第75話 かつての悪夢
日常が壊れるのに予兆なんてものは無い。それは、いつだって唐突に訪れる。
硬い足音。何かが砕ける音。
悲鳴、怒号。何かが爆発する音、聞いた事の無い破裂音。
「大丈夫だよ。お姉ちゃんがなんとかしてあげるから」
誰もが不安に表情を歪める中、その少女だけは笑みを浮かべていた。
「む、
「なんだよぉ……!! なんなんだよぉ、あれぇ……!!」
「嫌だ嫌だ嫌だ!! 食われて死ぬなんて御免だ!!」
「うぇぇぇぇえええん!! おかあさぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
「逃げろぉ!!
硬い足音が群れを成して迫る。
誰も彼もが慌てて逃げ出す。
「こっち!!」
少女は少年の手を取って走り出す。
「乗れるだけ乗れ!! 速く逃げるぞ!!」
銃を撃ちながら、男が車の荷台で声を張り上げる。
乗れと言いながら、車は走り出す。走り出さなければ、誰も助からない。
虫は人を食らい、建物を食らい、物を食らい、生物を食らう。
そこにある全てを、虫は食らう。
「乗れ、坊主!!」
荷台から差し出された手を、少年は必死に掴む。
死にたく無いから。生きながら食われたく無いから。そんな死に方は、御免だから。
だから、一心不乱に手を伸ばした。
「死なないでね――」
酷い音が響く世界で、背後から聞こえた小さな声だけが鮮明に聞こえた。
手を引かれながら、少年は振り返る。
少年が大好きだった少女は笑みを浮かべている。その走りは緩やかになり、少年と徐々に距離が開いていく。
車は止まらない。止まってしまえば、虫の餌食になるから。誰一人として助からないから。
喉から血が出んばかりの声で少女の名を叫ぶ。
少女は笑いながら手を振った。絶望の支配する世界で、少女だけは最後まで笑顔を浮かべていた。
「――ッ!! はぁ……っ、はぁ……っ。…………はぁ……」
呼吸荒くシオンは跳び起きる。
息を整えながら、シオンは周囲に視線をやる。
横で寝ている同じ兵士科の生徒。
雨風をしのぐだけの簡素な天幕。
少ししてから、ようやく自分が何処に居るのかを把握する。
呼吸を整え、深く溜息を吐く。
此処最近では見る事の無かった悪夢。
きっと、シーザー達と恋バナなんてしたせいだろう。
天幕の外から足音が聞こえてきている。微かに、スープの匂いもする。もうそろそろ起きて出立の準備をする時間になるだろう。
「起きろ。準備するぞ」
「痛っ!?」
シオンは少し強めにシーザーを叩いて起こす。
ちょっとした意趣返しだ。最悪の夢見になったのだ。これくらいはしても許されるだろう。
「……もっと優しく起こせよ……」
「十分優しいだろ」
言いながら、シオンは片付けを始める。
「……なーんで、不機嫌なんだぁ?」
「朝は弱いんだ、俺」
「なるほどなぁ……」
眠たげな声で納得したかと思うと、次の瞬間には身体のバネを利用して勢いよく起き上がるシーザー。
「因みに俺は朝は強い。おはよう、シオン」
「ああ、おはよう。シーザー」
にっと快活に笑みを浮かべるシーザーに、シオンも柔らかく言葉を返す。
「ほれ相棒。お前も起きろ」
「うん……」
シーザーが軽くドッペルゲンガーをゆする。
ドッペルゲンガーは少しばかりしかめっ面をしており、ご機嫌麗しそうには見えなかった。
「あれ? お前って朝弱かったっけか?」
「……なれない遠征で多少は疲労してるんだよ。シーザーは……元気そうだね」
「おう! 俺は腹一杯食ってしっかり寝られれば元気一杯だからな!」
にひっと笑みを浮かべながら力こぶを作るシーザー。
どんなところでもしっかり眠れるのは重要な事だ。
ドッペルゲンガーは一つ溜息を吐いてから起き上がる。
「……どーした? 相棒らしからぬガチの溜息じゃねぇか」
「らしからぬって何さ。いや、寝心地最悪でちょっと夢見が悪くなった……」
「デリケートだなぁ相棒は」
実際のところ、寝心地が悪かったから夢見が悪かった訳では無い。単純に、夢見が悪かったのだ。
見たくない夢を見てしまった。此処百年近く見た事は無かったのに。
もう一度溜息を吐きながら、ドッペルゲンガーは片付けを始めた。
〇 〇 〇
学院にも休日というものは存在する。
勉強漬けの日々では疲れてしまうという事もあって、定期的に授業も何も無い休日がある。
貴族の子息子女は護衛を連れて街に繰り出すものだけれど、ミファエルはそうもいかない。
何せ、今は護衛が居ないのだ。オーウェンが居ないのであれば、街に繰り出す事も出来ない。幾らフランが居て、ルーナが影に潜んでいるとしても、フランは頼りないし、ルーナは存在を公的に認知されていない。
学院にはルーナの存在は多少は認知されているけれど、ルーナという存在をどう扱ったものかと考えあぐねている様子だ。
積極的に排他したい者、多少学院の規則に反しても擁護したい者。明確にでは無いけれど、緩やかに意見は割れている。
ともあれ、ルーナを公には出来ない。未知の存在を抱えているという事実は有効な手札になるが、それはそれとして、今回のように騎士が同伴していなければいけない場合には不便極まりないのである。
外には出られない。であれば、大体ミファエルのやる事は決まってしまう。
制服に着替えて筆記具を持ち、図書室へと向かう。
そう、やることが無いのであれば勉強をするだけである。
本当は王都の製菓店とか装飾店に行きたいけれど、それはオーウェンが遠征から帰ってきて、予定を合わせてからにしよう。それまではきちんと勉強をする。
広大な面積を要する図書室。ともすれば、迷子にでもなりそうな程の広さと蔵書量を誇っているので、資料には事欠かない。
お目当ての本を引っ張り出して、いざお勉強。
フランはその横で絵本を読んでミファエルの邪魔をしないように努める。
フランとお喋りをしたそうにしている生徒も居るけれど、隣で真剣に勉強に励んでいるミファエルを見ると残念そうにしながらその場を離れていく。
図書室に置いてある本は全て写本だ。原本は王城にて厳重に保管されている。とはいえ、本を粗末に扱って良い訳では無いし、汚しても良い訳では無い。
そのため、図書室の中では飲食は禁止である。一息入れたい時には、併設されている休憩室にて飲食を行う必要がある。
友人と勉強をしている際にはそこで一息入れて談笑をするのも良いだろうけれど、ミファエルは一人で来ている。フランも居るけれど、基本的にフランはミファエルといつも一緒なので、いつだってお話を出来る。
フランには申し訳無いけれど、せっかくの勉強に集中できる機会だ。集中してやらせてもらおう。
真剣に、ミファエルは勉強に取り組む。
法律の事。過去の取り組み。豊かではない者、早々に命を失ってしまう者、そういった者をどうすれば減らす事が出来るのか。
孤児院は存在する。けれど、それは全ての街にある訳では無い。
浮浪児でも出来る仕事。その仕事先を斡旋する組織。
ミファエルのやりたい事に対して、自分はあまりにも物を知らない。
もっと深く、もっと広く、物事を見ていくべきなのだ。
集中して、筆記具を走らせる。
視線は本と紙を行ったり来たり。それ以外、まったく目に入らない。
ちょうど一区切りつきそうになったその時、視界の端でとんとんっと軽く机を叩く指が見えた。
指の方を見やれば、そこには笑みを浮かべたアイザックが居た。
「根を詰め過ぎでは無いかい、ミファエル嬢」
「アイザック殿下。いえ、まだまだ大丈夫です」
アイザックの言葉に、ミファエルは笑みを浮かべて返す。
「とはいえ、もう三時間ですにゃ。
「え、もうそんなに?」
時計を見やれば、確かに図書室に入ってから三時間程が経過していた。
フランの横には、絵本が積み上がっていた。
「御嬢さん、お茶を用意してありますにゃ。休憩なんていかがですかにゃ?」
「君は多芸だね。お茶も淹れられるのかい?」
「
「? ではいったい誰が……」
小首を傾げるアイザックとは違い、ミファエルには誰がお茶を淹れたのかが分かった。
自然と優しい笑みがこぼれる。
「なるほど。では、一度休憩にしましょう。殿下も、御一緒にどうですか?」
「……やれやれ、そう言う事か。君の護衛とやらは、とても優秀なのだな」
ようやっと事態を把握したアイザックだけれど、それを咎める事はしない。
「ご相伴に預かるとしよう。丁度私も休憩をしようと思っていたところなんだ」
「では、御一緒に。行きましょう、フラン」
「はいですにゃ」
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