陰キャに見合いはムズすぎる

帆尊歩

第1話 陰キャに見合いはムズすぎる

彼女いない歴、年齢と同じ。

高校は男子校。

同級生の渡辺君は、カバのような顔をしているくせに非常に頭が良く、何であんな三流高校にいたのか不思議な奴だった。

年賀状に、当時活躍していた作家の言葉を丸パクリしたコメントを書いた。

うちのような三流校の生徒は、絶対に小説なんて読まないだろうと思っていたので、パクりはバレないはずだったのに、渡辺君にだけにはバレた。

渡辺君は頭が良いだけではなく、非常に博識だったのだ。

そんな渡辺君が、ひどく真面目に僕に話しかけてきた。

「君さー」

「なに?」

「ここ最近、母親以外で、女子と話をしたことある?」

「はあー、何をバカなことを」と言いながら僕はしどろもどろになり、自分の記憶を全力でひもといた。

僕には女兄妹はいない。

いたとしても、それは母親と一緒だろう。

思い出せなかった。

親以外の女子と言葉を交わしたのがいつだったか。イヤ下手をすると中学か。

「言っておくけど、コンビニとか本屋の店員さんはなしだよ」

さらに僕は渡辺君から追い詰められた。

結局何も言えず、金魚のように口をパクパクしていたら、それが答えと言わんばかりに、そこで会話が途切れた。

渡辺君の凄いところは、最後のダメ押しの追求をしないところだ。

もし、とことん追求いたら僕だって。

「いや、お前もだろう」と言い返していたと思うが、渡辺君の術中にはまり、僕は撃沈した。


高校生のときは、大学生になれば彼女が出来るだろうと考えていたのが、かろうじて入った大学も、女子なんかほんのわずか。

もっともたくさんいたからといって、状況が変わったとは思えないが。

だから大学生になっても、何も変わらなかった。

淡い期待はもろくも崩れ去った。

なんとか、大学を卒業して、就職しても、何も変わらない。

すでに社会人になって、八年、地味な彼女なしの良い人を貫いて来た。


そんな僕が見合いをすることになった。

良い人である僕は、社会人として、ちゃんと女性とだって会話をしている。

お客さんや、取引先、スタッフ、ではあるが。

趣味だって、きちんとある、競馬と美少女フィギュア収集。ではあるが。

でも、もうあの頃の渡辺君の言葉にしどろもどろになる僕ではない。



「別に、お茶代を出して欲しいと言っているわけでは無いんです。

嘘でも出すそぶりでもしてくれれば、私だって遠慮します。

問題は、そいう常識的なことをしていただけないことなんです」

見合い後、お決まりのお茶に行き、伝票を見て割り勘にしようとしたら、見合い相手の美智さんがひどく冷静に、蔑んだように言って来た。

見合い自体はなんとなく進み、それなりの手応えがあったので、少し気をよくしていたので、美智さんの反応にさすがの僕でも、これはまずいと思いながら、一人暮らしの自分の部屋に帰って来た。


部屋に誰かが居る?

「どちらさまでしょうか?」一人暮らしで、鍵を掛けて出掛けているのだ。

どちら様もない。

もし人がいるとすれば、泥棒か、幻かのどちらかだ。

「パパ、お帰り」パパ?

この僕をパパと呼んだのは、二十歳くらいの女の子だった。

「誰?」という言葉は変に弱々しい。

なぜなら、その女の子はとんでもなく可愛かった。

それは僕が持っているフィギュアの誰よりも。

いや、ただ可愛いだけでは無い何かがあった。

そう、なにか僕の全てをなげうっても良いような何か、もしこの子がキャバクラ嬢とかだったら、全財産かすめ取られていたかもしれない。

「お帰りなさいパパ」このパパはパパ活のパパか、僕の頭はぐるぐる回る。

何かやらかしたか、いやそんな事実はたしかないはず・・・。

「いや、お帰りなさいパパと言ったら、とりあえず(ただいま)でしょ」

「えっ、ああ、ただいま」このパパは、父親の意味のパパか?

「パパ?」ああそうか、だからかわいいのか、そりゃ娘だもんね。

イヤイヤ、僕は自分の考えを否定するように頭を振った。

僕は見合いの後、初めてお茶をして帰って来たところだぞ。

結婚出来たとしても、これからだぞ。子供なんて居るわけがない。

「ママとの初デートうまくいった?」

「えっ、いや、あああー」僕はこの状況から自分の心を逃避するように、デートじゃなくて見合いだから。と心の中で突っ込んだ。

今はそんな言葉の違いなんかどうでもいいことに気づき、仕方なく僕はこの目の前の幻なのか、気のまよいなのか、僕自身の気が触れたのか分らないながらも、今日のデートのことを話す。

すると女の子の顔が、みるみる般若のように変化した。

「何でお茶代くらい出すって言わないの。ママが素直におごられるわけないじゃない」

「いや、そんな事、知らないし」当然だ。見合い相手には、今日初めて会った。

「ああん、しかたがない、私が時間を戻すから。今度はうまくやってよ」

「はい」と僕は力なく返事をした。



今日の朝に戻って、見合いをもう一度することになった。

見合い自体は順調だったのだ。問題はその後だ。


「ごちそうさまです。なんか僕が出すつもりだったのに、お茶代ださせちゃって、今度の食事は絶対に僕が出します」

「いえ、なら、高いところはやめてくださいね、いつもの行きつけのところで結構です」この会話は、次につながったと言うことか。

「分かりました。実はよく行く行きつけがあるんです。絶対に美味しくて気に入るはずです」僕は心の中で小さくガッツポーズをした。

「本当ですか。楽しみにしています」



帰ると首尾を女の子に報告をする。

「まずまずね。パパもやれば出来るじゃない」女の子は、満足そうに、こたつにいる僕を見下ろす。

「あの」

「なにパパ」

「君はいったい」

「ああ、お初です。あなたの娘です」

「娘?」

「パパとママが結婚して一年半後に生まれました」女の子は僕にVサインをして来る。

可愛いな、と心から思った。

「そうなの」そのかわいさにまいったのか、その時の僕に、この娘を疑うという選択肢はなくなっていた。

「そうなの。だから、パパにママとの結婚を失敗されては困るの」

「失敗?」

「そう、パパがママを怒らせて、結婚が流れたら、あたしが生まれなくなるでしょう」

「ああ、なるほど」

「ただでさえ、パパはいつもママから怒られているんだから。娘のあたしが言うのもなんだけど、よくママはパパと結婚したわよね」

「ああ」

「ああって。なにその覇気のない返事は。とにかく、二度目のデートでは今度は遊びにつれて行く約束をして来るように。ママは海と夜景が好きだから、今度食事をしたら、そうね。今度は夜、横浜に夜景を見に行きましょう。なんて誘うのよ。みなとみらいの夜景なら、ママは絶対に断らないから」

「はい、分りました」



美智さんとの食事の後、僕は部屋に帰って来た。

女の子は、こたつの中でよだれを垂らして爆睡していた。

こいつには警戒心がないのか。でも爆睡している姿も可愛い。

「ただいま」

「ああ、お帰り、どうだった」女の子はよだれを袖で拭きながら起き上がった。

仕方なく僕は今日の首尾を女の子に報告する。

「はあー、断られた!何でよ、ママがみなとみらいの夜景を断るわけない。何をした。パパ、正直に言って、ママに何をした?」結局こうなるのか。

「いや別に、食事だって、美味しい行きつけのラーメンをおごったし」

「ちょっと待った。ラーメン?二度目のお見合いのデートでラーメン屋に連れて行ったの?」

「いや、本当に美味しいんだ。食べログとかでもいつも上位だし」

「いや、そういう問題じゃない。パパ、いくらママが安いところと言ったからって、ラーメン屋は無いよね。二度目のデートよ」

「だって行きつけって言うからさ」

「だからってラーメン。そもそも行き付けというのはパパに気を遣わせないためでしょう。ママの性格がまだ分らないの。イヤ、確かにママもラーメンは嫌いじゃないけれど、一番はじめはだめでしょう」

「じゃあどうすれば良いんだよ」

「ああ、もう良い。もう一度、食事のデートの前に戻すので、そこからやり直して」

「えー、もう一度やるの」

「文句を言わない。あたしが生まれるかどうかの瀬戸際なんだからね」


今日の朝に戻って、やり直す。

今度はラーメンではなく、フランス料理店に入った。

「素敵なお店ですね。こじんまりしているのにとてもおいしい」美智さんはさっき?

(まあ時間が戻っているからさっきか)とは見違えるように、機嫌が良い。やはりラーメン屋はダメだったのか。

「上司に教えてもらったんです。ここのオーナー、有名ホテルでシェフやっていたらしいんですよ」

「どうりで」

「それに、すごくリーズナブルなんです。ごめんなさい、行きつけではないんですが、どうしても美智さんにここの料理を食べて欲しかった。ちょっと口に合うか心配で、でもあなたをここに連れて来たかった」

「ありがとうございます。とても気に入りました。次はどこかに遊びに行きたいですね」

「じゃあ、僕が良く行く遊び場に行きませんか」

「はい是非」



帰ると女の子が、僕の命の次に大事なフィギュアを眺めていた。

「勝手に触るなよ。高い奴もあるんだから」

「こんなにあったんだね。なによこの人形、スカートの中パンツ見えるじゃない。着せ替えできないし」さすが女の子だ。人形は着せ替えが出来なければいけないらしい。

「リカちゃん人形とかとは違うから」

「でもママが怒って、強制的に捨てられたことがあったよね」

「そんな事になるの?」

「あっ、もしかして、あの時、本当に大事なフィギュアは隠していた?」未来の話なんかわからない。でも結婚したら、高価なフィギュアは、隠しておいた方がいいということだけはわかった。

「そうなのか」

雲行きが怪しいので、ごまかすように僕は女の子に今日の成果を報告した。


「よろしい。やれば出来るじゃない。パパ」

「でも僕は最近気づいたんだ」

「何に?」

「いや僕は。今まで彼女がいた事ないし、女子と話したことも極端に少ないし、なんて言うのか」

「ああ、それは大丈夫。それについては、ママも十分すぎるほど分っているから。ホントパパは社交性とか、コミニュケーション能力が皆無だから」

「そこまで言うことないだろう。僕だって、仕事を頑張ってそれなりに評価をされているんだから」

「でもパパは、同僚の女子社員から、(なんて良い人なんでしょ。どうして あんな良い人を、世の女は放って置くのかな)なんて言うのに、その人はパパを彼氏にしないのよね」

「いや、そんなことは」まるで見て来たかのように言うなと僕は思った。まあ当たらずとも、遠からずではあるけれど。

「結局、ただの良い人でしかないのよ、パパは」

「いや、そこまで言わなくても」

「でも安心して。そういうところが、ママもあたしも、パパを好きな所なんだから」

「えっ、そうなの」

「いやいや、喜ぶのは早いからね。そこをママにわからせなきゃいけないんだから。いいパパ。今度のデートはママを楽しませなきゃダメよ。で、パパのいいところを前面に押し出して、ママにこの人と結婚しようと思わせるのよ。あっそうだ、間違ってもこのお人形さんの話題は出さないように」

「はい」



「ああああ、どういうことよパパ。結婚する気があるの。なんでよりによって競馬場なんて連れて行くのよ。いい、パパとママがこのお見合いで結婚してくれないと、あたしが生まれてこないのよ。分っている」

「いや本当の僕を見せた方が良いかなって」

「いや、見せすぎでしょう。まあ、フィギュアの話題よりはマシか」

「そうだろう。だから男のロマンは競馬だよ」

「あのねえ。ママが競馬嫌いなの知っているでしょう。小さいときにママに、(パパは)と聞かれて、

お馬さん。と答えてどんな目にあったか。それからあたしは、ママにパパはと聞かれても知らないーと答えてきて上げたのよ。感謝してよ。これで結婚が壊れたら、どう責任とってくれるのよ。あたしにだって夢があるんだからね。この世に生まれて、あんなこと、こんなこと」

「お前が生まれたら、お金がかかりそうだな」

「そんな事は覚悟してもらわないと困りますっ。と言うか、あんなフィギュアみたいな訳分らない人形にお金を使うより、よほど有意義でしょう。とにかくもう一度あの食事が終わった所に戻すから、本当に、本当に今度こそ、うまくやってよね」

「また戻すの?やり直すの」

「当然でしょ」

「同じ事やるの、結構めんどくさいんだよな」

「どの口が言う。本当に本当ーに、真面目にやってよね。あたしが生まれなくなるの」

「はい、分りました」



お出かけやり直し


「海、素敵ですね」美智さんは、風に飛ばされそうな帽子を手で押さえながら言った。

ここは千葉の海岸だった。

何度か仲間同士で遊びに来た海水浴場だ。でも今はシーズンオフなので、誰もいない。

「ここ好きなんです。本当は、もっと楽しいところに連れて行ってあげられれば良いんですけど。でもどうしてもこの景色をあなたに見せたかった。僕は辛い時や悲しい時、いつもここに来ていました」海を見ながら遠い目で僕は言う。

「こんなに遠くなのに?」美智さんは、少し驚いたように言う。

「ここまで来る時間も、心を整えるには良い時間でした」

「そうなんですね」

「それで僕は救われた。だからその風景をあなたに見てもらいたかった」

「嬉しいです。あなたの本当に大事な物を見せていただいて」

「よかったー」と僕は砕けたように微笑んだ。

「美智さんに、嫌われるかと思った」

「どうしてですか?」

「だってつまらないでしょ。お前の自己満足だなんて言われても仕方がない」

「そんな事は」美智さんは少し顔を赤らめ、小さく言う。「今度うちに遊びに来ませんか。まだ正式に両親に紹介すると言うことでは無いんですが。私の家庭を見ていただきたくて」

「喜んで」と僕は言った。

「でも遊びに来るだけなんで、気楽に来てくださいね。あんまりちゃんとしたかっこして来たらだめですよ」

「はい」



後日、美智さんの家に行って帰って来ると、女の子がいつものように報告を求める。僕は詳細を女の子に報告をする。

するとまた。顔が般若に。

「ちょっとパパ、いい加減にしてよね、結婚する気があるの。冗談じゃないわよ。あたしは悲しいよ、父親がこんなに常識がないなんて」

「だって。普段着でって」

「だからって、おじいちゃん、おばあちゃんの前に穴あきジーンズのボロボロのTシャツってなに。

パパは愚か者なの?

常識のない人なの?

私は、パパがもう少し常識があると思っていたけれど、それは買いかぶり?

まともに見えていたのは全部ママのおかげだったということ。

ママのおかげでまともに見えていただけってこと。

結婚して二十年以上経った今だって、そんな格好でママの実家には行かないでしょう。本当に勘弁して欲しいんだけれど」

「僕は、素直なだけだよ」

「あのね、おじいちゃんとおばあちゃんは普段は優しいけれど、そういうところはうるさいの知っているでしょう。まあ、だからパパはママの実家に行くときはしぶしぶだったけれど」

「そうなんだ。まあ確かにあの家は居心地が悪かった」

「あたしは、よかったよ。小学校の時、夏はいつも10日くらいおじいちゃん、おばあちゃんのところにいたじゃない。私はそこで、道理をわきまえると言うことを教わった気がする」

「そうなんだ」

「とにかく、もう一度、ママの実家に行くところに戻すから、本当に、本当に今度こそちゃんとやってよね。あたしが、生まれなくなっちゃうの。

パパは娘を原宿とディズニーランドに連れて行きたいと思わないの。

ポップコーンを買って。

砂羽、何でも好きな物買ってやるぞって言いたくないの」

「お前の名前は砂羽って言うのか?」

「そうだよ。パパとママが同じ名前を提案して、それが良いと言うことで、あたしは砂羽になったの、一瞬で決まったらしいけど」

「そうなんだ」

「って感心してないでよ。パパがここでしくじれば、それもパーよパー」

「パパだけにパーか」

「面白くない!そんなくだらないこと言ってないでよ。

とにかく、もう一度時間を戻すから。」

「やっぱりあの家にもう一度行くのか?」

「パパがそういうことを言う?全部自分で蒔いた種でしょ。いい加減にしてよね」

「はい。わかりました」



美智さんの家に行って、帰って来て、例によって女の子に報告をする。

「まあ良いでしょう。で、パパ、おじいちゃんには美智さんを僕にくださいとか言ってきたの」

「いや」

「なんで?」

「だって顔見せだから」

「イヤ普通。そこまで行けば娘さんをとなるでしょう」

「だって、正式というわけではないんですが私の家族を見てもらいたいって」

「だって、だって言わない」砂羽はピシャリと言う。

「はい」砂羽が指を折りながら数えている。

「ママ、二十五の時だよね。普通さ、二十五の娘が男連れてくれば、そういうことだよね」

「はあ」

「はあ、じゃない」

「はい」

「まあでも失敗はしていないか、むしろ慎重と言うことでポイントを稼いでいるかもしれない」と砂羽はブツブツ言っている。

「あっそうだ。パパはママの趣味把握している」

「観劇だっけ。最初に言っていた」

「そうね」

「観劇だけに感激って」

「パパの親父ギャグは、若いときからだったんだ」冷静に言われると傷付く。

「いいパパ、ママが好きなのは、観劇でもミュージカルだから」

「あっ、あの台詞が歌の奴。なんか好きになれないんだよな」

「何言っているのパパ、ミュージカルの歌は歌じゃないんだよ。感情表現の台詞なの。上手い歌は、歌がうまいのではなく気持が伝わるのが上手い歌」

「ああ、そうなんだ」

「確認です。今日のデートは?」

「えー、今日はホントに行きつけのラーメン」

「うん、ママもラーメンは好きだから、このくらいの場数があればいいでしょう」

「で、指輪のサイズか、今度一緒に指輪を買いに行く事を言って、約束を取り付ける」

「そうね。頑張ってパパ」

「でもさ。普通、指輪っていきなり渡して、サプライズじゃないの」

「ママはそういう趣味ないから。サイズ直すくらいなら初めから一緒に行きたい、みたいな」

「そうなんだ」



「ごめんなさい。今日も出してもらって。ごちそうさまでした。凄く美味しいラーメン」

「実はここが本当の行きつけだったんです」

「そうなんですか、だったら、初めからここでよかったのに」嘘付け、と僕は思った。

「いえ僕が、あのフレンチ行きたかったんです」


「あれ、美智じゃないか」道ばたで美智さんが、知らない男から声を掛けられた。

「あっ」美智さんが明らかに慌てている。

「どうした。美智、あれそちらの人は?新しい彼氏?」

「いえ。婚約者です」と僕は言う。ここは男を見せるときだ、じゃないと帰ってから砂羽からの説教タイムになる。

「おまえ、結婚するのか?」驚いたように男が言う。男は雑な言い方が場違いと感じたのか、僕に向い。

「ああ、それはおめでとうございます。おれ、こいつの・・・」さすがに言いよどんでいる。

「元彼さんですか?」僕は全然気にしていないように言う。

「あっ、ああ、そうです」僕の毅然とした言い方に男の方が少しひるんだ。

「初めまして。美智さんとお付き合いさせていただいています」

「ああ、それは。でもこいつ、ミュージカルとか、歌劇団の追っかけとか、ちょっとオタクぽいですよ。趣味はミュージカルを観ることとか言われませんでした」

「いえ。まだ」砂羽からは聞いていたが美智さんからは、観劇としか聞いていない。

「俺はどうかと思うんですけれどね。だって台詞が歌ですよ。普通に話せば良いのに」元彼の考えは、男はみんな自分と同意見だろうというと言う前提で話している。

「いえ、ミュージカルの歌は、歌じゃないんですよ。そこに感情を盛り込んだ台詞、だから上手い歌は、上手な歌ではなく、感情が伝わる歌が良い歌と言うことなんですよ」

「あっ、あなたもミュージカルがお好きなんですか。えっ、もしかしてそういう繋がり。だとしたら、失礼なことを」

「いえ、大丈夫ですよ」ミュージカルの台詞についてはお前と同意見だよとは言えなかった。

「なんかすみませんでした。美智よかったじゃないか。趣味が一緒の人で」

「えっ、ううん」

「お二人、すみませんでした。お邪魔しました。お幸せになってください」

「あっ、ありがとう」と美智さんが、戸惑ったように言う。

「いや、こちらこそ」と言って、男はその場を離れた。


「すみませんでした。何だかご不快な思いをさせてしまって」

「いえ、全然気にしていませんよ。むしろ祝福してくれる人が増えてよかった」

「あと、ミュージカルお好きだったんですか?」

「いえ、多分美智さんほどではないと思いますよ」

「そんな事ありません。とても深く理解していらっしゃいます」

「そんな、あっ、まだ結構時間ありますね。よかったらこれから指輪でも見に行きませんか。指輪がないと、プロポーズも出来ない」

「そんな」といって美智さんは顔を赤らめて下を向いた。

(ヨシッ)僕は心の中で、大きくガッツポーズをした。



部屋に帰ると、砂羽がいなくなっていた。

部屋には砂羽の痕跡が何一つない。まるで砂羽なんか初めからいなかったかのように。

僕は、ああ、砂羽は役目を終えて帰ったんだなと思った。ちょっと寂しいけれどまあいい。そのうち会えるだろう。



一年半後

僕は産婦人科の分娩室の前にいた。

緊迫の時間、急に赤ん坊の泣き声が聞こえた。しばらく待つと、看護師さんが出てきて、

「どうぞ」と言う。僕は分娩室の中に入る。生まれたばかりの赤ん坊を抱く美智がいた。

「美智、よくやった」

「あなた、ありがとう。女の子よ」

「そうか」と言いながら僕は生まれたばかりの娘を抱いた。

「名前は?」と僕が言うと、一秒ずれで美智が同じ事を言った。何だかハモったようになる。

「僕は、つけたいと思った名前があるんだ」

「あたしも」

「じゃあ、一緒に言う?」

「うん」

「じゃあ、いっせいのせ」

「砂羽」同時に同じ名前を言った。

「どうして?」

「なんか、そんな気がした」

「お二人、ご夫婦で息ぴったりですね」と横の看護師が驚いたように言った。

僕は、腕の中の赤ん坊に向かって、

「砂羽」と声を掛けた。すると赤ん坊の砂羽は僕にウインクした。まだ目も開いていないので、本当はウインクかどうか分らないかったけれど。

でも僕はなんとなくウインクのように感じた。

僕は、心の中で砂羽に話しかけた。


砂羽、久しぶり。ママと結婚させてくれて、ありがとう。

 

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