8:誤解を誤解と認識できない爺
翌朝の灯子の目覚めは快適だった。
差し込む柔らかな日差し、柔らかな毛布に掛け布団。
何より背中が痛くない。
んーっと背筋を伸ばしてみると、変に凝り固まった背中の筋肉の感触も無かった。
「めちゃめちゃ柔らかい、もう一生出たくない」
もぞもぞと乱れる浴衣をそのままに、再び布団にもぐる。
お日様の匂いがする心地いい香りと……ぱたぱたと朝食の用意をする仲居の足音を聞きながら再び夢の世界に微睡む……事は出来なかった。
「ふあ……相変わらずここの布団は寝心地がいいのう……融通してもらえぬだろうか?」
のんびりとした蓮夜の声に、灯子の眼が見開く。
手を動かして枕もとを探るとこつん、と当たる確かな感触。
「おはよう、灯子。よく眠れたようで何より」
慌てて眼鏡をかけて、隣を見るといつの間にやらもう一組敷かれた布団で蓮夜がぼへら~と欠伸をかみ殺していた。
「……なんでいるの?」
「? そりゃあここに泊まったからじゃ……寝ぼけておるのか?」
「部屋は別なんじゃ……」
首を傾げて周りを見渡す灯子……良く見てみれば、自分が案内された部屋は囲炉裏が無かったのに……まだほんのりと紅い木炭がぱちぱちと火を上げていた。
「お主、昨日夜半過ぎにふらふら入ってきて畳で寝ておったんじゃ。仲居に頼んで運ぼうかと思ったんじゃがの……こんなことで起こすのも悪いし、予備の布団を敷いて寝かせたのじゃ」
「……ああ」
そういえばトイレに行ったかもしれない。
寝ぼけてたし暗かったから隣の蓮夜の部屋に間違って入ったのだろう。
「さて、朝ごはんを食べたら蕎麦屋に顔を出して神田町じゃな……服も綺麗になったろうしいい気分じゃ」
ぐいぐいと背中を伸ばして蓮夜がこれからの事を確認する。
しかし、灯子はまだまだ夢半分と言ったところらしくぽやぽやと首が左右に揺れていた。
「うい」
それでも蓮夜の言葉は聞こえていたらしく、可愛らしい声を残して……のろのろと布団にもぐりこんで何かを始める。
「なんじゃ? まだ寝るのか?」
それならそれでもいい、お互い昨晩までまともな所で寝ていなかったのだからと蓮夜が言葉を続けようとしたが、返答は速かった。
「浴衣直してるの。向こうむいてて」
「ああ、じゃあ儂は先に下の食堂に行っておる。ゆっくりと来ると良い」
もぞもぞと布団の中で四苦八苦している灯子の姿が想像できて、蓮夜は気を利かせて部屋を出る。
そもそも蓮夜自身は寝返り自体ほとんどしないので浴衣の乱れはない。
「さて、朝は何が出るかの?」
昨日の牛鍋を思い出し、思わず頬が緩む蓮夜の足取りは軽く……通りがかりに会った仲居とも和やかにあいさつを交わす。
夜霧の露を纏って鮮やかなツツジに目を向けながら勝手知ったる旅館の一階、大食堂の入り口をくぐった。
そこには仲居の面々が交代で賄いを食べていたり、忙しなく個室に朝食を配る準備が繰り広げられている。
「お? お?」
はて、と首をかしげると……お茶碗をもってお行儀よく朝ごはんを食べている仲居の一人が蓮夜の訪問に気づく。
「蓮夜様? つまみ食いに?」
ものすごく分かりやすい理由だが、蓮夜が苦笑して首を振った。
その間にもすぐ傍を仲居さんが入れ代わり立ち代わり出入りするので、お茶碗を持ったままの仲居の傍に避難して要件を告げる。
「いや、朝ごはん……と思ったのだが。早かったか?」
「いえいえ、もうすぐお部屋にお持ちしますよ? わざわざここで食べなくとも」
「む? ここで食べるのではないのか?」
「今の蓮夜様はお客様じゃないですか……ここ、朝は従業員用の食堂ですよ。ふふ」
「そうだったか。では、大人しく部屋で待つとするか」
「別に構いませんよ? 今日の賄いは焼き鮭と豚のベーコンですし……食べます?」
「いや、連れもおるしな……邪魔にならぬよう中庭でも散策して部屋に戻ろう。食事は儂の部屋に二人分で頼む、連れも一緒でな」
…………!?
仲居のほとんどが、その蓮夜の言葉に反応する。
と言っても表面上はさすがプロ、まったく顔にも行動にも出さないが……内心は全員同じことを考えていた。
――連れ……だと!?
灯子の事を知っている数人の仲居は大人しく、自分のお仕事や目の前の賄いを食べる事に没頭するが……
「れ、蓮夜様。昨日はお一人じゃなかったんですね」
「うむ、灯子と言う……金髪メガネの可愛らしい娘と一緒に厄介になっておる」
夜勤交代の仲居などはそのことを知らない。
と言うか面白がってその事実は伏せられていたりした。
「へ、へえ……珍しいですね。外国の方なんて」
「いやいや、日本生まれの日本育ちでな……今布団の中で身なりを整え取るようじゃから入る時は気を使ってあげてほしい」
「身なり!?」
「うん? なんじゃ、素っ頓狂な声を上げて」
蓮夜の発言に周りの仲居も振り返り、様々な意味を込めた視線を送るが……悲しいかな、蓮夜にそれを察知するスキルは存在していなかった。
「い、いえいえ……では、後ほどお運びしますね?」
多少上ずった声で仲居は蓮夜に朝食の事を伝える。
「う、うむ……頼んだ」
急に居心地が悪くなった気がした蓮夜は踵を返して食堂を出た。
そのまま少し速足で離れる背に、黄色い声が木霊するのをあえて無視する。
「な、なんじゃったんだろうか。一体」
後で灯子に叱られるとは露にも思わない蓮夜の朝はつつがなく過ぎて行った。
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