06
医局と地下一階と、四階の紅屋の書庫と五階のこれまた紅屋の訓練場と一通り案内してもらうこと小一時間。あたしは桐生さんと紅屋の事務所に戻ってきた。
さすが特A事務所の入っているビルは設備が整っているなぁ、なんて思い返しながらドアをくぐった途端、リン、と鈴の音がした。
「あれ?」
音の発信源はあたしのスーツのポケットだ。慌てて取り出すと、渡部さんから押し付けられた鈴が、あたしの手のひらの中で、風もないのにもう一度、涼やかな音を立てる。
「やっぱりあかんやん、それ。失敗作やなぁ」
あたしの手元を覗き込んだ桐生さんが、渡辺さんの渾身の試作品を一蹴した。あの自信満々だった笑顔を思い出すに気の毒で、あたしは眉を下げる。……まぁ、この近くに鬼が隠れていると言われても、困るのだけれど。
「また、あのじいさんか」
入口から一番遠いところにある所長の席にも、しっかりと鈴の音は届いたらしい。呆れを隠さない問いかけに、桐生さんが苦笑交じりに応じる。
「うん。そう。構える新人ちゃんが来て嬉しかったんとちゃう? 蒼くんが相手してあげへんから」
「あのじいさんの相手をしていたら日が暮れる」
「まぁ、そうかもやけど。あの人、あれで蒼くんのこと可愛がってるんやから。――と、ごめん、ごめん。フジコちゃん、気にせんでえぇよ」
「あ、はい」
気にしなくていいと言われて、少なからずほっとする。だって、本当に鬼の気配を感知していたのだとしたら、じゃあ、どこにいるのという話になってしまうわけで。
いくら鬼のすべてが怖いわけじゃないと言ったところで、悪意を持って潜んでいる鬼がいるとしたら、そりゃ怖いとなるのが人情だと思いたい。鬼狩りとしては失格かもしれないけれど。
「まぁ、この部屋、なにかしらの鬼の気配があってもおかしくはないから。一概に失敗作とは言えんかもしれんけど」
「え?」
「だって、たまに証拠品とか置いてある時もあるしねぇ」
そういうものが置いてあることもあるのか、と。あたしは室内を見渡した。保管場所になりそうなキャビネットの上に特に怪しげなものはない。今のところは、でしかないし、鍵のかかった内側に入っている可能性もあるわけだけど。
あったらちょっと嫌だなぁ、なんて。腰の引けた思考を巡らせているあいだにも、手のひらの中で断続的に鈴はリンリンと鳴り続けている。どうしたものか、と内心首をひねっていると、桐生さんがひょいと摘み上げてくれた。鈴の音が止む。
「僕が返しとくわ。どっちにしろ、この部屋で鳴り続けたら邪魔やで」
「すみません。ありがとうございます」
「あの人、腕の良い術具師なんやけど、馬鹿と天才は紙一重というか、たまにこうやって変なもの造って寄こすのよね。せやから気にせんでえぇよ」
安心させるように微笑みかけてくれた桐生さんに、「馬鹿と天才は紙一重」はもしかすると渡辺さんも思っているんじゃないのかなぁと考えてしまった失礼を撤回する。
「あ。というか、あかん。蒼くん、やばない、時間」
「おまえがなかなか戻ってこないから、こうなったんだろう」
「だって、ナベさん、話が長いんやもん」
修理をお願いした手前、無碍にもできんし、と。理由としてはあまり優しくないことを言いながら、桐生さんがキャビネットの鍵を開けた。そして大量のファイルをあたしの机の上に積み上げる。
「ごめん。フジコちゃん。今日、実は僕も蒼くんもこのあと、本部に顔を出さんとあかんくて」
「え?」
「五時には一応、少なくとも僕は戻ってくるから、それまでちょっと資料でも読んどいて」
「え、あの、えっと」
「電話は出てくれたらいいし。来客はないと思うけど、あっても所長も僕も留守ですで済ませてくれたらええから」
「え、と。はい。でも、あの」
「ほんまに緊急な案件やったら直で僕らの携帯にかかってくるから。電話は適当にメモしといてくれたらそれでええし。また後日かけなおしますとでも言うといて」
流れるような指示に、あたしは必死でかくかくと頷いた。眉が下がる。
甘えるな、と言われようとも、初日からひとりで放置されると心もとない。
――でも、お忙しいだろうことは想像に難くないし。
なにしろ、天下の特A様だ。ちなみに、本部というのは防衛庁のお膝元、鬼狩りの名実とものトップ機関のエリート公務員様が集うところで、あたしたち鬼狩りに様々な指令、もとい任務を振り分けるのも本部の仕事だそうだ。
その本部からのお呼び出しがどういう案件かだなんて、あたしには知る由もないけれど、もしかすると多々あることなのかもしれない。
不安と緊張を呑み込んで、「お気を付けて」と見送ったあたしに、ドアの前で所長が不意に振り返った。桐生さんと並ぶと頭半分ほど低い。
「あのじいさんは」
じいさんって、渡辺さんのことだよね。無駄口を叩かなさそうな所長がなんなのだろうか、と。内心ドキドキしていると、なんとはなしに不穏な言葉が続いた。
「ろくでもないことしかしないが、意味のないこともしない」
「そ、それって……ここになにかしらヤバいものがあるってことですか!?」
今からあたしひとりになるのに、と。泣きの入ったあたしに、桐生さんが取り成すように微笑んだ。「大丈夫」
全くもって大丈夫な気がしない。いや、でも。でも、これも試練なのだろうか。研修生としてのはじめの一歩として。
「蒼くんも。初日の研修生をむやみに脅さんの。フジコちゃんも安心し。フジコちゃんの想像するようなヤバいものは、さすがに一介の事務所に適当に保管しておけるわけがないから」
「で、……ですよね」
「うん。しっかり管理して置いてあるから大丈夫」
「って、あるんじゃないですか!」
今度こそ半泣きであたしは叫んだ。情けないと言われようとも、特Aの事務所でひとりでお留守番する前にそんな情報は知りたくなかった。
繰り返して言うけれど。鬼のすべてを怖いとは言わない。でも、だがしかし。悪意がある鬼は、ちょっと、その、あれだ。話は別だ。
桐生さんが戻ってくるまでの約半日。あたしが必要以上に緊張感を持って資料を読み込んだのは説明に難くない。もちろん、事務所内の家探しをしようという気さえ起らなかった。
もしかして、この効果を狙われたのかな、なんて。小学生みたいなことを考えてしまったことは内緒だ。
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