ADRAS_SEED〈アドラスシード〉

桐谷優梨

Prologue

 あの出来事は、今でも時々夢に見る。


 四方を覆う、冷たいコンクリートのような壁。

 前も後ろも覆い隠す、どす黒い闇。


 天井は頭がぎりぎりつかない程度の高さしかなく、左右は両腕を広げられるほどの幅もない。


 なぜ、そんなところに迷い込んでしまったのか。そもそも、ここは一体どこなのか。


 当時はもちろん、今でも全く分からない。夢だったんじゃないか、と思うことさえあるくらいだ。


 とにかくあの日、俺は気がついたらあの場所にいた。

 何一つ理解できないまま、自分の手元すら見えない闇の中を、出口を求めて延々と彷徨い歩いていた。

 

 そうして、どのくらい経った頃だろうか。


 地面と天井から、低く不気味な音が聞こえてきたのは。


 巨大な獣の、唸り声みたいだった。それも犬や熊というよりは、得体の知れない化け物を思い浮かべてしまうくらい恐ろしい音で。

 壁や空気まで震えだして、俺は恐怖のあまり動けなくなってしまった。


 逃げなきゃって分かってるのに、足が動かなくて。


 それでも、何とか一歩踏み出せたときには……既に遅かった。


 天井に大きな亀裂がはしって、コンクリートの塊が雪崩のように降り注いで。


 ――気が付いたら、進路も退路も瓦礫で塞がれていた。


 膝を曲げないと収まらない、狭く居心地の悪い空間に、俺は取り残されてしまったんだ。


 長い間、俺は一人でそこにいた。


 もしかしたら大した時間じゃなかったかもしれないけど、あの時の俺にとっては途方もなく長い時間だったんだ。

 永遠に、このままなんじゃないかって思うくらいに。


 怖くて、心細くて、何度も泣いた。喚いても叫んでも、助けてもらえる望みなんてないのに、喉が痛くなっても泣き続けた。


 泣くのに疲れたら、折りたたんだ膝に顔を埋めて、少しだけ眠った。あんな場所でも眠れるもんなんだって、俺はあの時に学んだのかもしれない。

 

 眠っている間、色んな夢を見た。


 母さんに起こされて、学校に行く夢。

 友達と遊ぶ夢、どこかの街を歩く夢……。


 だけど、目が覚めればすべて幻となって掻き消える。


 突きつけられる現実は、周囲を埋め尽くす瓦礫の山。


 そのたびに絶望して、また泣いた。何度も何度も、涙が涸れても繰り返し泣き続けた。


 やがて、涙も声も出なくなって。


 気力も体力も尽き果てて、また浅い眠りに落ちかけていた頃。


 ――また、あの音が鳴り響いた。


 閉じ込められる直前に聞いた、唸り声。


 今の自分は、もうこの場所から離れることさえ叶わない。


 それが何を意味するか、幼い俺にも何となく分かってしまった。


 脳裏に過ったのは、いつか散歩中に見かけた虫の死骸。


 誰かに踏まれたのか、道の真ん中で無残にも潰れてしまっていて。

 何度つついても動かないのを不思議がっていた俺に、母さんがそっと教えてくれたこと。


 生き物は、いつか必ず死んでしまう。


 時には、どうしようもないほど強いうねりに呑まれて、短い生涯を終えてしまう者もいるのだと……。


 あの日、おそらく同級生よりも一足先に覚えてしまった、「死」という一文字。


 それが頭を過った瞬間、俺は何も考えられなくなった。頭の中がぐちゃぐちゃになって、「助けて」って何度も喚いていた。


 その直後、だったと思う。俺の頭上に、クモの巣みたいなひび割れが現れたのは。


 もう駄目だ、って思った。俺は小さな両手で頭を覆って、目を固く閉じたんだ。




 そこから先は、一瞬の出来事だった。


 大きな音が、四方八方で入り乱れて。

 大小様々な塊が、俺の体を何度も掠めて。


 何かが俺に触れて、体がふわりと宙に浮いた。そのまま何かに引き寄せられて、凄まじいスピードで宙を駆け抜けた。


 何が起こったのか分からないまま、俺はただ身を固くしていた。押し寄せる音や衝撃が、早く収まって欲しいと願いながら。

 

 やがて、そう遠くない背後で、何かが崩れる音がしたのを最後に、音の嵐はぴたりと止んだ。


 宙を駆けていた俺の体は、ぴたりとその動きを止めた。同時に、頬へ打ちつける石の粒や風も感じなくなった。


 何が起きたのか確かめたくて、俺は固く閉じていた目をゆっくりと開いた。ずっと泣いてたせいか瞼が痛くて、視界もひどくぼやけていたけど、暗闇に筋を描く鮮やかな光は、真っ先に捉えることができた。


 そして、少しずつ理解した。

 俺は今、目の前にいる人に抱えられ、助けられたのだと。


 それは、不思議な格好をした人だった。


 革のように、滑らかな光沢を放つ黒い衣服。フルフェイスのヘルメットを被っていて顔は見えなかったけど、背中や腰を支える手はとても温かくて、力強かった。


 肩や胸は銀色に煌めく金属に覆われていて、まるで鎧を纏っているようにも見えた。鎧はどう見ても硬そうなのに、何故か触っただけで傷がついてしまいそうにも見えた。


 その人は何も言わず、俺の顔を見つめていた。

 言葉はなくても、「もう大丈夫」だって、優しく言われてるような気がして。

 じっと見つめ返しているうちに、心にずっとまとわりついていた黒いものがすっと晴れていくのを感じて、また泣きそうになった。


 それで、ずっと張りつめていた心が緩んで、あっという間に眠くなって……。


 そこから先は、よく覚えていない。


 気がついた時には、病院のベッドの上だったから。


 それが、忘れられない六歳の記憶。


 今からもう、八年も前の話だ。

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