月の足る宮 富士に登った左文字の話 ~明治幻想奇譚
Tempp @ぷかぷか
1章 友人、生贄となる
第1話 その贄なり難し
「
「やめる? 多分?」
午後の講義が終わり荷物を片付けていると、
秋月は俺と同じ工学科の学生で、それなりに親しかった。やたらと背が高くがっしりした体格は、体ではなく頭を鍛えている者が多いここでは結構浮いていた。それで貧乏学生を地で行くような、左文字と同じく少々浮いている俺とはなんだかんだ一緒に行動することも多かった。はぐれもの仲間というやつだ。
この東京大学は
「本意じゃないのかい?」
「まあ本意と言えば本意だし、決まってたことではあったんだ」
「煮えきらねぇな」
「まぁ、そうだね。ここに来るまでは俺はそのことになんの疑問も持っちゃいなかったんだけどさ」
「煮えきらねぇな」
秋月は少々罰が悪そうに頭を掻く。
「どうもな。俺は富士に飛び込むことになってるんだよ」
「はぁ?」
「とは言っても今の火口は石が転がってるだけみたいなんだけどな」
「話がさっぱり見えねぇ」
「とりあえず富士山にでも登るかい?」
この東京大学で富士山といえば
思い起こせばこのわずかな丘は左文字の気に入りで、よくその頂上の大木に背をもたせかけて下々を眺めおろしていた。
「ここの斜面の土には富士の溶岩が撒かれているそうなんだよね」
「そういえばお前は
「まあな。今は静岡県と名を変えているが」
俺の生まれは東北だから、駿府には未だ行ったことはない。
「その、富士に飛び込むってのはわからねえが、家に戻るのか」
「それもわからない」
「本当にぱっとしねぇな」
左文字の語る話はどこかで聞いたような、どこにでもある民話のような、そのような不確かな話に聞こえた。けれどもそれは他人事ではなく、この左文字に降りかかるものなのだ。
概要はこうである。
左文字の実家は富士の裾野にある
それで左文字の一族は村山でもさらに外れにある一族なのだそうだが、この一族だけに伝わる奇習がある。33年に一度、若者を生贄に捧げるというものだ。
そう聞いて一瞬ギョッとはしたが、生贄と言っても穏当なものだ。
村山修験の祖とされる
この生贄の儀式は随分と古いものらしい。末代上人の生きていた平安時代の火口にはもうもうと蒸気を吹き上げる火口湖があったということだから、そこに飛び込むのは真に生贄の意味合いであったのだろう。けれども今は火口といっても岩が転がる荒地にすぎない。
だから命の危険はなく、夜が明けて朝日を浴びたたら下山する、だけなのだそうだ。
「一応切りが良いから夏に一旦休学してさ。何もなければすぐに復学する予定なんだ」
「今の話に帰ってこれない要素はなさそうだが?」
「富士に飛び込んだ人間は結構な割合で記憶が混濁してるらしくてね」
左文字はまっすぐ、富士の方角を眺めた。そこには薄っすらと青みがかった富士の山頂が雲間に隠れるように聳えていた。
「記憶が? それは
「山酔い?」
左文字はおかしげに笑う。
「今更だ。俺らは小さい頃から何度も山頂まで登ってるからな」
小さい頃から登っているなら山酔いとは考え難いか。
俺も東北の山近くの出だ。富士の山には未だ登ったことはないが、俺の地元にも富士に比肩するような険しい高山はある。自らの経験を考えると、慣れているなら登っただけで調子を崩すとは思われない。
「それでだな、記憶が無くなれば流石にここの講義についていけない。ドイツ語を忘れたら致命的だ」
「まあなぁ」
講師の3分の1は外国人だ。確かに語学を忘れれば、復学は不可能だろう。けれども語学とか、そんな基礎的なところを忘れるものなのかね。
「俺の一族ではね、その役割は名誉なことなんだよ。それで俺は子どもの頃に役目に内定していてだな」
「断れないのか」
「無理だね。古い土地だから。やらなきゃ俺の家族に迷惑がかかる」
左文字のその言は極めて爽やかだった。どうやら意思は固いらしい。
「その分好き勝手させてもらってるんだけどな。それにしても大日寺ももうないのにどうするんだろうね。今は神社になって木下さんという若い人が神主を務められていてさ、本当にもう寺じゃないんだけどな」
「そんなわけのわからなくなったもん、やめちまえ、とは言えないもんだよな」
隣で僅かに頷く瞳は、やはり遥か遠くの富士を眺めていた。
御一新で世が明けてしばらく経つ。その文明の光はこの東京を明るく照らしはするものの、未だ光源から遠く離れた地では旧来通りの紙燭や行灯でなんとか闇を打ち払っている。
俺の故郷で同じことがあれば、俺もおそらく断りきれないのだろうな。
「でもまあ、帰ってくるさ。なんていうか万一戻らなければ後味が悪いと思っただけだからな。挨拶もなしにいなくなるんじゃ友達がいもない」
友達か。
左文字は俺のことを友達だと思ってくれてるのだな。そう思うと、先ほどから僅かに感じる妙な予兆が余計に気にかかる。
このまま別れれば、俺はもうこの左文字とは会えないのではないか、という予感が。俺のこういう嫌な予感は大抵当たる。さりとて俺は関わりたくもない。
生贄、因習、友達。
そんなこもごもが頭の中でせめぎ合う中、眼下に1人のいけすかない男を認めた。
俺のような着流しと異なり文明開化の香り豊かなパリリと糊の効いた白シャツに上品な紺地の羽織袴。その涼やかなすまし顔にはなんの迷いもなさそうで、その軽やかな足取りとともにすらりと赤門の方に抜けていくところだ。
そもそもこいつとここで会うのは珍しい。なぜなら俺たちが本来通う理学部校舎は
そうすると、やはりここで会うのは運命なのだろう。
ああ、畜生。ろくでもない予感を増しながら俺は呼びかける。
「おい、
俺の声に振り向いたのは、今は滅びたはずの陰陽師なんていうヤクザな仕事をしている友人で、且つ俺の雇い主だった。
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