第67話 油染みの付いた粗末な服

 サラが後を追って出て行くと入れ違いに侯爵が入ってきた。

「失礼するよ。君達は俺に用があってこの村まで来たと聞いた」

「え、ええ。そうです」

 侯爵は粗末なシャツに穴が開いた上に油染みで汚れたズボンをはいていた。

「ええ、そうなんだけれど……」

 侯爵は木の椅子に腰をかけて、長い足を組んだ。

 ボロの衣服で無精髭が生えていても、逞しい体躯とその美しい漆黒の瞳は変わらない。

 こちらへ投げかける訝しげな視線は私を怪しんでいるのだろう。

「あなた、私の事を覚えてないの?」

「君の事? もしかして知り合いか?」

「ええ、そう」

「確かに俺には失われた記憶がある。生きる為の知識は失われていないが、どうも生きてきた環境は思い出せないでいるんだ。だが、俺はこの村で暮らしていたダンだと」

「そう教えられたのでしょう? エルダという女性の旦那様で、子供達の父親である、と。この村の人がみんなであなたをそういう人物に仕立てあげた」

 侯爵はしばらく黙っていたが、

「そうだ。少し前に国を挙げての大きな魔族討伐があったらしく、俺はそれに巻き込まれて大怪我をしたらしい。実際、意識が戻ってから身体が動くようになるまで三ヶ月はかかった。それで? 君達とはどういう知り合いなのか?」

 と言った。

「あなたの本名はガイラス・ウエールズ侯爵。隣の領地、ウエールズ領を統治する侯爵様です」

 少しの間があって、侯爵はぷっと笑った。

「まさか、俺はダンだ。この村で生まれ……エルダとは幼馴染みで……」

「それはあなたに植え付けられたデタラメな記憶ですわ」

 記憶を失った人物が自分で思い出す前に真実を教えるのは、私が前世で読み漁ったラノベやハーレクインロマンスでは御法度だったような気もするけど、まいいか。

「何故? デタラメ?」

「エルダさんの子供には父親が必要で、この貧しい村には男手が必要だったからですわ」

「……」

「あなた、先日、森で大きな獲物を仕留めて帰ってきましたね?」

「ああ」

「その獣はどうやって仕留めました? 斧で? 剣で?」

「それは……斧で」

「その斧を使う手腕はどこで覚えたと思います? あなたのその鍛え上げられた筋肉はどこで作られました? 村でウサギや猪を狩るだけでそんな身体が作れると思います? あなたはグランリーズ国王軍の軍団長を務める方なのです」 

「嘘だ」

「嘘をつく為にこんな辺境の地まで来たとでも?」

 と私が言うと、

「辺境の貧しい村で悪かったな」

 と侯爵がむっとしたように言った。

「と、とにかく、あなたガイラス・ウエールズ侯爵で間違いありません。私達はあなたを迎えに来たのです」

「……」

 侯爵はぶすっとした顔で黙ってしまた。

 顔色からうかがえるのは混乱。

 それは理解出来る。けどそれでも真実を伝えないと侯爵の中にある今まで培ってきた物が今の生活に押しつぶされてしまうと思った。

「お疑いなら一度王都か領地の侯爵家へ来て頂けませんか、あなたの事をよく知っている人達に会えば、私の言うことが嘘ではないと分かって頂けるはずですわ」

「村を留守には出来ない。年寄りも多いし、食料も少ない。俺が狩りに行かないと」

「……では」


 その時、「ダン! エルダが!」と言って村人が小屋へ飛び込んできた。

「どうした? 眠ってただろう?」

「目を覚まして暴れ出した! 手に負ないんだ!」

「すぐ行く」

 侯爵は立ち上がり、私をちらっと見てから慌てて小屋を出て行った。 

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