乱視で見る三日月は…

勢良希雄

乱視で見る三日月は…

 三か月の間に、退職と離婚を経験した。

 賃貸マンションは解約し、家財もできるだけかねに換えて、あとはゴミにした。

 空っぽになった部屋は、自分の心そのものだった。

 住み慣れた町を背に歩き始める。煩わしい日常から解き放たれたのではあるが、安堵というような優しい気持ちはなく、と言って思い詰めた気持ちもない。

 からのペットボトルが風に転がるような虚無感。満たされていた過去も、消費される過程も、いまやどうでもよい。



 僕には歌をつくるという趣味があった。若いころには、賞を取ったこともある。会社勤めをしながらも、趣味以上の情熱で創作活動をしていた。イラストや文章もかくが、最も時間を使ったのは音楽である。

 ここ二年は深夜にインターネットで同じ趣味の人たちと交流していた。妻も子どもも、会社の同僚も僕のそんな姿を知らない。会社と家を往復しながらも、シンガーソングライターとして活躍する自分を思い描いていた。

 それが支えだったとも言えるが、普通に考えれば妄想でしかない。



 わずかな思い出の品をリュック一つに、あてのない旅に出た。普通列車で適当な町でり、小さな旅館を探しては安く泊まる。夜行バスで眠る夜もあった。

 創作意欲がくすぐられる景色や人情にも触れたが、歌は生まれてこなかった。

 節約しながら、進めてきた旅だが、そろそろ所持金が底をついてきた。

 からのペットボトルは満たされることはなく、というか雫ほどの得るものもなかった。このままホームレスになるのか。元の町に戻り、知り合いを頼って職を探すのか。入口も出口も見つけられないまま。



 名も知らぬ駅にり立った。すでに深夜。空に三日月が霞んで見える。

 夜を越せそうな店を探す。シャッターの閉まった店が並ぶ小さな駅前商店街、場末にスタンドらしい明かりが見えた。ほかにはいれそうな場所もない。

 近づくと店名がネオンで書かれている。

 「みかづき」。

 こんな町のこんな場所には不釣合ふつりあいな、洗練された店構えだった。

 僕は「みかづき」という曲を書いたことがある。今の自分が恥ずかしいが、自分の成長を鼓舞する歌だった。

 財布に一万円札が一枚あることを確認、最後の贅沢。



 カランコロン。

 店のドアに吊るされたカウベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」

 三十代後半と思われるやさしそうなママ。美人である。ほかに客はいない。

「お待ちしておりました」

「初めてですけど」

「ふふ、初めてのあなたをお待ちしておりました」

「はは、変なの」

「今夜の飲み物は?」

 カウンターの席に腰を掛けると、ママは親しげに微笑みかけた。

 なんだか、行きつけの店に来たような気持ちになる。

「そうですね。僕に合いそうなカクテルをお願いします」

「分かりました」

 黒いTシャツにデニムの白いミニスカート。普段着のような軽装だが、女性的な曲線に見惚みとれてしまう。

「エッチ!」

「あ、ごめんなさい」

「ふふ」

 誘惑とも思える態度、久しぶりに生きている感じを覚えた。

 カクテルの道具を取るため、ママは後ろを向いた。背中にみかづきの絵がいてある。

「ママ、その絵…」

 僕は目をうたがった。

「ああ、みかづきですか。これ、ネットで知り合ったかたにいただいた絵を、Tシャツにプリントしたんですよ」

「それ、僕の絵…」

 まぎれもなく。「みかづき」という曲をネットにアップするとき、ジャケット画として自分でいた絵。そういえば、音楽のサイトで知り合ったネットフレンドにメールでデータを送ったことがある。

 ママも振り返り、キョトンとした目で僕を見た。

「キオさん…」

「サラさん?」

 驚きの沈黙。目が合う。すぐに視線を解いたが、運命を感じるには十分じゅうぶんな時間だった。

 お互いのハンドルネームを確認した。コメント欄やSNSのメッセージでは何度も言葉を交わしている。現実のお互いを詮索することはなかった。

 気を取り直したようにママが言った。

「そう。それは不思議。じゃ、特別なカクテル作るね」

「ありがと。よろしく」

 本当に旧知の感覚になった。共通のネット仲間の話などをして、笑い合った。



 シェイカーで混ぜ合わされたカクテルがグラスに注がれた。紺色の液体を炭酸がのぼる。仕上げに切ったレモンをふちにはさんだ。

「どうぞ」

 差し出すママの手に僕の手が触れた。また、目が合った。ママの切なげな吐息が聞こえた。

「このカクテルの名前は?」

夢曹達ゆめソーダ。濃紺の空に三日月を浮かべてみました」

「サラさんらしい。この色は何で出したの」

「内緒。媚薬だから」

「媚薬? 僕を口説く気?」

「お店、閉めちゃおうかな」

 息苦しいほどの切なさに見舞われる。

 僕は、媚薬に口をつけた。

 あっと言う間に酔いが回る。



 カランコロン。

 なぜか、僕が入ったドアとは反対側の奥にもドアがあり、白髪の男が現れた。

「いらっしゃいませ。お久しぶりですね」

「ああ、ごめんごめん」

 カウンターの端の席に座り。僕に視線を送って微笑んだ。

「お邪魔だったようだね」

「いえ」

「ママ、この人と同じのを作ってほしい」

 ママは、落ち着いた声で「承知しました」と言い、カクテルを作りだした。



「たばこ吸ってもいいかい」

「ああ、どうぞ」

「ありがとう」

 ポケットから英語のパッケージのたばこを取り出して、高そうなライターで火を点け、吸い込んで煙を天井に向かって吐き出した。

 視線の先に天窓。

「今夜は綺麗な三日月だ」

 僕には霞んで見えたが…。

 ママはBGMを準備している。聞き覚えのあるイントロ。

 僕の作った歌、「みかづき」。

 キーが違う。歌が始まる。歌詞も違う。この声はだれ

「ママの声はエロいよな」

 男がつぶやいた。

「エロいだなんて」

「これ、サラさんの声?」

 僕は聞いた。

「そうよ。私の声」

 薄い煙の向こうから男が付け加えた。

「そして、これはそこの新顔さんがつくった歌」

「どうしてそれを?」

 ママは理由を知っている様子。男は答えずに言った。

「新顔さん、君には今夜の三日月がバナナの房みたいに見えただろ」

「どういうこと?」

 ママにも意味が分からないようだ。



「あ…」

 逆に僕には分かった。

「三日月がバナナの房…見えます」

「え、なになに。教えてよ」

「乱視…」

「乱視で見る三日月は綺麗だよな」

 タバコの火を落とし、カクテルを一気に飲み干す。

 レモンを月に翳したあと、口に入れて酸っぱい顔をした。

「相変わらずね」

「初心に戻れたよ」

 男は立ち上がった。

「じゃ、帰るわ。ママ、こいつを頼むよ」

 ママは恥ずかしそうに頷いた。

 男は、僕に親しみを込めた表情をくれて、奥のドアから出て行った。

 カランコロン。



「あの人、音楽プロデューサーなのよ。私、スカウトされた」

 邪推かもしれないが、その言葉に男女の関係を感じた。

「妬かなくていいのよ」

「え?」

 男が忘れたライターを、僕に手渡す。

「これはあなたのよ」

 意味が分からない。

「さっきの人、あなたよ」


 媚薬が効いてきたのか、なんとなく事態を受け入れる。

「あの人は僕なんだ」

「そう、私の大切な人…」

 歌詞が違う僕の歌が流れる。僕の声がハモりだした。

「サラさんはだれ?」

「誰かしら…お店、閉めるね」

 ドアに「クローズド」の札をかけて、鍵をかけた。明かりを消すと天窓に月が映る。

 女は男の隣に座り、寄り添った。

「ここから見る月は永遠に三日月なのよ」

 僕の時間は止まったんだ。

 女は男を抱きしめた。

 男は女の胸に顔をうずめる。

「一緒に夢を叶えましょう…」

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乱視で見る三日月は… 勢良希雄 @serakio

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