほど心躍る活動とは思えないが。


 ――これで、マジで年上なのかな……?


「ああ、あと、この先に薬草園もあります」


 ミカの内心の感嘆は知る由もなく、ユールは再び案内役へと戻って、別の方向を指し示した。




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