3 Angels Piracy ~変態に変態を売る三姉妹の生活~
うずしお丸
第1話‐1 そこに毎日があるのなら
この道の懐かしい焼き立てパンの香りを鼻腔から肺いっぱいに吸い込んだとき、当たりまえの平和な毎日に香りというものがあるとしたら、それはこうした幸せの発酵した匂いだと思って、わたしは涙を一粒、どういうわけかこぼしてしまったのでした。
その涙は、今までのわたしの全てが詰まった白熱電球でした。五月の春、埃を上げて車の走る道路脇で、電球は音を立てて砕け散りました。
「巴(ともえ)さんは、お家の事情で随分と長いこと休まれていましたが、今日からまた皆さんと一緒に学校生活を送ります。四年生になって授業も進んでしまいましたが、学校生活で困っている様子でしたら皆さんも是非サポートしてあげてくださいね」
もしわたしが転入生であったなら、真新しい人を見る好奇の目線とぶつかったかもしれませんが、半年ぶりに学校に復帰した私を前にするクラスの皆の目は、例えば机の上を整頓しなさいとか、今日の予定を毎朝書き出して提出しなさいとか、食べ残しのパンや牛乳を机の中に隠すのをやめなさいというような、毎日の習慣の中に一つの面倒ごとが追加されたかのような、突然のわたしの登場に鼻白んだような顔をしていました。別に面白い話でもなく、興味もないというような感じです。わたしのつまらない内面は、もう知れ渡っていたということなのでしょう。わたしもわたしで、クラスの顔ぶれが去年と変わってしまって、話したことがある人はほとんどいないなあと、ぐるりと見回して思いました。
「そうだ、クラス替えもあって初めましての人も多いと思いますので、巴さん皆さんに自己紹介をお願いできますか?」
「え? あ……はい」
そんなふうに突然打ち合わせもなしに先生が自己紹介を促すので、わたしは軽いパニックに陥ってしまいました。わたしは同年代の子たちよりも喋るのが苦手です。それに気付いたのは、わたしが長く学校を休むことになる直前ごろでした。なんとなく、クラスの皆は思ったことを直感的に、脳と口が直結しているように、楽しさや悲しさといった感情と一体になって自然に素直に話せるのに、わたしはそうではありませんでした。わたしは言葉を口に出すまでに、一つ一つを考えて相手の顔色を伺って言わなければなりませんでした。それはとても疲れる作業で、今からそれをクラスの前でやると考えただけで怖気づいてしまいます。
それに、口調はどうしたらよいのだろう。クラスの皆に先生に対するような丁寧な言葉を遣うわけにもいかないので、「みんな、元気にしてた?」とフランクに注目を集めるべきでしょうか。でも、それだとそのテンションが持続しないので、ちぐはぐな気持ちになります。そもそも皆はわたしに興味を持っていない様子なので、早めに簡潔に済ませたほうがよい気がしてきました。自己紹介は、まず私の名前と、それと、仲良くしてほしいこと、それだけを言えば十分だと思います。なので――
「あー、巴さんはまだ久しぶりで緊張してるみたいで……」
「きたきゃっ、北上巴(きたかみともえ)です! 半年ほど学校を休んでいました……またわたしと仲良くしてもらえると嬉しいです」
と、無難に済ますことができました。言葉を発したあとすぐに二つほどの後悔が去来しましたが。一つ目は先生のセリフを中断して話してしまったこと。何事も間が悪いせいです。そして、クラスの皆に敬語を遣ってしまったこと。スムーズに学校生活に溶け込むつもりだったのですが、この半年という期間はわたしの人付き合いの下手さに拍車をかけてしまったのかもしれません。とにかくわたしはかっと恥ずかしくなってしまいましたが、すぐにすーっと心が冷えていくのを感じました。失敗とか成功とか、そんなのはどうでもいいことで、大事なのは毎日をやり過ごすことです。そこに毎日があるのなら、わたしは一分一秒でも長く息を止めて、そして無理せずに生きていようと思っています。それは何か矛盾しているでしょうか?
「まあそういうわけだ。ちょうど健也さんの隣が空いているからそこに座ってください。君たちは三年生のときも同じクラスだったから、仲良くして下さいね」
「せんせー」
そのとき先生に促された男子が手を挙げました。彼のことは知っています。潤杉健也(うるすぎ けんや)くん。去年はあまり話しませんでしたが、同じクラスにいました。性格は大人しいほうで、整った短髪は屈託のない表情をさっぱりと見せていて、悪い印象のない男子です。ですが、それ以上の記憶や印象はあまり残っていません。きっとわたしに似た、平凡な男子に違いありません。
「巴さんは何の係になりますか? 特になければ僕と同じ『いきもの係』をやってもらってもいいですか?」
「そうですね。四年生からはみんな何かのクラス係につくことになっているんです。巴さんも特にこれがいいというものがなければ、いきもの係でいいかもしれませんね」
「ヘイヘイヘイ!」
今度はクラスの女子の一人が声を上げました。上の歯の矯正が眩しい、茶髪で縦ロール風に髪がふくらみ、そばかすのある女の子です。名前は知りません。
「図書係はだめよ! あたしがジャンケンで勝ち取ったんだから! なりたい人が十人もいて、負けたら一年掃除係の血で血を争うジャンケンに勝ったのだから!」
どうやら人気の係は定員が決められていて、係間の格差というか、人気不人気もあるようです。わたしは別に一年中掃除係でもいいのですが。というか掃除は皆でやるものではなかったでしょうか。社会の縮図を垣間見せるようなシステムにわたしは少しうんざりしたものを感じました。
「はい、いきもの係でいいです」
私はそう答えました。健也くんはすこしホッとしたような顔をしました。先程の女子は手を叩いて喜悦の声を上げます。
「そうよ! 新参者はうんちの世話をするしかないの。ザリガニも亀もグッピーも、毎日毎日うんちうんちうんちばかり。ケージの掃除もしないと臭くて仕方がないの。水槽、藻、水槽、藻、蝦(えび)、蝦、蝦。臭いから毎日ちゃんと世話をしてよね。あたしはジャンケンに勝ったから、放課後はアフタヌーンティーをキメながら図書館で駄弁れるのよ。ずっと友達とミッケをしながら過ごすの。ミッケいない、ミッケいない、ミッケいない、ミッケいない、ミッケいる! ミッケいたの! ミッケ見つけた! ここよ! みんな来て! あたしが見つけたの、ミッケ見つけたのよおおお! 今日も楽しかった! 帰りますありがとうございました!」
「うるせえよ!」
先生が拳で黒板を叩きました。突然の暴力性は落雷に等しく、大の大人が怒声を発したことで教室には緊張が走り、水を打ったようにクラスは静かになりました。件(くだん)の彼女も少し涙ぐんでいました。
先生はにっこりと笑って、言いました。
「はい、巴も係が決まってよかったな。それでは、一時間目の授業を始めます。
規律、訓令、蓄積――」
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