4.毒入りのパンと毒入りのスープ
「入るぞ」
城の奥、扉の向こう。赤茶けた髪はまた扉に背を向けていて、ちょうど夕食を手にしているところだった。
「今から飯か」
「そうだよ。君は前もこの時間に来たね」
「そうだな」
ではあの時と同じようにと、また皿の上にあったパンを手にする。相変わらず硬いのかと思えば、今日のものはそうでもない。
何かあったのかと、思わず柔らかいパンをまじまじと見てしまった。
艶やかな焼き色、美しい仕上がり、程良い柔らかさ。あの時がいつもと違ったのか、それとも今日がおかしいのか。
まあいいかと、右手のパンを一口
「待って、食べないで」
「あ?」
その言葉に、いざ口に入れようとしていた手を止める。丸
「……食べたら、死ぬよ」
リシリオはじっと皿を見て、顔を上げない。どうなっているのかとその皿を見て見れば、銀製の皿は一部分が変色して黒くなっていた。
パンだけかとざっと見てみれば、スープに浸したらしい銀製のスプーンも黒く変色している。
毒は銀を変色させるから銀食器は重宝されるのだと、そういう話を聞いたことがある。
これは、つまり。
「毒。何が入ってるか、知らないけど」
「心当たりは?」
くすんだ
「……弟」
「異母か?」
そんな話はついぞ聞いたことがない。職業柄アコニは様々な噂話を手にしていて、その中で王の噂はいくらでも出てくる。
けれど、その家族のことなど父のことを除いて一切が消えているのだ。
それは、誰かが意図的に隠したものか。それともそんなものには意味がないと、人々から捨て置かれているのか、どちらなのだろう。
口さがない人々が話題に上らせるのは、ただ王という記号だけ。
「同腹。もっとも、私も弟も、母の顔なんて知らないけれど」
まただ。また。この諦めの顔だ。抗うことも何一つせずに、全てをあるがままに受け入れようとする。
浮かんでは消える、諦観の色。
アコニはこんなにも足掻いているのに。せめて自由であろうと足掻いているのに。せめて孤独な王様を生かそうとしているのに。それなのに。リシリオを見ていると自分のしているがひどく無意味に思えて、アコニはどうしようもなく苦しくなる。
生まれて消えた感情に、
アコニが何か口を挟むようなことではない。アコニが何を思おうと、リシリオとアコニの間にあるのは依頼人と雇われた傭兵という関係性だけだ。
線を引け、立ち入るな、それを言い聞かせなければならないほどに、揺れる、揺れ続ける。あまりにも、諦めてしまっているせいか。それともこの、アコニのどうしようもない思いのせいか。
「分かってるのに、あんたは何もしないのか」
「いいんだ、それで」
唇を噛んで、何も言えないようにした。口を開けば何か言葉が出てしまいそうで、だからこそ物理的に口を閉ざす。
「シヴァンは、私が嫌いなんだ」
どうしようもなく苦しくて、泣きそうで、けれどこんなところでそれを見せるわけにはいかない。
孤独な王様。あなたが孤独でなければ、何も思わないのに。あなたのやさしさを誰かが知って、それを癒していたのなら、アコニは何もなかったふりをして依頼を断ったのに。
かちりと指先だけで剣の
「アコニ?」
「これ用意したの、まだいるか」
「どうするつもり?」
「本当のところを、吐かせる。何のために俺らがいるんだ、使えよ」
殺しはしない。そんなことをしては意味がない。
口を閉ざそうというのならば、それを開きたくなるほどの苦痛を。その方法を、知っている。人はその方法に眉を顰めるのかもしれないが、それを必要とする人間がいるからこそ成り立っているものもある。
リシリオの
「いいよ、そんなの」
違う。そんな答えは聞きたくない。
殺されそうになったのは誰だ。その命が終わりそうになったのは、誰だ。その変色した銀の皿が何よりの証拠だというのに、どうして必要ないと言えるのだ。
終わりを定めていると言うのなら、せめて決めたその終わり以外での死を怒るくらいのことはしてくれないのか。
「……あんた、死ぬのが怖くないのか」
苦しい。ただ、ただ、苦しい。
全てを諦めた顔をするリシリオが、苦しい。彼を殺そうとした彼の弟には、この城を取り巻く全てには、腹が立つ。
「俺なら、どうしようもなく死ぬのは怖い」
口を閉ざしていた努力は水の泡となり、とうとう言葉が滑り落ちてしまった。
頭の一部は冷静なもので、そうしてアコニ自身を
「俺の思考も心も何もかも、この世から消えて無くなるのが怖い!」
死にたくない、消えたくない。意思が消える、思考が消える、生きていた証が消える。己の心も何もかも、消えてしまう。確かにそこにあったのに、確かにそこで意思を持ちながら生きていたのに。
体の停止よりも、心の停止が怖い。消えてしまった心は何処へ行くのだ。体はそこに残るのだとしても、何も残らない心はどうなる。
怖い。何よりも、怖い。死にたくない。死ぬのは怖い。消えたくない、まだここにいたい。そんな風にアコニはみっともなく生きることにしがみついているのに、リシリオはどうして諦められる。
思考も思想も人それぞれで、誰かがねじ曲げることなど出来はしない。受け入れているのならば誰が何を言うようなものではない。それくらいのことは分かっているけれど、理解と納得は別のものだ。
死んだ人間は一体、どこへ行く。天の国へ、地の獄へ、
人は死後の世界を考えてきた。生きていた人間には何が宿るのかと考えて魂という言葉も生まれた。その魂はいつか巡ってまた世界へやってくる、そんな考えもある。
けれど、誰も知らない。死んで戻ってきた人間など、この世にはどこにもいないのだから。会いたい逢いたいと願う残された者の願望が、亡霊だ幽霊だ輪廻だ前世だ、そんなものを生んだのだろうか。
怖い、恐い。
しにたくない。
人間は
だからこそ、死にたくないと思う方がみっともなく見えるのか。けれどみっともなくても、どれだけ無様でも、アコニは死にたくない。
「あんたは、それでいいのかよ! 未練は、執着は!」
世界から自分がいなくなる。自分という存在があった場所に、穴が開く。
そこはどうなるのか。多くの人は最初からそこに何もなかったかのように生きていく。
自分の意思も感情も消える、この世界から。この現から。それが、どうしようもなく怖い。何もなくなるのだ。何も思えなくなるのだ。消えてなくなる、消えてしまう。
いなくなった自分は、どこへ行く。どこへと、消える。この心は、感情は、確かにあったはずのそれらは、どこに消える。
何も思わなくなって感じられなくなって、そうしてもう自分はどこにもいない。もう二度と自分は世界に現れない。覚えていてくれるはずの誰かもみんなみんないなくなって、完全に忘れ去られていく。
自分が消えて、忘れ去られて。そうして世界から、完全に消え去るのだ。
それが、どうしようもなく怖かった。
臆病だろうか。
考えすぎなのだろうか。
そんな風に考えることは、間違いなのだろうか。怖がって怯えて、それは正しいことと間違っていることと、どちらになるのだろう。
それとも、そう分けてしまおうということが間違いなのか。これもまた、人の思想なのだから。
怖い、恐い、死にたくない。考えただけで胸が苦しくて涙が出そうになって。
それを初めて考えて泣いたのは、一体いつのことだっただろうか。泣いて泣いて、眠ることすら怖くなって、けれども縋り付く先などなくて丸くなって自分を抱えた。
人間には平等に死が訪れる。けれどその平等なものが、アコニは怖くて仕方がない。
同じことを考えたことのある人は、いるのだろうか。
死にたくないと願う人間がいれば、死にたいと願う人間もいる。かといって死にたいと願う人間が、死にたくないと願う人間に命を与えられるわけでもない。
理不尽で、不平等。そんな世界の中で、生まれた、死んだ。いつかは終わりの訪れる命。有限の道を生まれた瞬間から歩いて行くのが、生き物の摂理。
終わりのないものはない。いつかは終わる。形のあるものが形を失って壊れるように。
「……悪い。俺、どうかしてる」
「いいんだよ」
熱くなった頭を落ち着けるように、ゆっくりと息を吸っては吐いてを繰り返す。
どうしようもない、臆病者。理不尽な世界で生にしがみつく、無様な人間。お前だって誰かの命を刈り取ったくせにと、声がする。
最初に殺した人が、アコニの足を絡め取る。あの人を殺してしまったから、アコニは他の誰を殺すのも手を
まるで死ぬことを受け入れているリシリオが理解できないからこそ、苦しい。自分はそんな風になれなくて、自分がとても無様に思えて。
「そうだね……できることなら、死にたくないなあ」
「死んでも良いのなら、このパンを食べておとなしく死んでいると思うよ」
黒く変色した、銀の皿。初めてではないのだろう、こんな風に命を狙われることは。
誰かが自分の死を望んでいる。それが平気なはずがない。それが身内であれば、尚更に。
「なら、とにかくデューに言って……」
「大丈夫。多分下げに来るから」
どうしてそんなにも、落ち着いていられるのだろう。アコニならばきっと、落ち着いてはいられない。怒鳴り散らして、問い詰めて、きっとそれでも落ち着かないのに。
「確認、来ると思うよ。死んでいるかどうか」
他人事のようだ。それが自分が対象ではないかのように、リシリオは言う。
同腹の弟に命を狙われて、それを諦めて。終わりを待っているから、それでも良いのだろうか。きっとその終わりは、彼の望むものではないだろうに。
「変な話だよな。俺はデューと仲良くやってるんだ」
「副団長、だよね?」
一度、デューと数名の団員をリシリオに引き合わせた。アコニと交代する要員として見た目では分からないだろうが、誰にするかをリシリオに選んでもらうために。彼が選んだのはデューと、それからもう一人。
デューは今日もまた、酒瓶を片手にどこかで飲んでいるのだろうか。
「俺、養子なんだよ。で、俺の養父の異母弟がデュー」
だから、血の繋がりは一滴もない。まずアコニが養子であるから当然だけれども、もしもアコニが本当の子供だったとしても、その血の繋がりはひどく希薄なものだっただろう。
それでも、疎まれたことはない。それどころか、他の誰かが何かを言おうものなら、誰が怒るよりも先にデューが怒ってくれた。そこはアコニ自身が怒るところだろうに、彼が怒るから怒る気も削がれてしまう。
「一番上なんてやってられるか、酒飲んでられないって、俺に団長押し付けたんだ」
養子になってからは、嫌な思い出はほとんどない。嫌な思い出というものだって、酔っ払ったデューに酒樽に落とされただとか、そんな仕様もないものばかりで笑い話でしかない。
血が繋がらない人間が、そうして笑い合えるのに。わかり合えるのに。血が繋がっているからこそ、憎むものなのか。
「俺は、血が繋がらなくても親父もデューもよくしてくれるのにさ」
血の繋がりとは、何か。それほどまでに、重要視するものか。何年もずっと一緒にいても、それでも理解できないものか。
「私は同腹の弟から命を狙われる身、か」
「そ。変な話だ」
血の繋がりはなくて、それでも一緒に過ごした。その時間が同腹の兄弟ならばもっと長いはずで、それならば穏やかな関係は築けるはずなのに。
「人を蹴落とすことが当たり前だから、私たちは」
「ふうん」
王族、王様。
それから、騎士、貴族。
民衆の上に立つ人がいる、それがこのイアグレイスの仕組みだ。人々はそれを当たり前のように受け入れて、疑問など抱こうともしない。
多分誰もそんなことを、考えないのだ。
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