第116話:光のいない日々 その1

 ――8月21日。


 時間が経つのは早いもので、あれだけ長かった夏休みの残り十日。


 その日、俺はアメリカへと旅立つ光を見送るために空港を訪れていた。


「ごめんね。わざわざ見送りに来てくれて」

「いえ、どうせ家にいてもやることがなかったんで……それに……」


 光のお母さんと話しながら自分の真横に視線を向けると――


「三週間……三週間かぁ……」


 俺の腕に抱きついた光が悲壮感に満ちた声を漏らしていた。


 もちろん、言葉にこそしていないけどそれは俺も同じ気持ちだった。


 今日から大会が終わるまでの三週間、俺たちは離れ離れになってしまう。


「やっぱり、大会直前まで延期するのってダメ……?」

「延期って……ダメに決まってるでしょ。もう飛行機も取って、向こうで泊まる場所も借りてるんだから……」


 この期に及んで子供じみたわがままを言う光をお母さんが諌める。


 大会自体は9月の頭に行われるが、前入りして向こうの有名なスポーツアカデミーでしばらく練習する期間を取っているらしい。


 というのも日野さんによると、光は海外遠征がめちゃくちゃ苦手らしい。


 基本がその時々の感情で生きている気分屋なので、環境の大きな変化がそのままパフォーマンスの乱調に繋がるらしい。


 だから今回は現地で過ごす時間を長く取って、向こうで滞在する住居まで借りているとのことだ。


 プロデビューを目前に控えて、ジュニア最後の大会で国外にも大きく名前を売ろうというお母さんのしたたかさと覚悟を感じる。


「ちゃんと毎日電話するから」

「でも、時差があるから時間が合わないかもしれないし……」

「大丈夫だって。こっちは休みで時間には融通利くんだから」

「そうそう、貴方の練習が終わった頃には日本こつちはお昼前くらいでしょ? その時間なら多少の長電話くらいは目を瞑ってあげるから、いつまでもうだうだ言わないの」


 ゴネ続ける光をお母さんと一緒になって宥める。


 光が滞在するニューヨークとの時差は十四時間と約半日くらいのズレがある。


「電話だけで我慢できるかなぁ……」

「なんならビデオ通話もあるし」

「むぅ……顔が見れたらそれはそれで逆に寂しくなっちゃうかも……」


 なかなか納得してくれない光に、困ったなと頭を搔いていると――


「そうだ! 黎也くんも一緒に来ない!?」


 目を輝かせて、ものすごい名案を思いついたとばかりに言われた。


「いや、俺が九月から普通に学校があるから……それにそもそもパスポートも持ってないし……」

「あっ、そっか……でも、無くてもお願いすればなんとかなったりしないかな?」

「なるわけないでしょ。これ以上、彼を困らせるようなこと言わないの」

「だってぇ……」

「だって、じゃないの。先週まで散々一緒にいたんだから三週間くらい我慢できるでしょ? 何も一生会えなくなるわけじゃないんだから……」


 お母さんの言葉に、流石の光も返す言葉を失って黙り込んでしまう。


 行く前からこれなら、本当に向こうで調子を大きく崩してしまうそうだ。


 そんな既に雲行きが怪しい様子の娘に、お母さんも頭を抱えている。


「あっ、そういえば私! 買い忘れたものがあったんだった!」


 俺の顔を見たお母さんが、不意に何かを思いついたように言う。


「え? じゃあ、俺が買っ――」

「ううん! 大丈夫! 自分で買ってくるから二人で荷物見てもらってもいい?」

「も、もちろんいいですけど……」

「じゃあ、よろしくね。五分……いや、十分くらいかかると思うから」


 そう言ってお母さんは手荷物だけを持ってコンビニの方へと歩いていった。


 大きなトランクケースが二つと、俺たちだけがその場に残される。


 気を利かせてくれた……というよりは、二人きりの方が解決しやすいと判断したんだろう。


「ねえ、三週間だよ? 三週間……」


 二人きりになった途端、腕だけで我慢していた光が胴の方にギュッとしがみついてきた。


 一時的とはいえ、物理的に地球半周分の距離も離れ離れになるのが耐え難いと思っている感情がダイレクトに伝わってくる。


「ん、まあ確かに長いけど……前から分かってたことだし、お母さんも言ってた通り一生会えなくなるわけじゃないんだから」

「それはそうだけどぉ……」

「だけど?」

「なんか、黎也くんの方は結構余裕そうなのがちょっとムカつくぅ……」


 俺の顔をジッと見上げながら、光が言葉通りやや不満げに言う。


「いやいや、俺も三週間も会えないのは流石に寂しいと思ってるから」

「ほんとにぃ……?」

「本当に。めちゃくちゃ寂しい」


 ちょっと潤んだ目を、真っ直ぐに見据えながら端的に答える。


 余裕そうに見えるのは、俺までこうなったら収拾がつかなくなるからだ。


 本当は俺だって三週間は流石に長いと思ってるし、正直できることなら着いていきたいとも思っている。


 でも、それが現実的に無理なのも分かっているから無理やり我慢しているだけだ。


「どのくらい寂しい?」

「めちゃくちゃ。多分、見た目の十倍くらいは」

「もっと具体的に」

「具体的……ん~……今ならお母さんもいないし、最後にキスできるんじゃないかなって思ってるくらい」

「え~……そうなの~……?」


 俺の言葉に光がからかうように、けれど若干嬉しそうに言う。


「うん。でも人目もあるし、光がいいならだけど」

「も~……仕方ないなぁ……。じゃあ、こっそりね?」


 光に手を引かれて柱の影に移動し、人目につかないように隠れてキスをした。


 別れを惜しむように、それを何度か繰り返している間にお母さんが戻ってくる。


 すっかり上機嫌になった娘の姿を見て、何があったのかを察したのか『流石ね』と無言の称賛が送られた。


 自分でも彼女の扱いが随分と上手くなってきたなと思う。


 そうして、いよいよ別れの時間が訪れる


「じゃあ、気をつけて……目一杯楽しんできて」

「うん! 向こうに着いたらすぐ連絡するね!」


 そう言って、光は大きく手を振りながら保安検査場へと歩いていく。


 俺もその場で手を振り続けるが、一分もしない内にその姿は見えなくなってしまった。


「三週間かぁ……」


 チェックイン窓口の前で一人残され、ポツリと呟く。


 今日から三週間も光に会えない。触れられない。


 別れて始めて、その事実が重くのしかかってくる。


 出会ってからの数ヶ月、俺の生活はずっと彼女との時間を中心に回っていた。


 それが急になくなってしまうと、心にポカンと大きな穴が空いたような心地だ。


「……とりあえず、帰るか」


 とはいえ、もう光は行ってしまった。


 俺にできるのは、この寂しさに三週間耐えることだけだ。


 そう考えて、踵を返そうとしたところでポケットの中からPINEの通知音が鳴った。


「ん? 何だろ」


 早速、寂しくなった光が何か送ってきたんだろうかと心を弾ませながら確認すると――


『この前のメンバーで遊んでるんだけど影山も来ねぇ?』


 先日、海で一緒だった男子の一人――大場くんからそんなメッセージが届いていた。

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