MY LONELINESS LOVE

(あんたらには違うよ)


MY LONELINESS LOVE

                  森川 めだか


Love so real


3月9日


 知らない一人の男と飲んでいる。

急に同窓会をやることになったのだ。

 ここまで来るのは大変だった。双子の赤ちゃんが生まれたばかりの奴もいてなかなか集まれなかった。

どうしても会いたい人がいたのだ。

まずスマホに替えることから始めなければいけなかった。僕はそれまでずっとガラケーだったのだ。電話番号だけで友達になれるのも知らなくてスマホに替える前にアドレス帳を断捨離して大切な友人をなくしてしまったくらいだったから。

それから高校の、僕たちビボラップハイスクールのグループに参加して僕は同窓会に来ることになったのだが、みんな37、38になる奴もいてみんなパパ、ママになって忙しかったから集まれるのは結局、声をかけてくれたこの男と僕だけでそうやって飲んでいる。

 僕は3月1日に下見に行くことにした。六本木なんて初めてで、ちゃんと道を確かめておかなければと思ったのだ。

地下鉄の風は心地良かった。

練馬で降りて都営大江戸線で六本木に向かった。駅に落合南長崎とかあるのが何だか不思議だった。

彼のやっている店はすぐに見つかったが、散歩している内に麻布まで行ってしまい、念願の東京タワーを写真に写すことはできなかった。冬用のコートじゃもう暑いくらいだった。

バレンシアガのリュックの中学生もいて、やっぱり六本木は違うなーと思った。

行きの電車の中で人生は電車のようなものだと思った。途中で乗ってきた人には「僕」が分からない。今までにこの電車の中で何があったのか。最後にたった一人残される。

 その日の夜、その夢を見た。僕は麻布の坂を下っていて、そこに脳みそや巨大なタコの死骸が転がっているのだ。脳みそはきっと、人間の脳の形をしていたが何個も、きっとタコの脳みそなんだろうと夢の中の僕は思っていた。

犬のウンチみたいに路上に転がっていた。

巨大なタコの下半身はシャッターとかにもめり込んでいて、きっと、夢の中の僕は、水産工場か何かが勝手に捨てたのか、カラスが荒らしたのだろうと思っていた。

僕はどこかの学校の教室で食事をごちそうになっていて、そこには小中高の同級生もいた。皆で賑やかに食事をして、僕が冗談をとばしていた。

そこに着くちょっと前の階段は急に真っ暗で、何も見えなくなった。こんなとこならあの女性はどうしてるんだろうと思いながら、手探りで僕は階段を下っていた。

彼とビールを飲むのが楽しみだ。久々の飲み会だ。

帰りの電車の中では「秘めたまま、終わるな」とか何とか予備校か何かのチラシが貼ってあり、前の席のおばさんがそんな歳でもないのに「堂々と老いる」とかいう本をカバーもせずに読んでいた。

僕の、過去や青春を今、振り返ってみれば「舐めたまま終わるな」といったところだろうか。今になってみれば・・。

あの真っ暗な階段で後ろから話しながらついて来た二人組の男は何なんだろう。

 その日、空は残酷なほどに晴れ渡っていた。

「バカみたいに晴れてるね」そうあいつに言ってやるつもりだった。出かける前に僕は髭を剃った。

プールの水を全部飲んだような金気を含んだ夏のようだ。

 その日、見た夢は何か覗き部屋のような所に女が寝ていて、僕はそれを見てた。あれは一体、誰だったんだろう。

 煙草は蜂蜜の味がした。

空が赤焼けに染まっていた。

いつのだろう、久方ぶりにコーズ素材のジャケットに手を差し込んだら、ガムが出てきた。銀の包装に包まれた青いガムだ、クールミントだろうか、いつのだろう・・。

噛んでみたら、やっぱりクールミントだった。

行きの電車で隣の少年が読んでいるのは「きみの鐘が鳴る」といった。誰の作かは知らないが。

清瀬辺りでガムを呑んだ。東久留米が駅の名にあるのも不思議だった。

 16時35分発の電車で約束の18時ごろに店に着くと、階段で少し走った、ちょうど後ろから彼が来た。

一通り笑って席に着くとまずビールを頼んだ。話は思い出話にいく。

「どこから話そうか?」彼が言った。

高校卒業以来だからおよそ20年ぶり。この集まり全部が「オールディーズ」だ。

クラスで明るかった彼も髪を後ろで束ね、品定めするような目つきになっていた。

彼の花火を人中に投げてトラブルを起こしたこと、イギリスに渡ったこと、就職で日本に帰って来たことなどを語り合った。

彼は成功したらしく、ルイ・ヴィトンの革のリュックを愛用していた。週五で使っていると言う。

僕のは8000円で買ったグラッドドスト―ンという鞄なのだが誰も知らないようだ。

しばし海鮮のもんじゃを食い、唐揚げとポテトを食べていると、彼のビデオ電話が鳴った。このクラス会に来られなかった者が気を利かせて寄ってくれたのだ。女性だが素っぴんだった。あの頃とても男勝りだった彼女はすっかりママになっていた。

次の明太子もんじゃに移った。僕はもうビール二杯とウィスキー、焼酎を飲み、二人で赤ワインのボトルを頼んだ。

僕が酒の話をしていると、「もうアル中だよ、マリオ」と彼に言われた。

久しぶりにワインを飲んだ。大学時代死ぬほど飲んだワインを。

これも再会か。

最後のワインがいけなかった。店を出る頃にはもう足元がフラついて、彼が横で何を言っているのか分からなかった。酒の中に薬を入れられたんじゃないかと思ったほどだ。

狂乱の世界。彼とポーカーに来た。僕はルールも分からないので試しにやってみる事にした。

もうその頃には「姫」と呼ばれているプレイヤーが頼んだ飲み物が「にわとりジュース」と聞こえるくらいに酔っていたが。

「こうなりゃポン助になるっきゃない」またテキーラを飲みながら僕が言うと、「ポン助って何?」と言って彼は取り合わなかった。

持ち手が77だったので一回だけ勝った。

「自由だ」僕は呟いた。

彼は「俺以上に働いてる人はいない」と言っていた。再来週に彼の赤ちゃん、女の子が生まれるらしく、おめでとうを言った。

終電を逃したから途中からタクシーで帰らねばならなかった。3300円。

終電後のタクシーのりばには警察の標語が、「どの子にも明るい未来としあわせを」と書かれていた。

「人生の通り道にはどれくらいある?」僕はタクシーの運転手に尋ねると、後は夜景を見ているだけだった。

あの人の話は聞けなかった。

また夏に集まろうと約束して別れた。

スーパーで見た苺大福のような、赤いまんじゅうのような月だった。


Shy make smile


 春の蝉が鳴いている。

それは遠い遠いノスタルジアのこだま、呼び声に似ていた。

僕と三枝みぐさは美術室にいた。

「そんな時同窓会に呼ばれたらどうすんのさ」

春は午後の上。

三枝はうふふと笑った。

「マリオ君、おかしいね。今からそんなの思ってるんだ」

美術部をいつも包むのは静寂でした。たった二人の美術部。

三枝はさえぐさではない、名前だ。両親のどちらかの初恋の相手の名前だろうか?

花瓶には苺の実も付いてる茎が差さっている。僕らは今、放課後、それを描いている。

大木おおき先生の弁当見てみたいよな」

大木先生というのはこの美術部の顧問の先生だ。大柄で白髪。

滅多にこの美術室には現れない。

美術室には銀盤の水洗器がある。そこで筆を洗ったり手を洗えたりできる。

僕と三枝は、美術部の時間でしか会わなかった。同じ三年だというのに、なぜか会いそびれている。

僕らはお互いに18歳でこれから未来がどういう形をしているのか分からないけれど、待ち受けているはずだった。

「ピノキオは何で嘘をついたんだろう?」僕がそれを言うと、また三枝はあっちを向いたままでうふふと笑った。

「おかしいね。そんなこと気にするなんて」

三枝はいつも、天に向かって話しかけているような、そんな不思議な話し方をするのだ。

「ゴッホは何で糸杉なんて描いたんだろうねえ」僕は意味もなくため息を吐いた。

三枝は自分のことをあたしと呼ぶ、私ではなくあたし、だ。

「あたしに聞いたって・・」それでも笑っている。

美術部の活動とは関係なく、僕は今、自分の部屋でキャンバスに自画像を描いている。雪だるまの自画像だ。

美術部の活動としては今年の春に描いた、大木先生から出された課題の二人のポットパイの絵が美術室の横の廊下に展示してある。

「二人のパイの中身を想像してもらおう」それが大木先生の興味からくる言葉だ。

二人ともカップをパイ生地が包んでいる絵を描いた。その中身をみんなが予想してアンケート箱まで設置した。開けるのが楽しみだ。

僕の絵を見て三枝が言った。

「マリオ君のはきっとマッシュルームの入ったきのこチャウダーよ」

「三枝のは熱いりんごのデザートかな」

こうして笑い合えるのもあと一年。三枝が高校を卒業してどこへ行くのかは知らないがそんな事聞いたこともない。僕の片想いなのだから。

そんな、白線の内側の物語だ。

片想いっていうか一人思いだな、これは。

卒業が近づくにつれてみんな辞めていった、元々、少ない部員だったけど。後輩は不思議なことに入ってこなかった。今年の一年が入ってくれれば嬉しいのだけど、僕と三枝のこの静かな大切な時間が失われるとなるとちょっと寂しい。

僕と三枝がこうしてゆっくり話し合うのも、実は初めてだった。ずっと片想いだった。

苺は熟しているから早く描かないと。

僕は学ランにエプロン姿で、腕を汚さないようにしている。三枝は紫っぽく見える制服にエプロンで、スカートが長くてよく絵の具を垂らさないものだなと思うけれど、いつも綺麗な身なりをしている。

二人だけで黙って絵を描くのも気まずいので、僕たちは作り話をしている。その中では三枝はステイシーで、僕はMrlonelinessだ。何だかちちくりあいをしているようで愉しい。

「絵がこんなに愉しいものだとは」

「早めのデートをお勧めするぜ。狙ってるヤツいっぱいいるから」友達に言われた。

でも秘密を共有してるのは僕だけなんだ。

それは二人きりになった去年の冬、聞いてみた。

「何でそんな淋しそうなの?」

「あたし、血友病だから」

「血友病って血が白くなるの?」

「血が止まらないんだ」

秘密は舌を噛んだ。

「あたし、赤ちゃん産むと死んじゃうから」

「僕は早死に家系だから・・」僕は笑っただけだった。

その時、三枝が描いてたのはひざまずくガネーシャだった。白い象。

「これ、捨てて来るね」

美術室の裏には筆洗液を新聞紙に染み込ませて入れておくドラムカーがある。歴代の先輩たちのもだ。

暑くもないし寒くもない。裏庭には泥土が溜まっている。付いてるのはタイヤの跡だけ。

ビボラップハイスクールにはサンドインという売店兼イートインがあるのだけど、いつもマスタードの匂いがする。

その頃の僕は何か、いつまでも何かのプロローグのような気がしてた。

サンダルはいつものように足につっかえていたし、胸に何かつっかえていた。


 誰かが爪で叩いてるような屋根の雨粒の音が校舎の窓から響き渡っていた。

新聞紙を覆うビニール袋みたいな一日だ。

空が流れ出している。

雨に打たれて街は輝いてる。空の方が低い。

風が何かを話しているようだ。誰も聞いてくれない話を。

「マリオ君、顔色悪いよ」女子生徒がからかった。いつからか妙なゲームが流行るようになった。

これは外国のことだが、毎日顔を合わせる人に「顔色悪いよ」と言われ続けると、それが嘘でも本当の病気になって死んでしまうというのだ。

悪いジョークだ。今日は僕が標的のようだ。

「マリオ、顔色悪いぞ」他の男子生徒もからかってくる。

「マリオ君、すんごい顔色悪いよ」

「マリオ君、顔色悪いよ」

そう言ったのは三枝だ。美術室で。

「ステイシーもそんな事言うのかい」

「あら、ステイシーは言うわ。Mrlonelinessには何の遠慮会釈もないもの」

また、三枝はうふふと笑った。

その頃の三枝ときたらいつも同じところに青あざを作っていた。

三枝はどことなくどこか絵で見たキリストに似ている。

雲がすごかった。美術室は校舎の別館の二階にある。下は図書室。

「ねえ、弱いって字は羽に似てるね。きっとそれは昔、人に羽が生えてたからだわ」三枝も空を見ていたのか言った。

「大理石の中にある物を現すって言う人はいるけど、キャンバスの中にある物を現すって人はいないよね」その時、僕は新しいキャンバスをイーゼルに立てかけて向かっていた。

「キャンバスは僕たちのものだ。自由って一体何なんだろう」

「マリオ君、やっぱり変わってるよ」三枝も僕の真似をしたのか、箱から新しい、僕のより一回り小さいキャンバスを出した。

「わりとよくいる普通のタイプだと思うけど」

僕にはその頃、いっぱい不思議があった。それは目の不思議さとか自由とか、ピノキオだとかだったけど、やっぱり一番不思議だったのは三枝だったな。

僕は筆を油につけながら、「誰もいない森で木が倒れたとしても音はすると思うな。いつか誰かが聞くはずだよ」

三枝とこんな話をできるのが嬉しかった。

「あたし、もうすぐ死んじゃうんだ」三枝は僕のことをまるでやぶからぼうに睨んだ。三枝はこんな風にいきなり人を睨むことがある。

いつも、三枝の左腕には細いベルトのロンジンの腕時計があった。

三枝の血友病が生まれつきなのか後からなのか分からない。

三枝は顎をつんと伸ばしてキャンバスに筆を置いた。

「ある日突然やって来て、永遠に据座る。それが運命なの」もう僕のことを睨んではいなかった。

「ピノキオは・・」僕はお茶を濁した。

ビボラップハイスクールの高台の美術室からは黒胡椒湾が見える。ただ、吹く風は遠いアッケシ河からのものだ。遠く望めるタライ山を巻いて吹いてくるのだ。

ハイスクールの裏には通称ぼっち山と後ろ谷が控えている。そんなゴタゴタした過疎ってる所が僕らの故郷だった。

三点倒立みたいなイーゼルが二つ。

「人類が、遠い祖先がさ、死ぬって気付いたのはいつ頃だったんだろう」

三枝は吹き出した。

「笑わせないでよ」

よりリアルにオリーブの実を描けても朝だけは描けないだろう。

「僕は限られた人生だから、出会った人全部、運命の人だと思ってるんだ」

「ふーん」と一旦、三枝は言って、「あたしは、・・あたしは怠慢が神に対する最大の罪だと思ってるの」

「へー」

「春と結婚したの、あたし」

けっこう春は生まれては消えていく。

僕は三枝が目を離したスキに三枝の白いクリップを盗った。三枝はけっこうステーショナリーが好きだ。

クリアファイルは猫を抱いて寂しそうに見詰めている少年の写真が使われている。頬にすり傷。その中のポストカードは、ライオンと一緒に眠っている女の子。親指をくわえて。

どちらにもdi allと書いてある。

もう一つ、クリアファイルには誰と行ったんだか、死んだように横たわっている白いドレスの女性の絵が描かれた美術館の半券が入っているのも知っている。

「思い出は取り替えられないんだよ」

それを聞いても、三枝は何も言わなかった。

三枝はルドンの一つ目の巨人が好きだと言っていた。色合いが。僕なんてゴヤだと勘違いしてたくらいだ。

僕と三枝は共にどちらかというと印象派の絵を描く。

つと、三枝が立って雨樋から派手に流れ落ちる水の写真を窓を開けて、ガラケーで撮った。まだスマホもない時代、なぜかこの高校では水を撮るのがトレンドだった。それを見せっこするのだ。

「どうしたの?」

「みんなやってるから」三枝は自分の撮った写真を確認して肯くと、ポケットにしまった。

三枝が自分のイーゼルの前に行くのに通り過ぎる時、「僕の前世は多分、右の手首を切って死んだと思う。今もその跡がついてるんだ」僕はそのうっすらとした「傷跡」を三枝に見せてやった。三枝はそれを首をかしげて見ていた。

「じゃあ左利きだったんだ。左利きの人って頭いいよね。あたし、頭いい人って好きよ」

そう言って、スカートのお尻を押さえ、まるで空から降りてきたみたいに三枝は自分の白いキャンバスの前に座った。

三枝はまるでパレットを読んでいるのかようだった。

杏みたいな瞳で。僕みたいな干し葡萄みたいな目じゃなかった。

ゴメが海の方で鳴き出した。ホロが見える。

絵を描いているとこのままこときれてもいいと思う。

「僕の言ってること分かる?」

三枝はこっちを向いて、大きく肯いて、「分かるよ」と笑った。

三枝がこう言ったのはもうすぐ部活が終わるからだろう。

三枝は蕪の如く色が白い。

三枝はプリントごっこまで持っている。

「ポン助になんないでよ」

「ポン助って何?」

インパラみたいな三枝は笑った。だから、生きていく値打ちがあるというのだ。

その光景を両目で切りとった。雲のバラードのようにゆっくりと。バラードみたいな時間の中で。

「一人きり恐れずに生きようと夢みてた」

「丘を巻く坂の道そんな僕を叱っている」

帰る時間が来た。

「元気じゃなくても生きてりゃいいよ」

「ありがとう」

「夢が君を見捨てない」

帰り道の坂からは筒船が見える。円筒形の帆で、遠い沖に浮かぶローター船のことを僕らはそう呼んでいた。

ミサゴ空。まるで海猫のように、ミャー、ミャー。空がピンク色に染まっていく。一日が終わった。

「待って! マリオ君」三枝が後ろから駆け下りてきた。一瞬、クリップを盗んだのがバレたのかと思って、ポケットに手をやりかけた。

「あたしの病気、そんな大げさじゃないわ」三枝の息が切れている。

「ビタミンCが足りないからそれを補ってると思えばいいの、それ以外は普通の人間よ」

「一緒に帰ろうか」

「あたし、反対側だから」

上木座に着くと人通りが多くなった。近くに私服の中高一貫校があって、バレンシアガのリュックを持ってる奴もいて、「中間一貫校はクソだな」とこのガキどもを嫌いな友達の言葉を思い出した。

僕は気が付かなかったけど、まだ雨が降り続いていて、濡れた道の割れ目が十字架に見えた。

いつも僕の中では冬は出会いのシーズンだ。三枝と二人になった去年の冬だって。

横断歩道のパンダに止められた。測量のおじさんがずっとこっちを見ていた。

少し、立ち止まって右左を確認すると、道を渡った。家に帰り、盗んだクリップをポケットから自分の部屋のテーブルの棚に移した。

僕は何となくため息が出た。


 僕はビンテージ瓶を買って、学校に持ってきていた。まるでガス燈か何かが見えてきそうだ。

そろそろ、ポットパイのアンケート用紙を開く頃合いだ。

青森の夏は短くて早い。

蝉の翅に似た木の皮が風に吹かれて落ちていたのもこの間のことだ。

冷たい風が吹いてきた。寒い夏の日。

僕は渡り廊下を歩いて美術室に向かった。周りはもう秋の文化祭の準備で賑やかだ。遅くまで残っている人もいる。

帰宅部は帰宅部で有志で何かやるらしく普段なら見ない顔も校内にいる。

同時に別館の屋根の葺き替えの工事も始まっていて、夏は始まりの季節だ。

相も変わらず三枝はキャンバスに向かっていた。

「あれ、大木先生は?」僕はさり気なくビンテージの瓶を袋から出して机の上に置いた。

「ん、ああ、今あれ」

三枝があれと言うのはアンケート箱を回収しているのだろう。

銀盆からの水もぬくくなった。

ほどなくして、大木先生がアンケート用紙の束と二人の絵を持って戻ってきた。

僕たちは早速、開けてみた。クリームシチュー、魚、・・野菜ゴロゴロカレー、かぼちゃシチュー、コーヒー・・。僕たちの言っていたことはどこにもなかった。

悪戯は大木先生が取り除いてくれたのだろう。

「三枝の方が上手い」三枝の友達だろうか、そんな意見も入っていた。

僕らはエプロンをつけるのも忘れていた。

これから大木先生から文化祭での美術部の活動の発表があるはずだ、大体分かっているのだが、ここは大木先生に花を持たせてあげよう。

三枝はアンケート用紙を大切そうにしまっていた。

それから大木先生の僕らの絵のおさらいが始まった。まず僕の番だ。

大木先生は僕の絵を遠くから見て、「もっとボリュームが欲しいね」と言った。ボリュームというのは盛り上げたりする絵の具の量のことだ。

「絵はその時の魂を吹き込むことだと思うんです」僕は少し憤慨して言った。「だから描き直しはできません」

大木先生は僕の性格を知ってるのでゴリ押しはしなかった。

その後、三枝の絵を批評していたが僕は聞いていなかった。

僕の感想は感想で大切にしたいからだ。

「それで、今年の文化祭だが演劇部が劇の合間に移動ワゴン車を出してオニオンフライを売るそうだ。今回はそのワゴン車の外装を頼まれてる。どうするかな?」

僕らは一も二もなく賛成した。図案のアイデアは三枝に任せることにした。

「楽しみね」

それから大木先生は去って、僕らはいつものようにそれぞれのキャンバスに向かった。

「あれ、この瓶・・」三枝が立ち上がって僕の持ってきた瓶に触れようとした。

その時、イーゼルを避けようとしたタッセルのついたローファーの三枝の足がもつれて、バランスを崩して椅子とぶつかった。

危うく倒れずにすんだが肘を打ったようだ。

何か金具がこすれた音がした。ロンジンの腕時計と椅子がぶつかったのだ。見るとイスの留め金が外れていた。三枝が押さえている所を見ると血が出ていた。

「痛っ」左腕から血が出ている。

「こんな時どうしたらいいの、三枝?」

「大丈夫、大丈夫だから」そう言いながら三枝は美術室の床に横になった。それから左腕を胸の上に上げて右手で圧迫している。

「あたしの鞄、取って」

僕はすぐに三枝の鞄を取って三枝によこした。

「今、注射するから驚かないでね」三枝は鞄の中をゴソゴソやってチューブのついた注射器をロンジンの腕時計を外して刺した。

「これで血液が凝固するから。その内に」三枝はにっこり微笑んでいた。

僕の方こそ顔が真っ青だった。血がゆっくりと垂れていく。

「死ぬのがそんなに恐いの?」そう言ったのは三枝だった。

僕は膝をついたまま肯いた。三枝が死ぬのが怖い。

「そうだよね、死ぬのって恐いのかな」三枝は少し唇を尖らせた。

「人生が続くと思うから恐いんだ。人生の車輪が止まってしまえば・・。僕だってある日突然死ぬかも知れないし」

「そんな事言ったら、誰だって・・。死に近い人間は死を恐れないんだよ」その時、三枝は初めて親しくなったみたいに笑った。

「あたしも手首切っちゃったね」血は止まっていない。注射は続けられたままだ。

「どうしよう、先生呼んで来た方がいいの?」

「あなたの左手と交換してちょうだいよ。Mrloneliness」三枝は歯を見せて笑った。

「どうせ作り話だろ」僕は急に三枝の髪を触って目を覆ってやりたくなった。気がしただけだ。

「血、止まった?」

「もう少しかな」三枝は左腕を少し浮かせて見た。

僕も三枝もただ黙って血を見ていた。

こだまみたいに救急車の音が。

「呼ばなくていいって言ったのに」三枝は横になったまま横を向いた。

きっと様子を見に来た大木先生が呼んだのだろう。

「負けず嫌いな方が芸術に向いてるよ」僕もほっとして後ろに手を付いた。

翌日は目覚まし時計のスヌーズが鳴るまで起きられなかった。

それから夏が始まった。


 三枝はすっかり元気になっていた。

これから美術部の活動は絵の具が付くので私服ですることになった。

「ラッカー臭い」校舎に入るなり、三枝はそう言った。ニスの匂いの美術室とは大違いだ。

三枝はロックなパンクT、夏なのに半袖だ、それに目立たないパンツ、あとは頭には「カミンスキー」と言う麦わらを被っている。まだ日陰は涼しいからだろうか、コットンコートまで手に持っていた。

僕ときたら、襟元がアセたTシャツと、何年も夏にはこれを穿いているプリペラのズボン。

僕らは校舎の脇を抜けて体育館横まで来た。

そこにはまだただの灰色のワゴン車が止まっている。これからどんな色になるのやら。

「三枝、サンキュー」演劇部の友達と三枝がハイタッチをしている。

「いい? ここにドカーンと目を描くの、残りは三角で、背景はマリオ君に任せるわ」

演劇部が出す移動販売車は「チリケットバブルス」という名前らしく、どこかにそれをあしらうように言われている。

三枝の持って来たアイデアは大きな目のある凧の絵、三角のカイトの絵だ。

僕はその前に帰宅部の友達に「スウィーニートッド」の劇を有志たちでやるから、「ペインティングナイフ貸せよ」と言われたから貸してしまった。

「初めての共作じゃない?」三枝はウキウキしていた。

僕は背景はインディアンラグ柄にしようと思ったのだが、「チリケットバブルスのロゴをラグ柄にしたら?」と三枝に言われたのでそうすることにした。

風は水色。

風はいつでも振り向いて見える。

まあ、三枝の描く凧に合わせていけば何とかなるだろう。

僕らはまずチリケットバブルスと英字で描き、それをスプレーで固定した。

どこかでボンド臭いが皆色々出し物があるのだろう。しばらくは体育館はそういうとこだ。

絵を考えてる時の三枝の横顔は底知れないネイビーブルーの瞳になる。自分で描いた絵に住んでる人の顔だ。

名前のない国にいる。

体育館は校舎の裏だからちょうど後ろ谷とぼっち山にアッケシ河から吹く風が溜まって寒いほどだった。だから三枝はコットンコートを用意していたのだ。

普通、目は最後に描くのだが、三枝は輪郭だけ決めるといきなり描いた。まるでやぶからぼうに睨むみたいに。

「有為転変の気持ちを込めたつもり」三枝は満足そうだった。

行き雲が暮れる頃、やっと全体の半分ほどの下絵だけが描けた。三枝は片付けをしている。

「そんなん、明日もやるからいいよ」

「だって、盗まれたら困るじゃない。マリオ君、先、帰ってていいよ。あたし、もうちょっとやるかも」三枝の笑顔は宵かけの青に消えてしまいそうだった。

連続する電車の明かりが寂しかったのだけは覚えてる。

「線はより単純に、色はより複雑に」

翌日も三枝は気合いが入っていた。

僕たちはサンドインで一休みする事にした。

考えてみればサンドインに三枝と入るのは初めてだ。

二人ともチリバーガーを頼んで自分の席に運んだ。

「ハンバーグにして」三枝が僕に自分のチリバーガーを押した。

「あたし、ご飯も食べたいから」

僕は笑いを噛み殺した。

「俺、バンズだけ食べんの? みそつけて飯食べるの好きなんだよねー」僕がとぼけて箸を取ると、同じく笑いを堪えていた三枝がやっと笑ってくれた。

「ちゃんと食えよ」

「うん」もう三枝は食べ始めていた。

サンドインにはコーヒーマシンもあって、始終、「これのおジカン、ネスカフェ」チャラーと人工音声が言っている、賑やかだ。放課後にしてもこんなうるさいのは文化祭前の人達の特権だ。

「あたし、マルノコーヒーの方が好きなんだ」

「あの駅前の?」

三枝はコクリと肯いた。

「俺、入ったことないよ」

「あそこのサンドめっちゃ美味しいよ、パンが固くて」

「へえ、今度行ってみる」

あたたかい沈黙。

「何で入んないの」

「あの私服校のガキでうるさいじゃん」

「分かる! 先公とか呼ぶの甘えてるだけ。趣味悪いし」三枝のチリバーガーは今、頬に入っているのだけだ。手を拭くところを探している。

「いいや」と言って三枝はコットンコートで手を拭いた。「これも絵の具よね」

僕も残りのチリバーガーを口の中に放り込んだ。

 数日して、大木先生が見学に来た。

「おお、いいじゃないか、フンフン」

「イカみたいになっちゃった」三枝は自分の描いた凧を言った。

「ピカチュウみたいになった」僕は僕で、描いた雷のことを言った。

「迫力だけじゃどこにも負けない」

その日も三枝は片付けをしていた。

「一緒に帰ろうよ」ペットボトルのフタが飛んだ。

「んー、いいよ」

何で? と言おうとして、僕はチリケットバブルスの影を見ている三枝の瞳に気付いた。

「水色の影ね」

半分夢みてる瞳のままだった。

「アジサイの色ね」

「あんまり一人で進めないでくれよ」僕は踵を返した。

僕は何だか三枝を一人にするのが嫌だったのだけれども三枝は二人になるのが嫌だったのかも知れない。

 僕は半分できかかったチリケットバブルスのワゴン車を腕を組んで見ていた。

「みんな灰色でできてるんじゃないか」

「それをあたしたちが勝手に色つけてる?」

これは別の日の話だ。

「最近の歌は嫌い」三枝はそう言った。

「どうして?」

「大体、恋の歌だから」

「同じ大きさなんだ」

「ん?」

「瞳」僕は凧の目を差した。

「そう、それが目の不思議よね」

 秋は夏の続きだ。

気付かない間に通学路の道路の割れた所から白い花が咲いていた。

飛行機雲を飲みたい。

文化祭も無事に終わって、受験のシーズンになって、僕たちの部活動も終わった。

蝉が鳴くように思い出している。

僕が受験することを聞くと、「キットカットだよ」と三枝は美術室の窓にもたれて言った。

きっと、カットだよ、か。僕は合格した。

「ステイシーとMrlonelinessの話に名前付けようよ」

「題名は?」

「題名は、きっと、そうだね・・、ホルベインインラブ」

「ホルベインのホワイトね」三枝はそう言って大きなチューブを見せた。

「君も考えてよ」

「・・パーマネントホワイトロンリネス」

「ねえ、何でみんなに言わないの?」

「弱味を見せたら人は遠ざかるだけ」三枝は寂しそうに僕を見て笑った。

 僕は校舎を歩いていた。

「ガッツ出せ」今年度の力士募集のポスターは目立ってるな。

力自慢の奴らを狙っているんだろう。

卒業式。

三枝は式が終わった後もバーバリーのフロックコートで校内をウロついていた。

「よお、卒業おめでとう」

「マリオ君どこいくの?」

「東京の方さ」

三枝は無言で会釈しただけだった。

遠い眼差しが海を見ているようで。

「どこまで行ってもお別れなんだね」

僕は適当な返事をして、その後マルノコーヒーに寄った。

もうクリスマスのオーナメントの飾り付けが済んでるみたいだった。

相変わらずガキどもはうるさかったけど耳の中は静かだった。

いつまでも何かのプロローグのような気がして、三枝との別れも何か現実感がなかった。


Mother


「最初はすごく揺れて、光って、目が見えなくなった」おじいちゃんの話だ。

マリオは被爆三世だ。

おじいちゃんと最後に二人でウィスキーを飲んだのはいつだったかな。おじいちゃんが死ぬ前の日だ。

僕がこんなことを思い出すのは母が倒れたからだ。

まるで紙のように倒れた。

僕は母が被爆二世なことも僕自身のことも誰にも言わないでいた。言えずにいた。

母を病院まで送った日は何もできなかった。

ただ、冷たい部屋にHiFiSetの「冷たい雨」が響いた。


冷たい雨にうたれて 街をさまよったの

もう許してくれたって いいころだと思った

部屋にもどって ドアをあけたら

あなたの靴と 誰かの赤い靴

あなたは別の人と ここで暮らすというの

こんな気持ちのままじゃどこへも行けやしない


冷たい雨が降るたび あなたを思うでしょう

幸せに暮らしてなどと 願えるはずもない

夢の中にでてくるあなたは

やさしい面影だけでたくさん

だけど信じられない 突然のできごとが

こんな気持ちのままじゃどこへも行けやしない


彼女の名前 教えないでね

うらむ相手は あなただけでいい

涙こぼれるように 時もこぼれてゆくわ

指と指のすきまを そしていつか忘れたい


涙こぼれるように 時もこぼれてゆくわ

指と指のすきまを そしていつか忘れたい


 後の曲は何だか分からなかった。

いつからかビボラップハイスクールは僕にとってとてもfarな存在になっていた。

僕もいつ死ぬか分からない。長生きはできないだろう、子供もできない。

事実、兄はもう高校時代には亡くなっていたから。

母の顔は真っ白だった。

僕の母が死んでもニュースにならない。

やっと、僕も定期的に通って検査を受けている病院で、「やっと朝の絵が描けるようになりました」と言った矢先だったというのに。

こんな事でもない限りアルバムは開けないもんな。僕はビボラップハイスクールの卒業アルバムを開いた。

知らず知らずの内に、違うクラスの三枝の写真の顔を手でなぞっていた。

三枝は馴れない笑顔だった。誰よりも光っていた。

僕が高校時代にぞっこんだったのにその時、初めて気付いた。他の女子なんか見てなかったもんな。

孤独は耐えがたい病だ。なぜ誰も答えてくれない。

今、極地にいる。白夜もオーロラも見えそうな極地だ。

周りの景色が割れていく。

埃も全部吹き飛んだから。

普通の人なら自殺してるとこだ。今年はマイブービーイヤーだな。

一人秘そやかに死んでいく・・、それが僕の目標だ。

ため息だけが一人でに漏れる、白い息になって。

死ぬのは恐くないけど死ぬのは悲しい。ゴミさえも残されないだろう。

一人で泣け。

素面で泣いた。自分の部屋で。

今朝、鏡を見たら奥歯に血が付いていた。

この僕はとりかえしのつかないことだから。

夢は僕が死んだ後も続いていくんだろう。

明日になんか行きたくない。

今何してんのかな。今元気にしてるかな。

それはpromiseだから。

強くなったつもりだった優しくなったつもりだった。

好きだとは一言も言わなかった。言えなかった。愛し足りない。

まだ恋したい。

すぐ分かると誓った。

君が来ないといつまでも冬だ。

青春はコンドームの輪の中をくぐる。失恋玉手箱。今の自分に足りないものは何か。春青。

カーペンターズの「青春の輝き」が聴こえてきそうだ。多くの時間を無駄にしてきた、か。I know・・。

何を待っているのか何を待っているのか・・。

いつも隣には君がいた。青春の回り道。

最高のことは気づかない。後にそうだったって気付くんだ。

胸のアルバム閉じる日が来るの恐かったずっと・・。

神様、早く死なせてくれてありがとう。僕がいなかったらお母さんは生きていけない。生にゆらめく死はいつも感情的できっと実物はその200倍くらい静かなんだろう。

明日死ぬとしたら。本の帯みたいだな。僕は一人笑いを頬に浮かべた。

同窓会で会った彼はイギリスの天気のことについて話していた。

イギリスの天気は7割最悪だと言う、残りの3割は・・、朝の7時から清々しい太陽、夜11まで明るい。霧がない、天然芝でいつまでも遊べる。

日本の5月という感じらしい。

イギリスは9月から5月まで雨か曇りで、5月中旬から8月終わりまで最高らしい。

冬は晴れない、寒い、その後、晴れが続く・・。

僕は想像するだけにした。

 今日は不思議な白昼夢を見たな。いつまでも寝つけない夢だ。

かなり前、病院のレクリエーションに参加したことがある。そこに若い女性の被爆者もいた。

僕が出ていく時、「この人も被爆者なんですか?」と事務員に聞いていた。

「かっこいい・・」その人は呟いた。

「はい、はい」事務員は冷たく手拍子を打ちそうな感じで会話を打ち切って、僕と彼女を引き離した。

僕は笑っていた。

被爆者は恋もしちゃいけないっていうのか。

白い病院。それがいつも僕の世界だった。

 夜明けが空にかかっている。

斜め上から色が薄れていく。

煙草はもなかの味がした。酒を飲んで煙草を吸うと温かいものに温かいものが入ってくるみたいだ。

「値段じゃないべ」彼は僕のグラッドストーンの鞄を見て言った。その鞄のポケットの内側には三枝の白いクリップが挟まっているのだ。

何の音もしない。天の国だ。

 母は枯れ木のようになって死んだ。苦しまなかった。

「僕が一番大事だよね?」最後に僕はそう聞いた。

「僕は最後までいい子だったでしょ」

「我慢強かった」母はそっと笑った。

僕は久しぶりに青森に行くことにした。仕事を辞めて。

もう疲れたよお母さん。

お母さんありがとう。

「辞める? 忌引きじゃなくて?」喫煙所のこと。

「一人暮らしじゃお金貯まらないよー」

大学を途中で辞めてから働き出したこの店ともお別れだ。ドルビーデジタル。電化製品。

本当はフォトショップかイラストレーターにいきたかったのに、仕事の方が忙しくなり単位が取れなくなって、結局そのまま居着いてしまった。勉強に向いていなかったんだと思う。

僕はノジマの青い看板を後にした。何しようか。

白い風が吹く。

「タクシーってさあ、儲かるの知ってる?」

同窓会で彼が暗に僕にタクシー運転手を勧めたのを思い出す。

「普通に働いて月収40万だって」

だからママ、ママ、って言われてからかわれるんだ。

ノリのきいた生活に疲れ切ったら僕は酒を飲む。今も青森まで向かう電車の中で酒を飲んでいる。

孤独や悲しみというのは例えばゴミで僕の人生は煙草の墓場。オリブ油のような空気。これは夕焼けの余燼か? まるで僕を迎えるように力のない雨が降っている。

僕は一息に飲み干した。ワインと同じように。

飛行場のネオンサインがテールライトのように見える。見えて遠ざかっていった。

シャガールのエデンのような世界だ。

青色の水が全部塗り潰していく。

世界が滅んだって、人類が滅んだって、どうでもいい!

一人になったって幸せになったっていいじゃないか。

まだ気付く前・・。

もう誰とも結ばれることはないんだ。

止まない雨が降る。あなたが降る。雨のそのまま雪になって青森まで続いているのだろう。こんな物も心という名の通り雨で。

 好きだったのよあなた・・、駅には知らぬ内に駅ピアノができていてオッサンが弾いていた。

青森駅に降る雪は何か幻みたいで36億年分の怨念が込められてるみたいで、凄愴、という感じがした。

黒胡椒湾はだだっ広い。本当はターコイズブルーの海なのだが、こう曇ってちゃ死んでるみたいだ。

冬の海は黒く赤い。

まだ海でもないのに鴎が鳴いている。

海に着く前に晴れ上ってきた。青森の天気は女心のように移り気だ。

それって一種の奇跡だよね。


遺言


もしも私・楠木マリオが母・楠木ヨシコより先に死んだ場合、私の財産の全ては母に譲渡する。

お母さん、僕は幸せでした。一片の悔いもない。

生まれてきてよかった。天国で待ってます。

ありがとう。さよなら。

           2023年3月3日

                    楠木マリオ


僕はそれを破いて捨てた。

波を避ける光で海が輝いて見える。

波を被るところは死んでるみたいだ。

海のある一部分がエキュリプスのように黒くなっている。

山が聴衆みたいだ。

インケツな海だ。

僕はもう少しこのメロドラマに酔っていたくて砂浜もない岩場を歩いた。

恋という名のあしあとは今も海の砂についている。

薄い風はためらいながらかすれた。

今もあの金芒を揺らしていることだろう。

僕はビボラップハイスクールが今どうなってるのかも見ないで帰った。

気づくと都心に帰っている。

都会じゃ誰にだって優しくできると言うけれど初めて誰かを愛した時に優しくなれる。人からも。

東京タワーは死んだ。

照明弾のように流れ星が。

母がよく口に出して唱えていた詩を思い出す。

母はなかなか覚えられなかったが。

われは草なり 伸びんとす

伸びられるとき 伸びんとす

伸びられぬ日は 伸びぬなり

伸びられる日は 伸びるなり


われは草なり 緑なり

全身すべて 緑なり

毎年かはらず 緑なり

緑の己れに あきぬなり

われは草なり 緑なり

緑の深きを 願ふなり


ああ 生きる日の 美しき

ああ 生きる日の 楽しさよ

われは草なり 生きんとす

草のいのちを 生きんとす・・


Cause bye


 僕ら、出逢うんだったら、何のために、距離は有るんだろう。


非の打ちどころのない晴れの日。

僕は同窓会の夢を見て目を覚ました。そこに行くと、誰も待ってなくて、彼も彼の仲間と話していてつれなかった。

心もとなくて外に出ると、そこにはテントやキャンプ用品が並んでいる。

ああ、そうだ僕はキャンプに来たんだ。

と思ったところで、目を覚ました。

ピルルルル・・ぴーぷるぷる・・。

もうかける必要のない目覚まし時計のスヌーズのように電話が鳴った。

発信元は知らない人だ。

「もしもし、あたし」

「三枝か」

「同窓会したって人から聞いたの」向こうで唾を飲み込む音が聞こえた。

「あたしを待ってたんでしょ。電話をかけてよ」

「う、うん」

あの天からみたいな話し方だ。

「この電話忘れないで」

僕は急いで三枝のLINEを開いた。プロフィール写真も何も用意されていなかったが、エルトン・ジョンのChameleonがBGMだった。

意味は分からないけど、僕に変わってよカメレオンとかそんなとこだろう。

「多分、伝わらないだろうけど、あなたのことを愛しています。

勝手に片想いしてました。ごめんなさい。」

僕はLINEを送った。


 足が折れそうになった。

ジャノメチョウが飛んでいた。今日、初めて見た春だ。

レモンを絞ったようなポップコーンみたいな太陽だ。シナモンが横に刺さっているのだろう。

「どういう風の吹きまわし? 会おうなんて」

振り向いた三枝は車椅子だった。

ストレートな髪はあの頃のままだった。首を圧迫骨折していて、脚は子供のようだ。

三枝はあの頃と同じドレスでいたようだった。

「聞かないでね。どうしたのって」

三枝はもう違う人だった。

昭和島の小さな海岸まで三枝は一人で僕も一人で行った。

「誰もいないから」と理由で昭和島を指定したのは三枝だった。

僕はコーズのジャケットとボロシャツ、三枝はネップヤーン生地のコートとウールでできたキャップ、赤いベルトに替えたロンジンの腕時計、コートの下にはシャツにボアのスウェットパーカーを着ていた。青い毛布を膝にかけていた。

ハイヒールは黄色、それが僕に見せるせめてもの綺麗さだったようで。

昔、海だったところには何もなかった。何もない波音が広がっていた。

途中の用水路に小ぶなの背びれが泳いでいた。

「夢が君を見捨てない。あの時のマリオ君の台詞、神様のメッセージだと受け取ったの」三枝は海岸の見える公園の一歩手前で車椅子を止めた。

「ピノキオは嘘をついた訳じゃないんだ。未来が分からないから」

「来年の話をすると鬼が笑う」

僕は車椅子の隣に座って、「青森の海はこんなじゃなかったね」と言った。

「もっと潮臭かったわ」

「自由って自信なんじゃないかな」

三枝の泣きかけの顔に言った。

誰の呼び声ともつかぬ声で、ほとんどうめきに近い声で三枝は泣いた。

風の音は滝の音に似ている。

ゴウと風が吹いた。

ボウボウと風が吹く。味も素っ気もなく。

筒船がゆっくりゆっくり西に遠ざかっていく。

「不思議な船ね」

「一緒に未来を生きていかないか」

「それプロポーズナマズ?」

僕は肯いて、「僕はきっと生き狂いなんだ」と、車椅子に寄りかかってキスをした。目の前が花火になって弾けた。

三枝は太陽になって爆発するみたいで。

思い出の埃の匂いでむせ返りそうだ。

「どこか二人だけの美術室に行こうよ」

三枝は肯いた。

きれいな涙が落ちたから。

海の気泡はどこへ行くんだろう。

愛してると言えば嘘になる。日本語にそんな言葉なかったから。

だしぬけに春だ。

決めるの空。風が追いかける。

変わらずに春。

自由は愛を孤独にし。

自由は愛を唐突にする。

子供のように。

――ほんのさよなら。


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森川アルバム 森川めだか @morikawamedaka

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