第29話

 目を開けると、本殿だった。

 重い体は黒無垢のせいだと気づき、両腕で体を持ち上げる。

 辺りを見渡すが、何もない。

 起き上がった反動で、瞳から涙が一筋流れ落ちた。

 そうだ、夢を見ていた。

 白威の夢。

 良い夢だった。

 あれが現実だったなら、どれほどいいか。

 静かな本殿に一人。

 汚れている床をぼーっと眺め、何にためにここへ来たか思い出す。

 結婚するために来た。

 けれど、相手はいない。

 いつ来るのか、来ないのか。分からない。

 やっぱり、白蛇の話は嘘だったのか。

 でも、日記があった。

 ぐるぐる考えてみるが、夢の中の白威が優子の思考を引っ張る。暫くは、何も考えたくない。白威の夢に浸っていたい。

 俯きながらぼーっとしていると、視界に白いものが映った。

 何だろうかと、その先を視線が追う。


「…優子」


 すぐ傍に、会いたくて会いたくて仕方がない人が立っていた。

 どうしてここに。

 瞬きすら忘れていると、手を引かれて立ち上がる。

 夢の中で何度も会った。

 ずっと一緒に居たいと思っていた。

 叶うことはないのだと思っていた。

 恋焦がれた人が、そこにいた。


「結婚、しよう」


 白威は柔和な瞳で、優子を見下ろしていた。


「…白威?」

「うん」


 夢の内容ははっきりと覚えている。

 過去一番、鮮明に覚えている。

 確かに結婚しようと白威は言った。それに優子は頷いた。そこで夢は途切れた。


「…白威?」

「うん」

「白威?」

「うん」

「…白威?」

「うん」


 何度も何度も名前を呼んで確認する。

 夢の中より、表情が分かりやすい。

 嬉しそうな、愛おしそうな、幸せそうな、そんな表情で笑っている。

 こんな顔、初めて見た。


「…何て言ったの?」

「結婚、しよう」

「…結婚?」

「うん」

「な、なんで?」


 二重結婚など、できるのだろうか。

 相手は人ではなく蛇だ。人の法など通用しないとは思うが、蛇の世界でも一妻多夫は善しとされないだろう。

 優子が返答に困っていると、白威は優子の前髪を整えながら言った。


「僕と、結婚する話だったでしょ」

「…でも、私、結婚するし」

「だから、僕と」

「いや、白蛇様と」

「だから、僕」

「…?」

「黒髪と結婚するの、僕」

「は、は?」

「僕、白蛇様」

「は!?」


 自分を指さす白威に、優子は疑問符を頭の上に浮かべる。

 白蛇様は、優子が結婚する相手だ。

 黒髪は、そういう運命なのだ。

 その白蛇様が、白威。

 つまり、優子は白威と結婚する運命。


「ん、うん?いや、だから、私は祀られてる白蛇の嫁になるんだってば!」

「だから、僕」

「いや、姿形も知らない白蛇なんだってば!」

「だから、僕」

「...?」


 状況が把握できない優子は、頭の中を整理しようと身動きせずじっと考える。

 突然固まった優子を不思議に思いつつも、状況を飲み込もうとしているのを察し、優子の顔に触れたり、前髪を触ったり、抱きしめたり、白威は好き放題していた。


 優子が生まれたその時から、白威と結婚する運命だった。

 白威は幼い頃、優子の夢に現れた。

 そこからずっと、夢に現れ続けていた。

 それは白威が白蛇の使者ではなく、本人だったから。結婚相手の黒髪に会いに来ていたのだ。

 最初から、白威は知っていた。優子が結婚相手だと。黒髪だから、間違えることはない。

 そんな白威に、優子は何度も結婚する予定の白蛇のことを聞いた。変態だと罵ったこともある。それは、白威が使者だと思い込んでいたからだ。

 つまり優子は、結婚相手本人に罵倒していた。

 頭の中で整理がつくと、優子は白威を見上げる。

 終わったのか、と白威は腕の中にいる優子を見下ろす。


「うっ」

「どうして最初に言ってくれなかったのよおおお!」


 白威の胸倉を掴み、揺さぶる。されるがままの白威は「ごめん」と言うも、納得できない優子は揺さぶり続けた。


「最初に言ってくれてたら、私はこんなに悩むことはなかったのに!」

「ごめん」

「凄く考えて、悩んでたのに!!」

「ごめん」

「先に言いなさいよ、そういうことは!!」

「ごめん」

「私がどれだけ悩んだと思ってるの!?」

「ごめん」


 今度は違う涙が瞳からあふれた。


「優子、泣き虫」

「うるさいわね!誰のせいよ!」

「…僕?」

「どうして何も言わなかったの!?私の反応を見て楽しんでたんでしょ!最低!ていうか、何で疑問形なのよ。あんたのせいに決まってるでしょ、この馬鹿!」


 ぽかぽかと胸元を叩き、白威にダメージを負わせようとするがそんなことできるはずもなく、力なく叩く優子の拳を握り、白威は再度引き寄せる。


「私を見て笑ってたんでしょ、楽しんでたんでしょ。本当に最低」

「違う」

「じゃあ何よ、言ってみなさいよ。私が納得するような言い訳をね」

「…優子だって」

「何よ、文句なの?」


 優子に顔を見られないよう、ぎゅっと頭を固定して抱きしめる。


「ちょ、離せ!」

「…優子、名前教えてくれなかった。それに、名前、読んでくれなかった」

「…そ、そうだっけ?」

「そう。だから、つい、意地悪した」


 優子に名前を呼ばれたのは、今日が初めてだ。

 ずっと、あんたと呼ばれていた。

 名前を呼んでほしいと思っていたが、そんなことを言うとまた優子に揶揄われると思い、反抗の意志を込めて正体を隠した。

 罪悪感がないこともなかったが、優子の本心を知ることができたので、悪くはなかった。

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