第9話 神の杯

「さてさて、どうしたものか?」

 まずはあおいと合流するべきなのだろうな。

 俺は携帯しておいた紙の地図を出す。今時というかも知れないが、電池切れも電波の繋がりも気にする必要の無い最強の安定性はやはり捨てがたい。

 俺は、まず最初に辿り着いた誰も住まなくなった温泉街を見付け、そこから湖に伸びる山道をなぞっていく。こうやって等高線で描かれたシンプルに機能的な地図は絵画のように美しく、その地図を位置を模索しながらなぞっていくのは少しわくわくする。GPSでは味わえない冒険気分。

 歩いた時間と落下前に見ていた地形的に、現在位置はだいだいここだな。

 取り敢えずこの川沿いに行けば、見ようかと思っていた神の杯と呼ばれている巨石遺跡があり、そこからもう少し上がれば谷から上がれる道があるな。そこからこのルートで湖まで行けるな。上手くいけばそこで合流出来るだろうが、湖に行く前にちょっと寄り道をすれば目的地の一つにも行けることにも気付いてしまった。

 ちょっとだけ寄って直ぐ終わらせれば・・・。まああの姫さん強いからそう心配して急ぐ必要は無いだろ。

 いやいや何を考えているんだ状況を弁えろ。姫さんとの合流一択だ。

 邪念を振り払い俺は谷底の川を歩きだすのであった。


 谷底は左右を高い崖に挟まれ昼だというのに夕暮れのように薄い影に覆われている。

 上流のため足下には大きく鑢のような表面と斧のように角張った石がゴロゴロ転がり一歩踏み間違えて転べば骨が砕かれ皮膚を削り取られる。

 これだけでも慎重に進まざる得なく成るというのに、川の流れを避ける谷底の端には木々が生えていて、枝が行く手を邪魔してときどき潜ったり乗り越える必要があって神経と体力を磨り減らしてくる。

 その代わり並走する川の水はガラスのように澄み切っている。魚が泳いでいれば肉眼で見れそうである。

 今日の夕飯に魚の塩焼きが食いたくなってきた。

 美味だろうな。

 楽しいことを夢想して歩いていく。

 突然だった。

 カーブを曲がり木々が晴れた視界の先に巨石が鎮座していた。

 黒々とし1.5階建てほどの高さがあり迫力が迫ってくる。

「これが神の杯か」

 河原の石と違い黒曜石のようなつるつるの表面をしていて薄日に輝いている。巨石はグラスを割ったような形状をしていて中腹の平らな部分は円錐状に窪んでいて水が溜まるようになっている。神の杯と呼ばれる由来だ。

 この水を飲むことで神になる資格を得ると昔から言い伝えられている。この地域一帯が廃村になる前は温泉客が観光にここに訪れていたりしたらしい。馬鹿が巨石に登って怪我とかしないように鎖の柵があったようだが今は錆落ち支柱の根元のみが残っている。

 この無骨で巨大、現代アートに通じる美に俺は惹かれた。

 神の杯とご大層な名だが実際には雨水が溜まっただけのもので、そのまま呑むのは少し怖いが、惹かれた以上、これが神の杯というなら呑まない選択肢は無い。

 俺は元柵があった結界を超えて巨石に近付いていき、ぞわっとし振り返った。

「美しい」

 白蛇と視線が合った。

 白蛇は振り返った俺と同じ視線の高さまで鎌首をあげ真紅の舌をチロチロさせつつ此方を睥睨する瞳は黄金に輝いている。

 俺は白蛇と視線が合ったままに蛇に睨まれた蛙のように魅入られた。

 俺の胴ほどの太さがある胴体には鱗が幾何学模様を描いて並び白磁のように白く輝いている。手も足も無く獲物を捕食することに特化した体は戦闘機に通じる機能美。昔から蛇は忌み嫌われる一方、その神秘的な姿で信仰の対象にもなっている。確かにこの蛇なら俺も崇めていいかもしれない。

 美しい

 俺は数瞬うっとりしていたが、美しき白蛇は襲い掛かってくるでもなく未だ俺を見詰めていた。

 この白蛇、俺を見定めているのか?

 逃げるか戦うか俺が選んだ選択肢で俺を見定めようとする神の如き上から目線。

 美しき神の如き白蛇を前にして俺が何をするべきか分かったような気がした。

「神の行く手を塞ぐとは失礼しました」

 俺は神の杯への道を白蛇に空け頭を下げる。

 白蛇は俺の答えに満足したように悠々と俺の前を通り過ぎ神の杯に向かう。

 するすると巨石に登ると王の如く悠々と水を飲みだす。

 ああその姿も美しい。

 ひとしきり水を堪能すると白蛇は更に上に上がり玉座に座るがごとく頂上にて俺を見下ろす。

 去るのでも無くその場に留まり俺を見る。

 臣下も呑めと言うことか。

 どうやら臣下の俺も水を飲む許可が頂けたようだ。神を前にして神の杯を呑むなど恐れ多いが、神が許可するなら呑まない方が無礼。俺は恭しく頭を下げつつ登り神の杯に口を付け水を一口飲む。

 ん?

 ただの雨水のはずなのに強烈な酒を飲んだときのように体がカッと熱くなるのを感じた。

「なんだこれ!?」

 思わず立ち上がった俺に上から白蛇が飛び掛かってきた。

「くっ」

 俺を太らせてから食うつもりだったのか、それとも何か機嫌を損ねたかと思いつつ身を捻って躱し、躱すままに体を捻って後ろを見ると巨熊がいた。

「熊だと!?」

 白蛇は俺の後ろに忍び寄っていた熊に襲い掛かったのだ。

 俺を護ってくれた?

 そもそも3メートルは越す熊の接近に俺が気付かなかった? これでも多少は修羅場を潜ってきたとする自負が傷付く。

 それとも神の如き熊は気配を完全に消せるというのか?

 無駄一つ無い筋肉を纏い黒く輝く獣毛に覆われた剥き出しの巨大な暴力。これはこれでなかなかに荒ぶる神と呼ぶに相応しい。

「これが神々の戦いだというのか」

 白蛇と巨熊の戦い。

 古来原始の世界における神々の戦いを彷彿させる戦い。俺は一応助けてくれた白蛇に加勢すべきなのだろうか?

 白蛇がチラリと俺を睨む。

「矮小なる私が介入できる思うことすら不遜でしたな。陛下の勝利を祈っています」

 俺はこの隙に神の杯を周りそのまま逃走するのであった。

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