第3話 一花の日常

「きゃー、遅刻、遅刻ぅ!」


 平日の朝。珍しく寝坊した一花は、セーラー服のリボンも結ばぬままに大急ぎでローファーに足を突っ込む。

 いつも家を出る時間より十分遅い。昨日は寝る前にうっかり可愛い子猫動画を見つけてしまい、深夜まで見入ってしまった。自宅で通信料を気にせずスマホを使えるのはありがたいが、Wi-Fi完備のアパートも考えものだ。……風呂はないのに。


「一花殿、朝食は?」


 同居人の分の布団まで押し入れにしまいながら、リクトが呼びかける。


「時間がないのでいいです」


 焦った顔でドアノブに手を掛ける一花に、リクトは兜の中で顔をしかめた。


「何も食べないと力が出ないぞ。せめてだけでも」


 食パンを一枚差し出す全身甲冑に、女子高生は「ひっ」と震え上がる。


「ダメですよ、リクトさん! このパンは咥えて走るともれなく『運命の出会い』にぶつかる特殊アイテムですよ。迂闊に使うと危険です」


「……? 朝食と出会いに、どんな因果関係が?」


 異世界人に日本のお約束は通用しなかった。


「こっちの話です。とにかく、わたしは行きますね。出掛ける時は戸締まりを忘れずに」


 ついつい小言の出る彼女に、彼は真面目に頷く。


「うむ。いってらっしゃい、一花殿」


 送り出すリクトの言葉に、一花はちょっとだけ目を見張ってから、


「いってきます、リクトさん!」


 大きく手を振って駆け出した。


◆ ◇ ◆ ◇


(いってらっしゃい、か……)


 授業中、シャーペンを回しながらニマニマしてしまう。

 誰かに見送られるのはいつぶりだろう。惰性で繰り返される日常が大切だったと気づくのは、失ってからだ。

 ……それにしても。

 気を抜くと欠伸が出そうになる。今日は早く寝ようと反省しつつ、一花は現在の『日常』を守るために勉学に勤しんだ。


「一花、カラオケ行かない?」


 帰りのホームルームが終わると、同級生が話しかけてくる。


「ごめん、今日はパス」


「えー。バイトの日だっけ?」


「違うけど、寄るとこがあって。また今度誘ってね」


 残念がる友達に両手を合わせ、重い通学バッグを担いで教室を出る。

 今日は駅前のスーパーの特売日だ。今から行けば17時のタイムセールに間に合う。一花は足早に駅へと向かった。


 黄昏の帰宅路を鼻歌交じりに歩く。

 両手には戦利品ぎっしりのエコバッグ。チラシアプリで事前にチェックして行ったから、欲しい物は全部手に入った。

 軽い足取りでアパートの錆びた鉄階段を上っていると、不意に202号室のドアが開いた。


「おかえり、一花殿」


 狭い木造のドアから体を半分出した巨大な全身甲冑に、女子高生は目を見張る。


「ただいま、リクトさん。どうしてわたしが帰ってきたのが判ったんですか?」


「一花殿の足音くらい聞き分けられる」


 当然だ、という返答に思わず頬が緩む。


「わたしもリクトさんの足音判りますよ」


 ……中身人間入りの全身甲冑の足音こそ、聞き分けられて当然なのだが。

 部屋に入ると、早速特売品を棚や冷蔵庫にしまっていく。


「見てください、リクトさん。鳥胸肉が100グラム35円だったんですよ!」


 みっしり肉の詰まったパックを見せられ、いまいちピンとこない異世界人は首を傾げる。


「それは、凄いことなのか?」


「ええと、鉄の剣の値段で銀の剣が売ってた感じ?」


「なんと! めちゃくちゃお得ではないか!!」


 ……例えが正しいか解らないが、雰囲気は伝わったようだ。


「と、いうことで。今日はチキンカツにしますよー!」


 言いながら一花はエプロンをする。


「まずは皮を取った鶏胸肉の厚みのある部分に包丁を入れて、全体が均等な厚さになるよう開いていきます」


 背後から覗き込んでくるリクトに解説しながら包丁を動かす。


「開き終わったら、ラップを被せて二倍の大きさになるまで叩く!」


 すりこぎを振り下ろす現世界の住人に、異世界人は慄く。


「一花殿は良い棍棒使いになりそうだ」


 トツエルデ最高峰の冒険者にお墨付きを頂きました。


「何故、肉を叩いているのだ?」


「叩くことで肉の繊維が切れて柔らかくなるんです」


「ほほう」


「それに、薄く伸ばすと大きくなって嬉しいじゃないですか」


 一花の言葉に、リクトは上目遣いに考えて、


「質量は変わらないのでは?」


「さあ、衣をつけて揚げ焼きにしますよ!」


 細かいことは気にせず次の作業に移る。

 小麦粉、卵、パン粉をつけて油を敷いたフライパンに投入。叩いて伸ばしたお陰で、一枚の胸肉で24センチのフライパンはいっぱいだ。


「薄いから火の通りも早いですね」


 両面しっかり焼き色がついたらフライパンから上げる。


「揚げ物は出来たてが美味しいですからね。リクトさん、先に食べててください」


 最近まで一人暮らしだった一花の家には、24センチのフライパンが一つしかない。

 自分のチキンカツを上げる前に炊飯器から同居人のご飯を盛ろうとする一花に、リクトが待ったをかける。


「せっかく二人でいるのに、一人で食べても味気ない。もう一枚揚がるまで俺も待つ」


「でも、最初のカツが冷めちゃいますよ?」


「大した差はない。気になるなら、最初に揚げた物と次に揚げた物を半分ずつ皿に盛ればいい」


 生真面目な口調で提案されたら、一花も笑って折れるしかない。


「じゃあ、そうしましょうか。リクトさん、テーブルを拭いてもらえますか?」


「おう。箸を出して、麦茶も用意しよう」


 六畳一間で大きな身を縮めて、全身甲冑がちゃぶ台をセッティングする。

 今日のメニューはチキンカツと、付け合せに本日賞味期限で30%引きになっていたパックの千切りキャベツと見切り品の熟れすぎたトマト。豆腐とわかめの味噌汁に白米だ。


「「いただきます」」


 ちゃぶ台を挟んで正座して、二人で手を合わせる。


「ほう、サックサクだな!」


 口元だけ面頬を上げて、リクトが唸る。


「薄いお肉はサクサク食感がいいですよね。今度は肉厚ジューシーな唐揚げも作りましょう」


「それも美味そうだ」


 もぐもぐ動く端正な唇を眺めながら、一花は疑問を口にする。


「リクトさんの世界には、どんな料理があったんですか?」


「この世界ほどたくさんの調味料は手に入らなかったが、似たような食べ物は色々あったぞ。肉の香草焼きなんかは、クエスト中に自分で作ってよく食ってたな」


「リクトさん、お料理するんですか? 食べてみたい! 今度作ってくださいよ」


 意外な事実に興味津々で身を乗り出す日本の少女に、異世界人は鷹揚に頷く。


「任せておけ。まずは山に牙短竜とミカモカ草を採りに行って……」


 ……。


「多分、この辺の山じゃその食材は手に入らないかと」


 一花が異世界の食文化に触れるのは、まだ先になりそうだ。

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