開花の毒

千崎 翔鶴

序 死を招く金雀枝と孤独な王様

1.あなたは孤独ですか

 思い出すのは、真っ赤な夢。けれども既にそれは自分の一部となっていて、嫌悪も憎悪も吐き気も催すことはない。目を覚まして、まだ自分が真っ赤であるような気がして、けれどもそれは気のせいだと手の平を見て鼻で笑う。

 赤い、あかい、そんな夢。所詮眠っている間のことで、今更何も思わない。過ぎ去ったものを思い悩んで立ち止まったところで、現実は何も変わらないと知っていた。既に起きてしまったことを変えることなどできるはずもなく、それが心の傷になっていようが何だろうが最早関係のないことだ。

 果たしてそれは己の傷となっているのか、そんなことは知らない。考えたことがない。あれは起きるべくして起きたことであり、どうせ意思など介在していないのだ。

 やさしい思い出は、ひとつだけ。きらきらした宝石のような思い出は、けれど真っ赤な手で触れれば汚れてしまいそうで、眺めるだけでそっとそのまましまい込まれる。

 くだらない。

 そんなことを考えて何になると、笑い飛ばした。しんと静まり返った石造りの廊下に、その音だけがやけに響く。堅いかかとで廊下を踏み付ける度にかつりかつりと音がしているというのに、何故か明瞭めいりょうに耳に届いた。


「くだらない」


 立ち止まって、また笑う。それが自嘲じちょうの笑みであることには気付いているが、だからといって他にどんな表情があるだろう。こんなくだらないことを考える自分なんてもの、嘲笑あざわらうに相応しいものではないか。

 視界の半分を、真っ白な髪がおおっている。壁に掛けられた鏡に、顔の半分を前髪で覆い隠した姿が映っている。少し焼けた肌と、虚ろな青紫の瞳。引き結ばれた口元だけに意思はあれども、全体的に薄暗い印象を与えるか。そうるように振る舞っているのだから、当然なのだけれど。

 広い窓から光が差し込んでいるのに、石造りの廊下はやけに冷たく思えた。

 中央には赤い毛足の長い柔らかそうな絨毯じゅうたん、等間隔に置かれた暗い茶の小さな台の上には白亜の花瓶とそこに生けられた色とりどりの花。

 けれどもそれはただ置かれているというだけで、まるで美しいとも思えない。

 これが、この城の本質だろう。高価な絵画や花瓶、装飾品が並ぶ、けれどもそこに価値など見出せない。ただ権力を誇示しているだけで、中身はからっぽ。

 こんなに広い場所なのに、この国の王が住まう場所であるのに、長い廊下の端から端まで見渡しても、いるのはたった一人だけ。まるで誰もいなくなってしまったかのように、息を殺して静まり帰っている。

 誰も、何も、そこにはいない。この先には王がいるはずなのに、誰一人として王を守るようには立っていない。ああこれが王への評価であるのかと、一人笑う。

 笑ってばかりだ。泣いたり怒ったりする必要もないけれど。

 重い扉は、音もなく開いた。まるで殺されても構わないかのように、誰もが王を守らない。王は扉に背を向けて、椅子に座っていた。

 気配を消しているつもりはないのに、王は振り返らない。殺されても構わないのか、それとも単純に気付いていないのか。後者であるのならば、あまりにも愚かだ。

 赤茶けた短髪は動きもしない。きっと服装は豪奢なのだろうけれど、それは椅子の背もたれに隠れてしまって見えなかった。その向こうに見えるテーブルの上には、銀の食器が並んでいる。

 ああ、本当に、孤独な王様だ。昔と何も、変わりなく。


「食事中に失礼するぞ」


 その背後から手を伸ばして、皿に乗っていたロールパンをむんずと掴む。あんぐりと大口を開けてそのパンに食らいついて、振り返った王に笑う。


不味まずいな。あんた、王様なんだろ? もっと美味うまいもの食べてると思ったのに」

「誰だ」


 くすんだ榛色の瞳には、咎めるような色はなかった。傲岸不遜ごうがんふそんであると聞いていたのだが、これでは話が違う。

 王はただ静かに、何者であるかを尋ねただけだ。


「何だよ、依頼してきたのはそっちだろ?」


 笑いながら、ロールパンを胃袋の中に収める。それにしても、不味まずいパンだ。よくもこれを王に出すなと思えるほどに、ぱさついて乾燥している。それともこれはそういうものなのだろうか。

 まず指で掴んだときに、ロールパンの皮はひび割れた。かじり付いても白い部分はまるで柔らかくなく、ただ口の中の水分を奪い取るばかり。好きこのんでこんなものを食べたいとは思えない代物だった。

 どうでも良いかと、ぱんぱんと手を払う。ぱらぱらとパンくずが落ちるのには、王は若干眉間に皺を寄せていた。今の今まで何もなかった男の顔に表情が浮かんだことが面白くて、にんまりと笑みを深める。


「アコニ・エフロレスンス。金雀枝エニシダの傭兵団の団長だよ」

「君が?」


 頭のてっぺんから、爪先まで。値踏みするような、その裏を探ろうとするような、そんな視線を真っ向から受けて腕を組む。事実しか言っていないし、アコニには何も後ろ暗いことはない。

 王を殺そうと思ってここまで来たわけではないし、害するつもりは毛頭無い。依頼主を殺してしまったら、明日の生活に困るではないか。人間、衣食住は必要だ。最悪、衣と住はいいとして、食に困るのは命に直結する。


「こんな若造が、って? そりゃよく言われるけどさ」


 王の目の前にあるテーブルに視線をやった。冷めたスープ、不味いパン。王だからと豪華な食事をしているとは言わないが、いや噂で聞く限りは栄華を誇る生活をしているらしいのだが、これが本当に王の食事なのか。

 噂はいくらでも聞いていた。派手好きで放蕩で浪費家な王。だが、それは本当のことなのだろうか。噂なんてものはいくらでも流すことができるものだ。

 人は、噂で潰せる。口さがない人々の悪意で、心をすり切れさせることができる。果たして世間に流布する王の評価というものは、ただの悪意から生まれた虚偽か、それとも真実なのか。虚偽であるにしても、そう言われるだけのことを王がしたということなのかもしれないけれど。何もないところに噂など生まれないのだから。


「ま、あんたより年下だしな。でも大差ないだろ、あんたも王にしちゃ若造だ」


 国々ひしめく大陸の北にある島国、イアグレイス。四つの地区から成り立ちいつも内乱の危険を孕むこの国の王。その名前を、リシリオ・マルトラコン。即位した時にはまだ十八だったこの王は、五年経った今でも二十三の若さでしかない。

 アコニは今年十八になるのだから、彼が即位した年齢を思えば大差などない。それに五年間の差なんてものは、人生の長さを考えれば短いものだ。


「それだけでは、ないけれど……君は、その……いや」

「そうか? まあ、あんたの疑問なんてどうだって良いけどさ」


 恐らくは、アコニの外見が問題なのか。けれど、明確にそれを口にはしない。そんなものは、見た人が思うままに受け取れば良いだけのことなのだから。

 問いただすのかと思いきや、リシリオは別のことを口にした。


「どうして、依頼を受けた?」

「それをあんたが聞くのか? 依頼してきたくせに。断って欲しかったのか?」


 不敬だと言い放っても良い状態であるのに、彼は不敬については何も言及しない。まるでそんな扱いをされることを受け入れているかのようだった。

 この王はよく分からない。何がしたい、どうしたい、どうして依頼をしておいて、断って欲しかったようなことを言う。


「……そう、かもしれない」


 静かにスプーンを置いて、リシリオはアコニを真っ直ぐに見ていた。はしばみ色の瞳の中には諦めの色が揺らめいている。

 それは、何に対する諦めだ。自分の境遇か、流布する評価か。アコニが推測することのできない感情が、そこに流れては消えてを繰り返している。


「終わりが来ることを、知っている。だからこそ、断ってくれることを期待した」


 人間は誰もが終わりを迎える。けれど、リシリオが言うのはそういうことではないだろう。彼の言うはきっと、穏やかな死ではない。誰かの手によって終わりを迎えることを、受け入れているような口ぶりだった。

 死んでも良いのか。アコニは出来ることなら死にたくない。死にたいと思ったこともない。死ぬことは怖くて仕方がない。けれど、リシリオの瞳には終わりに対する恐怖は浮かんでいない。

 その終わりを受け入れて、諦めて。言い様のない感情がアコニの中に渦巻いていた。ひどく胸騒ぎはするのに、頭のどこかがすうっと冷えていくようだった。


「じゃ、あんたの期待を裏切ったわけだな」


 にいと口角を吊り上げて、笑う。


「なら俺は、あんたの期待を裏切り続けてやるよ。あんたの役に立ってやる」


 ここで、そうですかじゃあ契約を破棄します、などと言うはずもない。一度受けた依頼だ、契約期間はまだまだ長い。


「何故」

「何故? また当たり前のことを聞くな」


 気に入ったからだとか、同情しただとか、そんな答えを聞きたいか。アコニは絶対にそんな理由を口にすることはない。

 人が争い合い、奪い合い、憎み合えば、それをかてにアコニは生きていける。人々はそんな生き方には眉を顰めるのかもしれないけれども、ならば他にどうやって傭兵が食いつないでいくのかを教えてくれ。

 争うことを愚かなことだと断じるのならば、争いのない世界を見せてくれ。誰かと一度も意見をぶつけることなく、争うことなく、そうして生きていけるのならばその方法を教えてくれ。

 ただ手に武器を持って戦うことだけが争いではない。大きな戦争だけが、争いでもない。


「俺が、傭兵だからさ」


 笑って、笑って。理由なんてものはこれしかない、ことにした。これが、アコニの生き方なのだと。

 人が争う限り、そうして生きていける。それをかてに生きていける。大きな戦争がなかろうとも、リシリオのように依頼をしてくる人間はいる。警護であったり、手駒であったり、その理由は様々だ。

 本当の理由を覆い隠して、アコニは笑った。


 もしもあなたが今、孤独でなかったのならば。この場で断るつもりだったのに。

 その確認のためだけに、わざわざこんなことをした。

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