その8 情けなさで消えてなくなりたい

「ねえ、春奈。春奈のこと、名前で呼んでもいい?」

「えっ!」

「ダメ……?」

「えっと、ダメではないけど」

「じゃあ、呼ぶ。心羽」

 ドキンと、心臓が大きく高鳴った。

 これ、なんかダメだ。名前を呼ばれただけなのに、全身がそわそわとして、ものすごく恥ずかしい。多分、口元がにやけてる。あすちゃんや蓮兄に呼ばれるのとは、全然違うよ。

 店内はクーラーが効いていて涼しいはずなのに、うちわで顔をあおぎたい。

(初めて名前を知ったとき、春奈にぴったりのかわいい名前だと思ってた。ずっと呼んでみたかったんだよな)

 少し触れあった腕から流れこんできた気持ちに、どんどん顔がのぼせていく。

「ねえ、心羽。オレのことも、名前で呼んでみて」

「えっ。水橋くんのことを?」

「嫌?」

「う、ううん。そうじゃなくて、男の子のことを名前で呼んだことなんて、親戚以外にはなかったから」

「そっか。親戚がいるんだ」

「うん。三つ上の従兄弟のお兄ちゃんなんだ」

「へぇ。仲良いの?」

「えっ? まあ、普通程度には。蓮兄は、ちょっと過保護なところがあるかも」

「ふーん……」

(蓮兄か、ずいぶん親しげな感じだな。あー、嫌だな。親戚に嫉妬するとか、すげえダサい)

「で、でもっ、わたしは、その……。伊織くんのことが、好きだからね……?」

 消え入りそうな声で、小さく主張すると。

 水橋くん――いや、伊織くんは、見ているこっちがとろけそうなほど幸せそうに笑った。

「オレも。大好きだよ、心羽」

 これ以上にないほど直球の言葉に照れくさくなって、首筋まで熱くなってしまう。

 こんな夢みたいな時間が、ずっと続けばいいのにな。

 今があまりにも幸せすぎて、だからこそ恐ろしかった。

 魔法は、ずっとは続かない。

(心羽は、時々、悩んでいるような顔をする。オレには、話せないことなのかな)

 ほんとは、全てを打ち明けてしまいたいよ。

「ねえ、伊織くん。わたしね、実は心が読めるんです」

「えっ」

「なんてね、ウソだよウソ! ただ、本当にそんな力があったら、伊織くんはどうするかなぁと思ったの」

 臆病なわたしは、冗談にして笑った。

 伊織くんは、呆けたように口をポカンとあけたけど、意外な返事をした。

「うーん、そうだな。ビックリはするけど、どうもしないと思う」

「えっ」

「なんていうのかな。しっくりくると思う」

(たまに、心羽には、本当に人の心が読めるんじゃないかって思うときがある。口にしなくても、全部、わかってくれてるんじゃないかって)

 本気で泣いてしまいそうだった。

 ねえ、伊織くん。今のが冗談じゃなくても、同じように思ってくれた?

「心羽? えっ。なんでちょっと涙ぐんでるの」

「……なんでもない」

 わたしの頭をそっと撫でる伊織くんの手つきは、ぎこちないけれどとてもやさしい。

(好き。本当に大好きだ。心羽に本当に心が読める力があって、この想いが、指先を通して、全部伝わっていればいいのに)

 伊織くんの想いは、全部、伝わっているよ。

 本当に伝わっているんだよって言ったら、伊織くんはどうする?

 やっぱり、気持ち悪いって、この手を振り払うのかな……。


 一緒にお昼ご飯を食べたあとは、ショッピングモールを一緒に見て回った。

 本屋、洋服屋、雑貨屋、ゲーム屋と見て回りながら、感想を言いあって。

 ゲーム屋に行ったときだけ、伊織くんが明らかに興奮していて、かわいいなぁと思った。

 日が暮れてきて、伊織くんが家まで送ると申し出てくれて。

 お言葉に甘えて、わたしの家までもうすぐというところで思わぬ人物に出くわした。

「お帰り、心羽。デートだったんだね、楽しかった?」

「蓮兄……」

 蓮兄は、わたしたちを見つめて静かにほほえんだ。

 黒縁眼鏡の奥の瞳からは、全く感情が読み取れない。

 背筋に、冷たい汗が伝った。

(蓮兄……? この人が、さっき言っていた心羽の従兄弟か?)

 つないだ手から、伊織くんの困惑が伝わってくる。

「結局、そいつと付き合ったの? こうして見ると、ほんとにイケメンなんだね。そのきれいな顔にほだされて、二次元のイケメンよりも魅力的に思えちゃった?」

「蓮兄っ。やめて!」

「心羽の気持ちは、わかるよ。でもさぁ、彼は心羽のひみつを知ってるの?」

 息が、止まりそうになった。

(心羽の、ひみつ……?)

 すさまじい勢いで心拍数が上がっていき、首が絞めつけられたように苦しくなった。

「嫌っ!」

 這い上がってくる恐怖のあまり、伊織くんの手を振り払ってしまった。

「あっ」

「……ごめん。オレ、今日はもう帰るね」

 伊織くんは、悲しみをこらえているような目をしながら、走って立ち去った。

 あんなに弱ったような顔をしてる伊織くん、初めて見た。

 わたしが、傷つけたんだ。なんて、ひどいことをしてしまったんだろう。

「やっぱり、ひみつのことまでは打ち明けていなかったんだね」

「なんで! なんで、あんなひどいことを言ったの! 蓮兄のバカ!」

 蓮兄の表情が、すっと暗くなる。

 大きな瞳に、暗い焔が灯ったのがわかった。

 これは、真剣に怒ってる顔だ。

「本気で、普通の人間とわかりあえると思っていたの? ボクは忠告したはずだよ。普通の人と恋をしても傷つくだけだって」

「それは……」

「彼のことを信頼していたなら、どうしてひみつのことを話していなかったの? 本当は信頼できなかったからじゃないの?」

「やめてよっ」

 蓮兄に、そっと頭を撫でられる。

 だけれど、その手から感じたのは、伊織くんから伝わってきたあたたかく純粋な想いとは全然違う。

(心羽の本当の理解者はボクだけだよ。ボクだけを見ていれば、傷つかなくてすむ)

 凍てついた氷のように冷たく、ほの暗い感情だ。

 そしてまた、深い海の底で、二つ結びの彼女の顔が薄くゆらめいた。

(……蓮兄は、自分の心にウソをついてるんじゃないかな)

(そんなことない!)

(蓮兄が本当にわかりあいたのは、わたしじゃない。前に付き合っていた彼女なんじゃないの?)

 蓮兄は、わたしの頭からパッと手を放して、恐れたように距離を取った。

「……そうなのかもしれない。でも、この能力のことを隠して付き合うのは、もう限界だったんだよ! ほんとはアイツの本音を全部わかってるのに、なんにも知らないフリをしつづけたっ。それなのにアイツは、オレの純粋なところが好きだって、なんの悪気もなく言ったんだ!」

「蓮兄……」

 彼女の無邪気な一言が蓮兄にとってどれだけ残酷だったか、わたしには悲しいほどにわかってしまう。

 眼鏡の奥の瞳が、涙で濡れていく。

「ずっとウソついてたのに、今更どんな顔して、実は心が読めるんだなんて打ち明けたら良いのかわかんなくなった。アイツにだけは、化け物扱いされたくなかったんだ。だから……真実を知られる前に、自分からアイツを振った」

 幼い子供のように涙を流しつづける蓮兄に、胸が締めつけられた。

 今初めて、蓮兄の心の深い部分に、触れることができたような気がする。

「もう、普通の恋なんてしたくないよ。心羽だけが、ボクをわかってくれればいい。ずっと、そうやって自分に言い聞かせてた」

「とても、辛かったね」

「……ごめん、心羽。心羽の彼氏に、ひどいことを言っちゃった。まるで幸せだったころの自分を見せつけられたようで、嫉妬したんだ」

「ううん」

 全く心の準備ができていないタイミングでのカミングアウトになってしまったけど、いづれは避けて通れない問題だっただろう。

 向き合うべきときが、もうすぐそこに迫っている。

「……ねえ、蓮兄。わたしね、蓮兄には幸せになってほしいよ」

「いきなりなに言ってんの」

「沙雪のことで死にそうだったとき、わたしを救ってくれたのは蓮兄だった。いつも悪態ばっかりついてごめんね。ほんとは、すごく感謝してるから」

 蓮兄は、きょとんとした顔で、わたしを見た。

 なんだかわたしの方が年上になったみたいだ。

「だけどね、蓮兄を本当の意味で幸せにできるのは、わたしじゃない。それは、蓮兄自身が一番わかってるんじゃないかな」

「……でも」

「真実を話すのは、ものすごく怖いよね。だけど……伝えようとしなかったら、伝わるわけがない」

『怖がらずに伝える努力をしないとダメだよ? 思ってるだけで察してくれる人なんてどこにもいないんだし』

 そう教えてくれたあすちゃんは、あの後、彼氏と仲直りできたと笑って話していた。

 わたしと蓮兄の抱える事情はとても特殊で、厄介なものかもしれない。

 でも、普通の人だって、大切な人に本音を打ち明けるのは怖いはずだ。

 それでも……みんな、乗り越えてる。

 大切な人との絆を、諦めないために。

 全てを諦めるのは、ぶつかってみてからでも遅くない。

「蓮兄。彼女に、真実を打ち明けよう。わたしも、伊織くんに向き合うから」

 蓮兄は、まぶしそうに瞳を細めた。

「まさか、心羽に諭される日がくるなんて思わなかったな。……心羽は、変わったね」

「そうかな?」

「うん。なんてゆーか、強くなったよ。沙雪ちゃんとのことがあった直後は、危なっかしくて心配でしかなかったけど、もうボクが見ていなくても大丈夫そうだ」

 ずっと近くで見守ってくれていた蓮兄の言うことなら、信じても良いだろう。

 臆病だったわたしがこんな風に思えるようになったのは、他でもない伊織くんのおかげなんだと思う。

 彼の想いを、信じてみたいと思えたから。

「心羽、ありがとう。ボクも、アイツともう一度向き合うことを、考えてみるよ」


「はぁ……」

「春奈さん? どうかしたの?」

「あっ、丸ちゃん先生。すみません、ため息なんかついちゃって」

 日直としてみんなから集めたプリントを先生に手渡しながら、思わず、ため息が出てしまった。

(春奈さん、最近よくため息をついてるみたいだけど大丈夫かな。心配だわ)

 ここは職員室だ。先生の前ですらため息を取り繕うことができなくなっているなんて、そろそろ重症かもしれない。

 伊織くんとプラネタリウムに出かけてから、そろそろ一週間が経つ。

 あの日以降、彼とは一切、喋っていない。

 正確には、何度か、伊織くんから話しかけられた。

『あの。心羽と、話がしたいんだけど』

 だけどわたしは、そのたびに怖くなって、彼を遠ざけた。

 もし、真実を話して拒絶されたら、今度こそ全てが終わってしまう。

 考えるだけで胸が張りさけそうになって、中々、踏みきれずにいる。

 気まずさのあまり、図書委員の仕事も、中田くんに頼みこんで代わってもらっちゃったし……。中田くんは快く引き受けてくれたけど、伊織くんがどう思ったかは、もはや想像もしたくもない。

 わたし、ダメダメだなぁ。

 先日は、蓮兄に対してあれほどの啖呵を切ったというのに、情けなさで消えてなくなりたい。

「春奈さん。時間はある?」

「えっ。はい、ありますけど」

「少しだけ、先生と話そうか」

 丸ちゃん先生はわたしを安心させるようにほほえむと、手を引いた。

(一人の生徒に肩入れしすぎるのは、教師としてはあまり良くないんだろうけど。春奈さんは恩人だから、ちょっとぐらいヒイキしても良いよね)


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