第95話 御嬢様、助けを請う

 鼓膜をつんざかんばかりの轟音が上がり、住民達は悲鳴を上げて恐慌に陥る。


 結界に多少の色彩が生まれ、開いた穴から徐々に崩壊していく。


 ミファエルは読み聞かせていた絵本を落とし、フランは全身の毛を逆立てて臨戦態勢になる。


 結界が崩れ、遠くから微かに怒号が聞こえてくる。


 子供達は泣き叫び、大人達は騎士や兵士に詰め寄る。


「外はどうなってるんだ!?」


「今の音は何!? 此処は安全なの!?」


「落ち着いてください!! パニックになる方が危険です!! 冷静に!!」


 兵士達が宥めるも、住人達の不安は膨れ上がるばかりだ。


 建国以来、王都は安全だった。これといって大きな事件も無く、平和に暮らしてこられた。


 それはひとえに王都の戦力が優秀だったという事もあるけれど、災難が降りかからなかった幸運のおかげでもある。


 災難の芽を潰し、これといって大きな突発的危機も訪れる事は無かった。


 だから、彼等は災難に慣れていない。少しの事で直ぐに恐慌に陥り、どう対処して良いのかも分からない者が多い。


 住民達は、外敵から追い詰められた事が無いのだ。


 一生幸せならその方が良い。けれど、有事の際にそれでは役に立たない。


 落ち着けと言われても、落ち着ける訳が無い。


 そんな中、人混みをかき分けてアイザックがミファエルの元へとやってくる。その顔は焦燥と苛立ちに満ちていた。


「あ、アイザック殿下……いかがされ――」


「おい聞こえてるか糞護衛!! さっさと出てこい!!」


 ミファエルの言葉を遮り、アイザックはミファエルの影を踏みつけながら声を荒げる。


 突然に声を荒げての影を何度も踏みつける奇行に、それを見ていた周囲の者はアイザックの奇行に呆然とするも、影にルーナが居る事を知っているミファエルだけは、その行動の意味を正しく理解する事が出来た。


「もううだうだ言ってる状況じゃない!! 大人しく手を貸せ!! ミファエル嬢の護衛なら百人でも二百人でも付けてやる!! だから手を貸せ!!」


 声を荒げるアイザックに、ルーナは何も答えない。


「これは何の騒ぎだい?」


 人混みのをかき分けて姿を現わしたのは、困惑顔のミファエルの腹違いの兄、ガルシア・アリアステルと腹違いの姉、スピカ・アリアステルだった。


 ガルシアとスピカは護衛を引き連れて、一直線にミファエルとアイザックの元へと向かう。


 ゆっくりとした足取りでやってくるガルシアとスピカに、ミファエルは礼儀正しくお辞儀をする。確かに礼儀正しいのだけれど、その姿は何処か他人行儀にも見えた。


 お辞儀をするミファエルに眉尻を下げつつ、ガルシアはミファエルに問う。


「ミファエル、これはどういう事だい? 殿下がご乱心のようだが……」


「私の護衛の力を借りたいとの事です」


「素直に貸せばいい……という簡単な話ではないようだね。詳しく話を聞いている時間は無いが……私は事情を知らないしなぁ」


 影を踏みつけ声を荒げるアイザックに、さてどうしたものかと頭を悩ませるガルシア。


「ところで、お兄様方は何故此処へ? 王宮で対応を任されているとお聞きしましたが……」


「ああ。どうにも長引きそうだったからね。学院此処では無く、王宮へ連れて行こうと思って。使いを出しても良かったのだけど、私が来た方が話は早いと思ってね」


「そうですか。殿下。此処では無く、王宮へ――」


「ああ、殿下ではない。呼びに来たのはお前だよ、ミファエル」


「え?」


 ガルシアの意外な言葉に、ミファエルは思わず呆けた声を出してしまう。


「殿下は勝手に抜け出しただけだ。じきに迎えが来る。私が迎えに来ずとも、な」


「……何故、私を……」


「妹を迎えに来るのが、そんなにおかしいかしら?」


 ミファエルの言葉に、スピカは感情を感じさせない静かな声音で訊ねる。


「い、いえ……」


 対外的な理由だろう。そこに、きっと愛情なんて物は無い。


 だって、あの屋敷でミファエルを愛してくれていたのはアリザと父親だけだったのだから。


 スピカの眼を見ていられず、ミファエルは視線を落とす。


 そんなミファエルの様子に、スピカは扇で口元を隠しながらぴくりと眉を動かす。


「……あの、私は……」


「拒否権は無いと思ってくれ、ミファエル。これは、次期当主である私の決定だ。お前を連れていく事は既に決定事項だ。結界が破られたとあってはなおさらだ」


 少し堅い、有無を言わさぬガルシアの物言いに、ミファエルの手にきゅっと力が籠る。


「此処よりも王宮の方が安全だわ。それに、此処で貴女に出来る事が在る?」


「それは……」


 自分に何が出来るか。きっと、自分には何も出来ない。学院に残ったって、ほんのちょっとの手伝いしか出来ない。それは、今泣いている子供達でも出来る事だ。


 ミファエルが此処に残る理由は特に無い。


「では行きましょう。時間の無駄です」


 スピカが強引にミファエルの手を引く。


「あ……」


 手を引かれるまま、ミファエルは歩き出そうとした。


 けれど、その脚をミファエルは無理矢理止める。


 ぴたりと足を止めたミファエルに、スピカが少しだけ驚いたように目を見開いてミファエルを見る。


「ミファエル?」


 ガルシアも驚いたようにミファエルの名を呼ぶ。


 何故自分でも脚を止めたのか分からない。分からないけれど、此処で素直に着いて行く事が正しい事だとは、どうしても思えなかった。


「……」


 子供達を安心させるために笑顔を振りまくピュスティスが居る。


 尻尾や前足を乱暴に掴まれても子供達の事を投げだしたりしないフランが居る。


 恐慌に陥る住民達。


 忙しなく動き回る兵士や騎士達。


 従事科の生徒も恐怖に顔を青褪めながらも動いている。その中には、スゥの姿も見受けられた。


「……私は、一緒には行けません」


 ぽつりと、ミファエルはこぼす。


 そんな言葉が出て、ミファエル自身も驚いた。けれど、口に出してみて違和感は無かった。


 それがまごう事無い、ミファエル自身の本心だったから。


「私は、一緒には行けません」


 今度こそ、はっきりと、ミファエルはそう言葉にする。


 ガルシアがミファエルを連れていくと言った時、ミファエルは此処に残ってまだ何かをしなければいけないという使命感と、何も出来ない無力感から解放されるという安堵感があった。


 だけど、きっとガルシアに着いて行ったところで、次に待っているのは何処に行っても何も出来ないという無力感だ。


「私は、此処に残ります」


「先程も言ったけど、王宮の方が安全よ? それに、お兄様の決定なのよ?」


 スピカの言葉に、ミファエルは力の抜けた笑みを浮かべる。


「私は、何処に居ても安全です。だって、ルーナが居るのですから」


 自分が見て来た中で最強の人物。それがルーナだ。つまり、ルーナが居る場所がこの世で最も安全な場所なのだ。


 それを自覚しているから、そんな自分だけの安全を理解しているから、ミファエルは自分を卑怯だと思ってしまう。


 自分の安全に安堵している自分が、この世で一番醜い心を持っているとも思ってしまう。


「何処へ行っても安全なら、何処へ行っても同じ事です。私は此処に残ります」


 確たる意志の籠ったミファエルの言葉。


「私に出来る事なんて、きっと何もありません。自分の無力さは、もう痛感しました」


「では、此処に残る意味も無いでしょう?」


「はい、私が残る事に意味は有りません」


 スピカの言葉を、ミファエルは肯定する。


「私には、出来る事の方が少ないです。お兄様方のように大きな事を手伝う事は出来ません。私には、こうして本を読んであげる事しか出来ませんでした」


 落とした絵本を拾い上げる。


「そんな簡単な事だって、私には満足に出来なかったのです」


 ミファエルは自分の無力さに打ちのめされたような、弱々しい声音で言う。


「私は無力です! 私には、まだこれっぽっちの力も在りません! それでも、誰かのために何かをしたい! ただ傍に居る事しか出来なくても、ただ本を読んであげる事しか出来なくても、私は誰かを一人になんて絶対にしたくない!」


 涙が頬を伝う。


 悲しいから泣いているのではない。恐ろしいから泣いているのではない。


 ただただ、悔しくて涙を流す。


 誰も助けられない。これが、ミファエルの現実なのだ。


 ミファエルは、まだ・・助けられる側の人間だ。


 涙を流し、ミファエルは自身のに懇願する。


「出て来てください、ルーナ……」


 ミファエルの言葉にもルーナは答えない。


 泣きながら、ミファエルはすぅっと息を吸い込む。


「出て来なさいルーナ!! 私を護ると言うのであれば、私を作り上げる全部を!! 私が目指したい未来を護ってみせなさい!!」


 声なんて荒げた事が無い。直ぐに喉が痛くなる。


 声だって不細工だ。がさがさと、通らない声で喚いてるだけ。


 言ってる事も我が儘だ。こんな事、普通の騎士だったら命令なんてされたく無いだろう。


 理不尽な事を言っているのは理解している。


 それでも、自分に出来る事は、これだけだから。


 ただ素直に、助けてくださいと言う事しか出来ないから。


「私は、助けられる側の人間です。……だから、助けてください、ルーナ……!!」


 絞り出すようにして吐き出された言葉。


 それを聞き届けた影が、動揺したように揺れた。

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