Éclair 雷光

 アンジュは明け方に館に帰って来た。

 朝、身支度の手伝いに来た小間使いが教えてくれた。

 ぼくは乱暴にドアを開けて廊下に出た。いつもは影のように無表情な小間使いが怯えた顔でぼくを見ている。それが、ひどくかんに障った。

 ラファエルとは、階段のところでいっしょになった。


「おはよう、ミック」

「おはよう、ラフ」

「アンジュ、帰って来ているってね」


 ラファエルは小声で言って、溜め息をついた。

 ぼくはこれまでラフに見せたことがないほど、不機嫌な顔で頷いた。

 窓から見える空は、ぼくの苛立ちを写すように不穏な雲行きに変わって行く。

 それに気付いたラファエルは、不安気にぼくを見た。でも、ぼくは何も言わなかった。


「おはようございます、アンジュ」


 ぼくらは並んで、居間に入った。

 アンジュが言った。


「おはよう、ラフ。おはよう、ミシェル」


 ラファエルはハッとして、兄と同じ色の瞳でぼくをうかがい見た。

 ぼくは何もかもに腹が立った。アンジュはもとより、ラファエルにさえ腹が立った。

 真っ黒な雷雲が、空を覆って行く。

 夜が明けたばかりだというのにミモザアカシアの咲く館は、見る見る暗闇の底に沈んで行った。

 抑えようのないぼくの怒りに火がつく。


「アンジュ、ぼくをミシェルって呼ぶな!」


 使用人たちが凍りついた。配膳係のメイドが朝食のトレイを落とす。

 食器が割れる音と重なって、雷鳴が近付いてくる。


「二度と、ぼくをミシェルと呼ぶな!」


 激しい稲光と雷鳴にメイドたちから悲鳴が上がり、ひとりが耳を塞いでその場にうずくまった。

 硝子窓を震わす光と轟音。これまで無機質な影にすぎなかった使用人たちが、恐怖を露わに色めき立っている。そんな中で、アンジュだけは冷めきった目でぼくを見ていた。その落ち着き払った態度に、ぼくの怒りは爆発する。


「ぼくがこどもだからって、これ以上、おまえのおもちゃにされてたまるか! 鬱憤ばらしなら、ぼくじゃなくて直接おじいさまにすればいいだろう!」


「それで?」幾筋もの雷光に照らされながら、アンジュは煙草に火をつけた。


「おまえなんか、嫌われ者の薄汚い死神タナトスじゃないか! 弱いものいじめの卑怯者! 強いものには何もできないくせに! 強いものには、這いつくばって言い成りになるくせに!」 


「だから?」アンジュは、物憂そうに煙を吐き出した。「少しくらい雷雲が操れるようになったからといって好い気になるな、ミシェル」

「ミシェルと呼ぶなって言っただろう!」


 雷光を追うように雷鳴が轟き渡る。


「ミモザの木、一本も倒せないおまえの稲妻エクレールは、おまえと同じ。甘いお菓子エクレールにすぎない。それは、おまえだってわかっているはずだ」  


 アンジュは煙草を吸い、ゆっくりと煙を吐いた。


「お菓子なんかじゃない! わかっていないのは、アンジュ、おまえの方だ。おまえの館のミモザなんか、みんな引き裂いてやる!」


「やれるものなら、な」稲妻の光の中を流れていく紫煙を目で追いながら、アンジュは続けた。「おまえは勘違いをしている。わたしは、おまえを鬱憤ばらしにしたことはない。おもちゃにしたこともない」


「それなら、今までぼくにしてきたことはなんのつもりだ。なぜ、ぼくひとりを地下室に呼びつけるんだ! 今夜も、ぼくをおもちゃにするつもりだからじゃないか!」


「わたしが地下室におまえだけ呼ぶのは、おまえを愛しているからだ」


「嘘だ! 口から出まかせはやめろ、アンジュ!」


「おまえがどう思っていようと、わたしはかまわないが」アンジュは、煙草を揉み消した。「ミシェル、この雷雲で館のミモザの木を一本でも倒すことができたら、おまえを自由にしてやろう。機械時計の部屋ごと、おまえの祖父の神殿に帰るなり、どこにでも好きなところに行けばいい。これからおまえの背中に生えてくる翼の芽など、わたしの知ったことじゃない。ただし」


 ラファエルがハラハラしながら、ぼくとアンジュを見ている。


「おまえの甘ったるいお菓子エクレールで、ミモザの枝一本落とすことができないのであれば、おまえは一週間、地下室の中だ。わたしはこの一週間、館にとどまっている。おまえが二度と甘ったるい譫言うわごとが言えないように思い知らせてやる」


「にいさん!」


「おまえは黙っていろ、ラフ。ミシェル、おまえは、素直で優しすぎる。愛が深すぎるんだ。おまえのすぐ上の兄と同じだ。それが、やがて些細なことで疑心暗鬼を生む」アンジュは、まっすぐにぼくの目を見詰めた。「おまえの兄はな、出会ってすぐに自分の半身に手を掛けた」


「……」


「殺したんだ」 

 

「そんな!……そんな馬鹿なことあるはずがない。嘘もいい加減にしろ、アンジュ!」


「おまえの兄も子どもの頃は、おまえと同じだった。己の半身と出会い、多くの魂を救うことを願っていた。しかし、魂たちの行く末を思うあまり、ふとした切っ掛けで疑念が生まれた。最初は取るに足りないちっぽけな種子だったのが、芽を出し蔦を伸ばし、瞬く間に彼の心を雁字搦がんじがらめにしてしまったんだ」


 雷鳴が轟き、アンジュの声を遮った。アンジュは構わず、話を続ける。


「それで、彼の半身—— 彼と瓜二つの美しい聖処女に出会った直後に、彼女を殺してしまったのさ」


「……意味がわからない。口から出任せばかり並べるな、アンジュ」

「出任せだったら、ミシェル、おまえはここにいない」

「だから、ミシェルと呼ぶなと言っているだろう!」


「おまえの兄は、己の半身に運命の糸を操る力がないことを恐れていたんだ。運命の糸を編み上げることができなければ、機械時計は動かない。魂たちは自由になるどころか、永遠に動くことのない機械時計の中で、悲しみ足掻き苦しむことになる。おまえも知っている通り」


「黙れ、アンジュ! 聞きたくない、そんなことは——」


「黙るのは、おまえの方だ。ヘルマフィロディトスとして作られた以上、おまえも兄も、その手で機械時計を生み出すことができる。だが、おまえたちの半身は違う。人の血が混じる以上、力を持つ確率は半々になる。因果なものだ。運命の糸を操るために人の世に堕とされたのに、それが彼女たちの力を削ぐことにもなるのだから」アンジュは新しい煙草に火を付けた。「だが、出会ってすぐに片方を始末してしまえば、それは魂たちへ捧げる人柱となる。彼女に力がなくとも、魂たちが永遠の苦しみにとざされることは免れ、次の代のヘルマフィロディトスに託されるんだ。彼女は、おまえの美しい姉は、一度も運命の糸を操る力を試されることもなく葬り去られた。理不尽にも。人間ごときの魂のために」


「でたらめを言うな、アンジュ、そんな話は聞いたことがない! 機械時計の先生だって、そんな話は一度もしたことはない!」


「お菓子でできた赤ん坊のおまえに、やつが教えるはずはないさ」


「ぼくはお菓子なんかじゃないし、赤ん坊でもない! それにアンジュ、おまえのぼくに対する仕打ちへの、なんの説明にもなっていないじゃないか!」


「だから、わたしが、おまえとおまえの半身おとめを愛しているからだと言っただろう。わたしは、おまえたちをあいつらの二の舞にはさせない。如何なる手段を使ってもだ」


「黙れ! わけのわからない御託なんて、うんざりだ」

 ぼくはアンジュに背を向け居間を出て行こうとした。


「ミック」

 ラファエルが居間の出入り口を塞ぐように立った。


「ラフ、行かせてやれ。そいつには、かまうな」


 ラファエルは狼狽うろえた目で、ぼくからアンジュに視線を移した。ぼくは、ラファエルを押しのけた。


「待てよ、ミック! にいさん、いくら、にいさんだって—— 」


 ラファエルの声を背に、ぼくは居間から出ると雷雨の庭に駆け出した。



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