第5話 嵐を越えて

「金がねーとはどういうことだよ! お前、俺をだましやがったな?!」

 きつい口調でエルドが怒鳴る。ファティアは申し訳なさそうな顔をしながら頭を下げる。

「すいません……あの、騙すつもりはなかったんです! ただ、あの……」

「ただ……? 何だよ! じゃあ金でなくてもいいよ! 金目のものとかないのか!」

「いえ、あの……持っているものと言えば食料と水くらいのもので……」

「あぁん? じゃあその槍は?」

 男が顎でしゃくるようにして言う。ファティアは慌てた様子で答える。

「こ、これは駄目です! 槍はワルキューレの命! これだけは手放すことはできません!」

「じゃああんたが大事そうに抱えてる、その……袋の中のもんは? それは金にならないのか」

「こ、これもだめです。これは、あの、いろんな意味で駄目です……」

 ファティアの答えにエルドは両手で頭を抱えるようにして叫び始めた。

「あー! じゃあ何なんだよ! ただ働きじゃねえか! 濡れ損だぜこっちはよぉ!」

「すいません……」

「大体あんた……見た感じ急ぎの用で来てるんだろ? 金くらいもってこいよ。もしくは換金できそうな物とかよ。出先で金が必要になる事だってあるだろうが。今が正にその時だよ!」

「いえ、なにぶん急いでいたもので……あ、でも……!」

「でも? なんだよ。へそくりでも隠し持ってるのか」

「いえ、違います。私はこれから王都に行きますが、その帰りにならお金を用意してエルドさんにお渡しできるかと……」

「帰りに、だと? かーっ! これだから兵隊様はよ! こっちは今日明日の事を考えて生きてるんだぜ? そんな先の、しかも当てにならんようなことを信じられるかっつーの! まったく……一銀セドニ二〇万円なんて額を言うから持ってるのかと思って期待したのに……騎士様兵隊様に嘘をつかれるとは思わなかったぜ。けっ!」

 そう言い、エルドは苛ついた様子で濡れた髪を撫でつける。険悪な雰囲気にファティアは伏し目がちに佇むばかりだった。

「あ、あの……本当に申し訳ありません。かくなる上は……一刻も早く王都に向かい、約束のお金を用意して戻ってきます……」

「一刻も早くったってねえ……」

 エルドは洞窟の外を振り返り、雨の様子を見る。

「降りが強くなってきた。この様子じゃ明日まで雨だぜ。こんなんじゃ行くに行けないだろ。合羽があってもびしょ濡れだ」

「はい。それは覚悟の上です。私は急がねばならないのです……!」

「急ぐったって無理だよ! ここの雨は冷たい。風も強い。濡れて進んだんじゃ体が冷えて動けなくなる。あんた、経験ないのか?」

 呆れたような口調でエルドが聞くが、ファティアは首を振りながら答える。

「いえ……雨の中の行軍は経験がありません」

「言っておくが、山を舐めるなよ? 天候が悪ければそれだけで命取りになるんだ。あんたは兵隊さんで強いのかもしれないが、それとこれとは別の話だ。悪いことは言わない。大人しく雨が収まるまでここで待ちな」

「それは……できません! 一刻も早く王都に向かわなければ……!」

 悲愴な面持ちでファティアが言う。エルドはそれを見て考え込み、そして口を開く。

「……何の用だか知らんが。下手したら死ぬぞ? 命を懸けるほどの用件なのか?」

「はい。命に代えても、やり遂げなければならない事です」

「命ねえ……よく分からんが、その大事そうに抱えている何かを届けに行くとかか?」

「えっ、いや……あの……」

「まあいい。大体わかったよ。だが……何かは知らんが所詮は物だろう? そんなもん捨てっちまえよ! 命を懸けるなんてばかばかしい」

「そういうわけにはいきません! 私は……頼まれたんです! これを王都に持っていくようにと……! けして途中で投げ出すようなことはできません!」

 手にした雑嚢をきつく結び、決意したようにファティアが言う。

「……お金を持っていなかったことについては、すいません。謝ります。結果的にあなたをだましてしまった……しかし、必ず約束のお金を持ってまたあなたの所に伺います。今は……急がねばならないのです。では、私はこれで……」

 目礼し、ファティアは槍を握りしめて洞窟の外へと歩いていく。

「おいおい! 聞いてなかったのか? そんな恰好で外に出たら遭難するだけだぞ!」

「倒れる前に山を抜けます。それなら……きっと大丈夫なはずです!」

「そんな無茶な……おい――」

 エルドの忠告を聞かず、ファティアは雨の中に走り出していった。

「……行っちまったよ。くそ、金はもらえないしびしょ濡れだし……俺まで冷えてきちまったぜ」

 不意に、エルドが左腕を胸の高さにまで上げる。エルドはその手に視線を移す。

 左手の手の甲が不自然に動いていた。まるで、皮膚の下で虫が蠢くように。

「……そこまでやる義理はねえよ。死のうがどうなろうが知ったこっちゃないね」

 誰かと会話するようにエルドが呟く。しかし、洞窟の中には誰もいない。エルド一人だけだ。

「くそ、お前にまで説教されるとはな。やれやれ、寝覚めが悪くなりそうだぜ……」

 左腕を下ろし、エルドは洞窟の入口へと歩いていく。勢いよく降り続く雨は氷のように冷たく、吹き荒れる風はまっすぐ歩くことさえ困難なほどだった。

 その雨を眺めながら、エルドは大きなため息をついた。


 ファティアは雨の中を走り続けていた。冷たい雨粒が容赦なく吹きつけ、その小さな体は吹き飛ばされそうになる。それでもファティアは止まることはせず、ただ進み続けた。

「寒い……まさかこんなに冷えてくるなんて……」

 ファティアはかじかんだ手を口元に近づけ吐息で暖める。体の奥は走っていて温かいはずなのだが、手足の先は冷え切っていた。手の指には感覚がなく、槍を掴む手は固まって動かない。足先もそうだった。走ってこそいるが、足の先には力が入らない。

 遭難する。エルドの言葉が脳裏に蘇り、ファティアは判断を間違ったかと思った。

 しかし、あの洞窟で雨が止むまで待って夜明かしをしている時間はない。一刻も早く宝具、アクアクリスタルを王都にもっていかなければならないのだ。それが教官のティオイラとの約束だ。

 自分を信じて託してくれた。だから、どのような困難にも負けずにやり遂げなければならない。強い使命感がファティアを突き動かしていた。

 だが意志とは裏腹に、その体はいう事を聞かなくなってくる。強い寒さが、ファティアから体力を奪い命を脅かしていた。

「少し……どこかで休まないと。このままじゃ本当に遭難しちゃう……」

 エルドの警告を思い出しながら、ファティアは冷たい風雨から身を隠せそうな場所を探す。周囲は岩山のごつごつとした地形が続いていて、木は一本も生えていない。木陰があればと思ったが、それは無理そうだった。では洞窟があるかと探しながら走るが、そうそう都合よく隠れられそうな場所は見つからなかった。

 あと少し走れば、きっと見つかる……。そう思いながら雨の中を走り続ける。いつしか王都に向かうよりも休むことを第一に考えるようになっていたが、朦朧としてきた頭では正常な思考が難しくなってきた。

「あれは……」

 岩肌から岩が張り出し奥の方は窪んで、ひさしのようになっている場所を見つけた。そこの下ならばいくらか雨も凌げそうだった。ファティアは冷え切った体を何とか動かし、その岩陰に近づいていく。

 岩の下にしゃがみ込むと、風は大して変わらないが、陰になって雨はほとんど体にかからなくなった。それだけでも体への負担は減り、ファティアはほっと息をついた。

 冷え切った体を温めるために膝を抱いて体を丸める。だが、冷たい指先はまるで死人の手のように冷たく、そのまま待っていても温かくなるようには思えなかった。両手をこすり合わせるが、それでも温かくはならない。何度も息を吐きかけて温めるが、それでようやく感覚が戻り始めた。

「体力を回復させないと……」

 雑嚢の中から油紙に包まれた携行糧食を取り出す。砂糖たっぷりのビスケット生地を焼きしめたものだった。まるで石のように硬いそれを、歯で削り取るようにしながら口に入れていく。強い甘みが口の中に広がり、それだけで疲労が回復していくようだった。

「ここは山の何合目かしら? エルドさんに聞いておけばよかった……」

 気が急いていたことと、約束のお金を持ち合わせていなかったばつの悪さから、いそいで洞窟から飛び出してしまった。せめてもっとメフィル山脈を抜けるまでの山道の状況を聞いておくべきだったと、今更ながらに思う。

 しかし、今となっては後の祭りだ。一人で、自分の力だけで進んでいくしかない。

 雨は降り続く。硬いパンを食べ終わるのに少し時間がかかったが、雨は降り止む様子はない。エルドが言ったように明日まで降り続きそうだった。

「少しだけ……少しだけ眠ろう。そうしたらまた走って……早く王都に行かないと……」

 ファティアは目を瞑り、体を休めることにした。三十分だけ眠るつもりだったが、冷え切った体は意に反し深い眠りに落ちていった。

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