第49話 噂

 ミファエルの側付き侍女。スゥはミファエル・アリアステルが嫌いだ。


 スゥはアリザがミファエルのところに仕える事になった際に一緒に連れてこられた。アリザと故郷を同じくし、また、アリザの家で使用人見習いとして勤めていた。


 アリザ。本名をアリザ・マクシミリアンは、男爵家の御令嬢だ。


 学院にて従事科を卒業したのちに、アリアステル家への奉公が決まった。それと同時に、アリザがスゥをアリアステル家の侍女として推薦した。理由は、ミファエルとスゥが同い年だからだ。


 歳が同じであれば、学院に通う事の出来ないアリザの代わりにミファエルを支える事が出来ると考えたからだ。


 アリザは侍女として優秀であり、その上で戦闘能力も持ち合わせている。多くの護衛を付ける事が出来ないミファエルにとって、とてもありがたい存在だ。


 ミファエルは母にするように、姉にするように、アリザに甘えた。


「アリザ、お茶を淹れてちょうだい。あと、ケーキも欲しいわ!」


「はい、ただいま」


「アリザ、勉強は嫌よ。私、外に出たいわ」


「駄目ですよ、御嬢様。私も一緒に居ますから、勉強頑張りましょう?」


「アリザ、眠るまで本を読んで欲しいわ」


「はい、御嬢様」


 そんなミファエルの姿を、スゥはアリザの次に近くで見ていた。


 自分が尊敬し、敬愛するアリザに我が儘を言うミファエルが嫌い。アリザを困らせるミファエルが嫌い。正しい産まれじゃないミファエルが嫌い。


 アリザは優しくて、思慮深く、主思い。その思いを利用するミファエルが嫌い。


 でも、仕方がない。それはアリザが選んだ道だから。アリザが決めた事であれば、自分は何も言うまい。


 本当なら、もっと相応しい主に仕えて欲しいと思うけれど。


「御嬢様、ピアノが上手になられましたね」


「本当!? じゃあじゃあ、今度一緒に連弾してくれる?」


「勿論。私も練習をしておきますね」


「やったぁ! アリザ、約束よ?」


「ええ、約束です」


 楽しそうにアリザはミファエルと笑いあう。


 スゥはそれを知っている。アリザの笑顔が本物であるという事を知っている。


 だから、何も言わない事にしたのだ。アリザが幸せならば、それで良いと思ったから。


 スゥの持ち場はアリザとは違う。必然的に、アリザとの交流が少なくなってきたある日、事件が起きた。


 アリザが瀕死の重傷を負った。


 公爵邸に入り込んだ賊が、ミファエルの命を狙ったのだ。


 アリザはミファエルを護るために奮闘し、瀕死の重傷を負った。


 勿論、スゥもお見舞いに行った。アリザは元気そうだったけれど、当時の事は箝口令を敷かれているようで何も話してはくれなかった。


 それでも良かった。アリザが生きていて、アリザが元気であれば、それで。


 アリザのお見舞いを終えて、安堵したその時。楽しそうに、嬉しそうな笑みを浮かべるミファエルの姿が目に入った。


 何故? アリザがミファエルを護るために瀕死の重傷を負ったのに、何故ミファエルは笑っていられるの? 楽しそうに、嬉しそうに。


 従者の礼を忘れかけたけれど、長年の習慣は身体が忘れなかったようで、ミファエルに会釈をした。


 風の噂で聞いた。ミファエルに新しい従者が付いた事を。


 オーウェンとは違う。姿を見せずにミファエルを護る従者だそうだ。


 それが、とても嬉しいと笑っていたのだと、スゥは気付いた。


 アリザが死にかけて、直ぐに従者を付けて、それで喜んでいる。


 アリザなんてどうでも良いの? 貴女の命を救ったのに?


 到底、許せなかった。


「お前はミファエルの仕事を最低限こなせばいい。後は、私の侍女として付けてやる。私の卒業後は、別の者に斡旋しよう。アリザもそうだが、お前もあんな者に付き従う必要は無いのだ。何せ、お前達は優秀な侍女なのだから」


 だから、その言葉に従った。


 スゥは必要最低限の仕事しかこなさない。それ以上の心をミファエルに与えるつもりも無い。


 だから見過ごした。あの噂を。あの言葉を。否定も、肯定もしなかった。それは仕事の内に入らないのだから。



 〇 〇 〇



「アリアステル様、少しよろしいですか?」


 授業を終えたミファエルはスゥを待つ。一緒に食堂に向かうためだ。


 いつもであれば誰も声をかけてこないのに、今日に限って声をかけられた。


「はい、なんでしょうか?」


 言葉を柔らかく対応する。これはアリザに口を酸っぱくして言われたので徹底している。


 声をかけてきたのは、同じ執政科の生徒であり侯爵家の跡取り息子だった。


 彼とは特に交流は無いはずだ。


 そもそも、執政科の生徒とは数人程度としかお喋りが出来ていない。それも、ほんの世間話程度である。


 少し、浮足立つ。何か、お友達としてお喋りが出来るのだろうかと。


 けれど、浮足立つ心をぐっと抑える。どうせ、御父上がどうとかお噂はかねがねとか言われるに決まっているのだから。


「アリアステル公のお噂はかねがね。我が父もアリアステル公とは懇意に――――」


 ぺらぺらと、まるで台本通りな言葉。


 つまらないと、素直に思ってしまう。


 こんな話を聞いても、何の身にもならない。


 彼が目指している物とミファエルが目指している物は違う。そんな事見れば・・・分かってしまう。


 彼が目指しているのは今の侯爵と同じような未来。貧富の差も、不幸な身の上の誰かの事もどうでも良い。華やかな貴族社会の存続。それだけを考えている。


 だからつまらない。存続なんて停滞だ。進む事すらしない者の言葉ほどに空虚なものは無い。


 しかして、横のつながりは力となる。御愛想でも笑っておけば印象は良い。


 にこにこと笑みを浮かべて相槌を返していたその時、思いもよらない言葉が彼から発せられる。


「あ、そうそう。噂と言えば、アリアステルさんが不貞の子というのは本当の事ですか?」


「はい?」


 にこにこと、侯爵家の子息は笑みを浮かべたままだ。


「ですから、貴女が不貞の子というのは本当の事ですか? アリアステル様」


 笑っている。けれど、それが仮面である事は見て分かった。


「……何を仰っているのか、さっぱり……」


「おや、そうですか? ですが、そんな噂が流れているのです。なんでも、アリアステル様は公と侍女の間に生まれた不貞の子だと」


「誰がそんな事を……」


 悲しそうに、ミファエルは表情を歪める。


 実際には内心はとても焦っている。


 本来であれば、あらぬ嫌疑をかけ、その噂を鵜呑みにし、あまつさえ本人に言ってのけた無礼に激怒すべきところだけれど、対人関係はずぶの素人であるミファエルはただ誤魔化すしか出来なかった。


「御嬢様。お迎えに上がりました」


 戸惑っているところで、スゥがミファエルに声をかけた。


「申し訳ありません。失礼させていただきます」


 ミファエルはスゥが来てくれた機を逃さずに、即座にその場を離れる。


 それ以上の追及は無かったけれど、今のやり取りは大勢に聞かれる事になった。怒鳴るでもなく、怒るでもなく、困ったように誤魔化したミファエルの姿を見られてしまった。


 俯きながら、重ねた手をぎゅっと強く握る。


 不安に駆られる。此処には味方がいないのだから。


 噂は何処で、誰が、何のために? 何のためには決まっている。ミファエルを陥れるためだ。けれど、陥れたところで誰が得をするのか。


 分からない。分からないからこそ怖い。


 急に、周りが全て敵だらけのように見えてきた。


 いや、噂は噂だ。そこに真実は無い。


 自分が否定をすれば、それは噂の域を出ないはずだ。


 大丈夫。夜になればルーナを呼べる。……今夜。今夜ルーナに相談をしよう。そうすれば、少しは何か光明が見えてくるかもしれない。


 しかし、その対処が遅い事をこの後知る事になるとはミファエルは思ってもいなかった。

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