(21)

「浮かない顔をしているな」


 四郎にそう指摘されて、千世は我に返った。


 四郎との、再度の面会の時間。四郎にだって当然ながら仕事はあるし、千世も長くはしゃべれず、また他人といるとすぐに気疲れしてしまう性質ゆえに面会の時間は無限とはいかない。


 四郎がわざわざ割いてくれた貴重な時間を無駄にしたと、千世は罪悪感を抱いた。


「ごめんなさい……」

「別に、謝罪はいらん。それよりもうわの空とは珍しい。なにかあったのか?」

「いえ……」


 千世は「なにもない」と言おうとしたが、なぜかその言葉は口から出てこなかった。


 なぜだろうかと思案すれば、脳裏に朔良の顔がよぎる。困ったような微笑みを浮かべている。昨夜、見た顔だ。


 朔良の顔を思い浮かべると、千世は胸の奥がまたざわめくのを感じた。


 けれどもまるで白い霧が立ち込めているように、その正体は見えない。


「なんだ。あいつと喧嘩したのかとでも思った」

「『あいつ』……朔良さんと、ですか?」

「ああ。もしそうだったらどちらが勝つのか気になったのでな」

「喧嘩は、してないです。ただ」


 「ただ」……その先にどんな言葉を続ければいいのか、千世はわからなくなった。


 そんな千世の姿は、四郎からすると迷子の子供のように見えた。


 しかし千世が迷子のように戸惑っているのは、両親が見えないからではない。今、隣に恋人の姿がないからだろう。


 四郎はそのように感じた。


「……朔良さんが」


 ややあってから、千世が口を開いた。


 千世の黒目がちの瞳は、無意識なのだろうが、苦しむようにわずかに細められている。


「お見合いを……」

「ん? 男は複婚できないだろう」

「はい。今日、断りに行くって、言ってました」


 そこまで言われれば、四郎にも千世の心情は理解できた。


 千世は今、不安でいっぱいなのだ。


 四郎に朔良が見合いをするという話を言って、千世はタガが外れたのか、あるいはだれかに胸の内に秘めていた苦悩を吐露したかったのか、先ほどまでの、なにやら言葉に窮していた様子から一転、話し出す。


「……土師っていう家のひとと会うって言ってました。このビルに近いホテルで会って、断ってくるって……」


 たどたどしい千世の言葉を聞いた四郎は、器用に片眉だけを動かした。


「土師、ね。――お前はその女と宮城が会うのが不安なのか」

「『不安』……」


 四郎から今の心情を表せる言葉のひとつを与えられた千世は、ゆっくりとまばたきをした。


「不安、なんでしょうか。なんだか、落ち着かないんです。それに、少し……これは、怖い気持ちもします」

「じゃあ行くか」

「……え?」


 四郎はおもむろにソファから立ち上がるや、対面する千世とのあいだにあるローテーブルを迂回し、彼女のそばへと近づいた。


 千世はまたおどろいたようにまばたきをする。


 そんな千世を見下ろして、四郎はそのまま彼女の二の腕をつかんだ。


 それから強引に引っ張って、千世をソファから立たせる。


 千世は四郎にされるがまま立ち上がって、まん丸くさせた目で、自分よりも高い位置にある四郎の顔を見上げた。


 四郎は千世の二の腕から手を放すと、今度は片手首を捉えた。


「そんなに気になるなら、宮城のところに行けばいい」

「え……」

「すぐそこのホテルなんだろう」

「はい。そう聞いています」

「じゃあ行こう」


 四郎は、千世の腕を引っ張って歩き始める。


 千世は呆気に取られ、やはりされるがまま応接室を出た。


 運がいいのか悪いのか、ちょうど担当官の七瀬が少し離席しているあいだの出来事だった。


「宮城に恩を売りに行くか」


 千世は、四郎の言葉が理解できず、腕を引っ張られながら彼の広い背中を見た。


 しかし四郎はそれ以上なにも言わなかったし、千世も四郎について行くのに必死で、それ以上なにも問えなかった。

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