第2話

 うちの高校のほとんど唯一の欠点は校舎から校門までの距離が長いことだった。

 広大な敷地を活かしたグラウンドが校舎の眼下に広がり、門はその果てにあるのだ。運動部員にとっては最高の環境だろうが、帰宅部に魂を注ぐ僕には不要でしかない。

 グラウンドを囲むフェンス越しに家と家に挟まれた小道が見える。この道の先に僕の家があるのだ。帰り道は目の前なのにわざわざ広いグラウンドの端まで歩かなきゃいけない。ここに帰宅部オリジナルの校門を作りたい、と僕はもう半年思い続けている。

「あ、日坂くんだー」

「おー会川」

 フェンスに沿うように歩いていた僕と向かい合うようにフェンスの向こう側を歩いてくる会川は笑顔で手を上げた。僕も右手を上げて応える。

 パッと明かりが灯るような笑みだ。彼女は僕のクラスメイトで、誰にも分け隔てなく気さくで優しい。しかしホームルームが終わってすぐ教室を出た僕よりも早く帰っていたとは。

「帰るの早いな」

「帰宅部に魂注いでるからね」

「負けたわ。部長はお前に任せる。オリジナル校門計画を頼んだぞ」

「ん、何の話?」

 会川は首を傾げるが、瞬く間に僕たちの距離は無くなり「まあいいや。じゃーね」とすれ違いながら彼女は手を振った。「ああ、じゃあな」と僕も返す。

 二歩か三歩ほど進んだところで、背後から重い音が聞こえた。

 部活が始まる前で静かだったおかげだろう。その音はよく響き、僕は思わず振り返った。

「……会川?」

 会川明音が倒れていた。

 先程まで笑顔を見せていた彼女の全身が固いコンクリートに横たわっている。

 目の前の光景が理解できず立ち尽くしていると、彼女の後頭部から苦しそうな呻き声が漏れた。我に返った僕は眼前のフェンスを飛びかかるように掴む。

 がしゃがしゃと不細工な音を立てながら、時折足を滑らせつつも僕はフェンスを乗り越えて彼女の元へ駆け寄った。

「おい会川!」

 名前を呼ぶが反応はない。倒れた拍子に切れたのか、彼女の額からは血が流れ出していた。それを見て僕は驚愕する。

 まるで水で薄めたかのような桜色をしていたからだ。

 僕は慌ててスマホを取り出し、生まれて初めて救急車を呼んだ。


***


透血病とうけつびょうといいます」

「聞いたことないんですが」

「ええ。私が今名付けましたから」

 白色の蛍光灯に照らされた医師は面白くもなさそうに淡々と言い放った。くたびれた白衣を羽織り、目の下には濃いクマのある彼は医者というよりも研究者のように見える。

 あれからすぐにこの病院に運ばれた会川は輸血を行うことで回復した。そこに付き添っていた僕は今こうして医師に呼ばれ説明を聞いている。

「何せ世界で初めての疾病しっぺいですから」

 世界、という言葉に現実味を感じられなかった。けれど医師の口ぶりは真剣だ。

「症状自体はただの貧血です。けれどその原因が特殊でした。あなたも見た通り、彼女の血の色はとても薄い。普通だとあり得ない色です」

「薄いと良くないんですか」

「すこぶる悪いです。血液中の成分が薄いってことですからね。しかもそれが徐々に進行している。これは認めがたいことですが」

 医師は一拍置いた。彼自身もまだ納得できていないのかもしれない。

 それからゆっくりと彼は口を開く。

「おそらく彼女は血中成分を消化吸収する体質なのだと思います」

 言っている意味がわからなかった。

 僕の無言を察したのか「つまりですね」と医師は続ける。

「彼女は自分の血液を食べているのです」

「血液を食べる?」

「はい。血液を構成する成分、赤血球や白血球が有名ですが、それらを体内に吸収してしまっている。結果、彼女の血液はただの水に近づいていく」

 意味はわかった。しかし納得はできない。自分の血を食べる?

「そんなことあるんですか」

「普通はあり得ないです。自分の命を食べているようなものですから」

「え、じゃあ会川はどうやって生きてきたんですか」

「これは推測ですが、今までは彼女の血液を作るスピードが吸収速度を上回っていたんだと思います。それが身体の成長に伴って逆転し、貧血を起こした」

 医師は感情の読めない口調で話し続ける。確かに違和感はあった。

 ただの貧血なら点滴で済むはずだ。額が切れていたとはいえ、ただの切り傷で輸血するものなのかと思っていた。

 初めから彼女の中に血が足りていなかったというなら説明がつく。

「彼女にとって、不運と幸運がひとつずつあります」

 医師の声が頭に響く。僕は何も答えなかったが彼は続けた。

「単刀直入に言って、彼女が生きていく方法はただひとつ」

「ひとつ」

「輸血です。薄まった血液を抜いて濃い血液を入れる。これで彼女の血液濃度を維持していきます。しかし不運にも彼女の血液型はとても珍しい型でした。世界的に見ても数千人に一人いるかいないか。つまり血液のストックも少なく、おそらく数年で尽きるでしょう」

 絶望的な報告に僕は床を見つめていた。真っ黒になった頭に「そして幸運なのは」と医師の声が響く。

「あなたが彼女と同じ血液型だということ」

 僕は顔を上げた。疲れた顔の医師がじっとこちらを見つめている。

 その瞳には強い光が宿っていた。

「日坂さん、私はこれから世界中の医療機関から彼女の血液を集めます。ただ、それじゃ間に合わない。親族でも恋人でもないあなたにこんなことを頼まなければいけないのは医師として失格ですが」

 すっと医師は僕の前に書類を差し出した。A4サイズの紙面には『血液の譲渡及び医療利用に関する同意書』とある。

「できればもう一度、彼女を救ってくれませんか」

 僕はゆっくりと手を伸ばした。手に取った書類にもう一度目を通して、顔を上げる。

 医師と目が合った。

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