(19)

 暇を持て余していた「狂犬」は、当然のように朽木に噛みついた。


 そして――返り討ちにあった。


 見事、地面に転がされた四郎に向けて膝を折り、朽木は快活な笑顔を浮かべて言った。


 「護衛官にならないか」、と。


 朽木は、ボコボコにした四郎に向けて、護衛官へと勧誘する言葉をつらつらと続けた。


 それを聞く四郎の中に、悔しさだとか、憎らしさだとか、呆れだとかいった感情は浮かばなかった。


 浮かんだのは、「そういう世界もあるのか」という感慨にも似た感想だった。


 朽木は人懐こい笑みの通りに、根本的に人間が好きなのか、積極的に四郎の世話を焼いてくれた。


 四郎の奔放ぶりを持て余していた実家を説得して、護衛官の道へと進ませたのは、ほかでもない朽木なのだ。


 朽木は四郎と親しくすることをためらわなかった。


 「ボンボンの坊やだから」という理由で、四郎は朽木から「ボン」と呼ばれるようになった。


 四郎はその特別扱いをうれしいとは特に思わなかったが、別に嫌でもなかったのでそのままにしておいた。


 朽木は四郎が正式に護衛官になるのとほとんど入れ替わりで引退してしまったが、今でもなんだかんだと向こうから連絡がくるので、一応律儀に返事はしている。


 朽木は四郎が返事をしようがしまいが、たいして気にしなさそうではあったが、四郎にも朽木に対し「世話になった」という感想くらいはあったから、今でも連絡がくればちゃんと返信をしているのだった。


「――で、だ。こんな話、面白いか?」


 四郎は話し終えたあとで、率直な自身の感想を述べる。


 謙遜でも卑屈でもなく、四郎からすると己の生い立ちだとか、身の上話に「面白い」という感想は抱けないからだ。


 むしろ、「つまらない」とすら思う。


 しかし四郎からその話をねだった千世は、また違った感想を持ったようだ。


「面白いというか……興味深かったです」

「そうか?」

「はい。土岐さんは、その朽木さんという方の助けもあって、道を見つけられたんですね」

「犯罪者になるよりは、こちらのほうがいいかと思っただけなんだが」

「でも……今身を置いている環境を変えるのって、大変だと思うので……それができる土岐さんはすごいひとです」

「そうか?」


 四郎は今度こそ首をひねった。千世の言葉がよくわからなかったからだ。


 四郎は自分のことを「どうしようもない人物」だとは微塵も思っていなかったものの、しかし大人物とも思っていない。


 だから千世に「すごい」と称賛の言葉を告げられても、いまいちピンとこなかったのだ。


 四郎は、次は千世の話を聞こうと思って口を開きかけたが、それより先に千世はまた四郎に問うた。


「護衛官の仕事って大変ですか?」

「あんまりそう思ったことはない。デスクワークはつまらんと思うが、体を動かしているときは楽しい」


 千世は、焦げ茶色の瞳を興味津々に見開いて、きらきらと輝かせて四郎を見ていた。


 四郎の話がどう千世の琴線に触れたのかはわからなかったものの、どうやら彼女の興味を大いに引き寄せたらしいと四郎は理解する。


 千世の黒目がちの大きなまなこを見ていると、四郎は彼女の言葉をさえぎってまでなにかを話す気にはなれなかった。


 千世の質問がひと通り落ち着いたところで、四郎は思いつきで言った。


「そんなに護衛官の仕事が気になるなら、いっそお前がなってみればいい」

「……わたしが、ですか」

「そうだ。お前の身のこなしは十全ではないかもしれんが、訓練を受ければまた変わるだろう。それにいざというときに固まらずに動くことができるのは、才能があると思う。胆力もあるようだし、素質はじゅうぶんだ」


 四郎は、話し始めは本気でそう思っていたわけではないものの、あのときの千世の身のこなしを思い出すに従い、案外と天職ではないかと考えた。


「女性の護衛官が過去にいたことはないが、需要はあるだろうな」

「そう……でしょうね。同性のほうが安心できる、という需要は理解できます」


 四郎の言葉は、深く考えてから放ったものではなかったが、一方の千世はなにかを考え込むような仕草を見せる。


 千世が護衛官になれるかの可能性は一度置いておくとしても、彼女がもし同僚になったとすれば、それはそれで面白そうだと四郎は思った。


 七瀬が面会時間の終了を告げるために部屋へやってきたのは、それから数分後のことだった。

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