(32)

 日が傾き始めたころ、千世は雪野麗の自宅を辞することになった。


 思っていたよりも話が弾んだこともあり、連絡先も交換する。


「締め切り前とかはあんまり反応できないと思うけど」と雪野麗は言いはしたが、千世は初めて女性の名前が並んだ連絡先の一覧を見て、なんだか感慨深い気持ちになった。


 もちろん、雪野麗に迷惑をかけるつもりはない。千世はすっかり彼女のファンだったが、そのあたりのことはちゃんとわきまえている。


 それに今日一日だけのことではあったものの、雪野麗と接して、彼女の「素晴らしい作品を生み出す漫画家」以外の側面を見た。


 腕一本で自立している雪野麗と自分は違うとは、千世は思ったものの、しかし歳の近い同性ということもあってか、彼女のささいな悩みなどには共感するところもあった。


 そうなると――。


「私たち、『友達』ってことでいいよね?」


 悪戯っぽくも、真剣にそう言ってくれた雪野麗の言葉に、「はい」と千世は力強くうなずいた。


「あ、そうだ」


 雪野麗は巡回から戻ってきた四郎を指一本で呼び寄せると、なにやらその、彼女からすると高い位置にある四郎の耳へと内緒話をする。


 それを聞いた四郎は、なぜかじっと雪野麗を見つめた。千世には、なにかを問うような目に見えた。


「待ってあげるのも『いい男』ってもんよ」


 雪野麗の言葉の意味は千世にはわからなかったものの、四郎はなぜか「仕方がない」とばかりに軽く肩をすくめた。なにやら、雪野麗の言葉で折れた様子だ。


 朔良には意味がわかっているのだろうかと、千世がそちらを見ようとしたところで、肝心の朔良が千世の肩に手をやる。


「……それじゃあ家まで送って行くから。私はまだ仕事があるから、送ってから保護局に行くけど……」


 四郎は交代の護衛官がくるまで、まだ雪野麗の自宅にいるらしい。


 千世は改めて雪野麗に礼を言い、頭を下げる。


「友達になったんだから、そんなにかしこまらなくてもいいよ。帰り、気をつけてね」

「はい……お気遣い、ありがとうございます。雪野さんとお話しできて、よかったです」

「……私のほうこそ、だよ。瓜生さんと話せて――なんか、胸のモヤモヤが軽くなった。救われた、っていうと大げさに聞こえるかもしれないけど、これはホント。……やっぱひとと話さないとダメだね~」


 雪野麗と四郎に見送られて、千世は朔良と連れ立ちマンションの地下駐車場へと向かう。


 そこから車に乗るまで――いや、乗ってからもずっと、千世の心はふわふわとおぼつかないままだった。


 ――「救われた」。雪野麗のその言葉は、考えに考え抜いて発せられたものではないだろう。でもだからこそ、ぽろりとこぼれ落ちたようなそれは他でもない本音に聞こえて、千世の心に響いた。


「雪野さんとはどうだった?」


 車を運転する朔良から声をかけられ、千世は後部座席で我に返る。


「とても――素敵なひとでした。わたしにも優しくしてくれて、それでいてしっかり自立されている女性で。……あこがれます」

「千世がそう思ってくれたなら、雪野さんは大喜びだね」


 千世は、にこにこと笑う雪野麗の顔を脳裏に描いた。それはたやすく想像できる。


 そして雪野麗の姿を思い起こすと同時に、千世は彼女から受けた「アドバイス」も思い出す。


 ――「素直に言葉にしたほうがいい」。


 千世は心の中で何度か「素直に」という言葉を反芻するように繰り返したあと、意を決してルームミラー越しに朔良を見た。


「あの……朔良さん。聞いて欲しいことが、あるんです」

「……どうしたの?」


 返ってきた朔良の声は、どこまでも優しい、と千世は感じた。


 だからこそ怖いのだ。その声に拒絶や失望が混ざったときのことが。


 ――「言葉にしない限り話にならない」。


 再び、雪野麗のアドバイスを思い出し、千世は崖から飛び降りるような気持ちで、朔良に本心を告げた。


「わたしは――土岐さんと、もっと仲良くなりたいと、思っているんです」


 言ってしまったあとで、藪から棒の話だなと千世自身思った。


 けれども、一度口から出してしまった言葉を戻すすべはない。


「もっと、土岐さんのことを知りたい、んです。でも……こんな風に、ふたりのひとのことを同時に、もっと知りたいって、思ったことってないから、悩んで」

「『ふたり』……。……心変わりとかじゃないんだよね?」


 ミラー越しに、一瞬だけ千世と朔良の視線が交わった。


「ち、違います」


 千世が上ずった声で否定すると、朔良の目じりが少しだけ下がったように見えた。


「……それなら、私が言えることはないかな。愛が増えるのはいいことだから」


 千世は、朔良の言葉を聞いて――なんだか、ひとり暗闇の中に置き去りにされたような感覚を味わった。

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