かわいいあの娘は海の底

奈賀井 猫(kidd)

第1話(完結)

 ぼくは硬く冷たい石の床で、すべての意味あるものから遠ざかりつつある。

 いや違う、目が覚めた。

 ぼくが寝ていたのは乾いたコンクリートだ。正確には体とコンクリートの間に何か敷かれているが、厚みがないのでコンクリートの堅さが背中と腰にくる。

寝たままで周囲を見れば、梁をむき出しにした灰色の天井が所々抜け、光が流れ落ちている。その下では草木が鮮やかに枝葉を伸ばし、こぼれる光を受け止めている。

「おう、起きたかい」

 傍らから低い声がしたので、ぼくは体を起こした。敷かれていたのは薄いマットだった。片手で自分の後頭部を探ると、一昨日散髪したばかりの短すぎる髪に変な癖がついている。身体に視線を落とすと、パーカーもジーンズも土埃にまみれている。軽くはたいてみたが、なかなか落ちない。

「どっか痛む?」

「いえ、別に……」

 軽く伸びをすると肩と背中が音を立てた。凝り固まっている。

「ならよかった」

 声の主はぼくから少し離れたところに座り、床に置いた小さなコンロと鍋を見ていた。片手にスプーン、片手に古いリーダー端末。カーゴパンツにグレーの上着を羽織った男で、無精ひげが少々目立つ。後頭部で束ねた黒髪が小鳥の尾羽のようだ。

 男はリーダー端末を上着のポケットに入れて、ぼくの背後を顎で示した。

「あのギリギリのところに落ちてきたんだ。天井ごと」

 振り返ると、天井と壁は十メートル先に瓦礫を散らかしたきり無くなっている。ぼくは立ち上がって、瓦礫の近くまで歩いてみた。その先は床もなくなり、視界は目のくらむほどただ青く、水平線だけが上下を区切っている。

「わかる?」

「はあ」

 横を見ればそちらも壁が部分的に無くなっている。そこからは水没した構造物がいくつも見えた。コンクリート色の外壁と並んだ窓の跡がそれぞれ傾いで、あるいは壁の一部を失ってほの暗い水底へ延びている。ここと似たような廃墟だろう。

 このあたりの海はミナト海域という。その名の通り、かつて港とそれを取り巻く都市があった場所だ。現在、ここからいちばん近い港は新ヒノ港で、それはここから約三十キロ西にある。この廃墟も、周囲の海中に没した構造物も、百年以上前の都市の名残だ。

 ぼくは真昼の空と海に目を細めた。潮風が首筋を通り抜ける。すぐ後ろで鍋のあぶくがはぜる音がしている。

 頭上で何かがからりと鳴って砂埃が落ちた。反射的に音のほうを見上げると、上の階の床と鉄骨が吹き抜けになって続いている。ひとつ上の階で何か動いた気がしたが。

「もうしばらく休んでなよ、飯できるよ」

 ぼくは男に促されるままに鍋を挟んで座った。男は鍋の中身を味見した後、傍らの小瓶を取って鍋の中に振り入れた。見れば調味料の小瓶がいくつかに、小さなまな板とナイフもある。その上に野菜の皮がまとめてあった。

「散策から戻ったらさ、天井が崩れてんだよ。んで瓦礫にきみが埋まってたってわけ。足だけ出して」

 二度目の味見のあとで男はコンロの火を止め、鍋の中身を器にとり分けた。

 男が作っていたのは刻んだサラミと穀物や野菜を煮たものだった。野菜の柔らかい甘みが起きたばかりの頭に沁みていく。

「旨いですね」

「そりゃあ、どうも。まあ、不味くてもこれしかないから。よかったらおかわりも食うといいよ。誰かと飯食うの久しぶりでね」

 男は歯を見せて笑った。

「荷物はそのカバンだけ見つけたんだけど、それで全部かい」

そうだ、荷物! ぼくは慌てて辺りを見回した。

「枕元」

 男に言われて見下ろすと、ぼくのデイパックは確かにそこにあった。ジッパーを開け、荷物のいちばん上に乗せていたリーダー端末を確認する。筐体の角が少し欠けている。落下したときか。

 男は笑ったようだった。真っ先にリーダーの確認かよ、もっとこう、財布とかさあ。そんなふうに言った気がする。

 リーダー端末の電源を入れると起動メッセージが浮かび上がった。VRバイザーを接続しなかったから、表示には本体の上側数十センチの空間が使われる。その空間に白いサマードレスを着た少女の姿が像を結んだ。

『こんにちわ。午後零時四十三分をお知らせするわ』

 少女の二つに束ねて垂らした藤色の髪が軽やかに揺れる。とりあえず起動した。続いてデータのエラーチェック。マスコットの少女は座って端末本体に虫眼鏡を向けている。

「しばらくかかるんだろ、それ。続き食いなよ」

 男はぼくの皿におかわりを注いだ。それから、そういえばと呟いてカーゴパンツの ポケットから小さな革ケースを取り出した。

「名乗ってなかった。オブセ・アーカイヴのシトマです。とりあえず物理で失礼」

「あ、どうも……サトーと申します」

 革ケースに載せるようにして両手で差し出された紙片を、ぼくも両手で受け取った。名刺には男の名前と、所属と舞い降りる鳥のマークが書かれていた。姓は四十万と書いて、シトマと読むらしい。肩書きはオブセ・アーカイヴ所属の調査員。

「オブセ……?」

「平たく言うと、本屋だね」

 名刺とはまたレトロな自己紹介だ。古いお作法のレクチャーか物語の中でしか見たことがない。普通ならリーダー端末でプロフィールデータを送りあうところだ。シトマ自身もリーダー端末を持っていた。ぼくのリーダー端末のエラーチェックが終わるまで待てば済むことだ。

「サトー君は? 学生さん?」

「ええ」

「こんなところに一人で、なぜ? おれが言うのもなんだけどさ」

「ええと……卒業論文のフィールドワークで」

 ぼくが言葉を濁していると、シトマの上着のポケットで電子音が鳴った。シトマはポケットから端末を取り出して一瞥し、眉間にしわを寄せて顔を上げた。

「サトー君はいつからここに?」

「今朝、着いたばかりです」

「今朝か、じゃあ下に泊めてあったボートはきみのだな」

 シトマはスプーンを持ったまま顎に手を当てて独りごちた。それから声のトーンを落として、怪談でもするように付け加えた

「おれのほかにも誰かいるみたいでさ、ここ。きみだと思ってたんだけど、違った」

 シトマは自分の端末をぼくに差し出した。薄暗い室内の画像が表示されている。

「この何箇所かにカメラを仕掛けたんだ。何かが通れば、こいつに映像が来る」

「壁と影しか映ってませんね」

 端末にはほかにも画像が保存されていた。どこかの廊下、半ば海水に浸かったフロア、シトマの背後にあるテントとコンテナ、水のタンク。ぼくが写っているものが一枚、シトマが写っているものが数枚、あとは無人だ。

「まるで幽霊だよ。食いもん盗んでく幽霊。困ったもんだ」

 シトマは端末をぼくから受け取り食事に戻った。

 ほどなく、マスコットの少女がエラーチェック終了を告げた。

『チェック終了。異常は見つからなかったわ。感謝なさい。で、なに読むの?』

 コマンド・プロンプト、つまりユーザーからの命令待ちの状態だ。ぼくが迷っていると、シトマが言う。

「再生テストだろ。いいぜ、おれも何か見たい」

「じゃあ、短いものからなにか」

 立体映像の少女は大きな古めかしい本を手にして椅子に座った。

『やまなし』

 朗読を始める少女の声に、青く光る水面の映像と幽かなせせらぎの音が重なった。

『小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です……』

 青白い光と鈍色の魚影が揺らぐ向こうで、マスコットの少女が分厚い革表紙の本を広げている。

 読書用リーダー端末の動作は良好で、ひと安心だ。いつでも読書ができる環境があるということは、ぼくにとって重要なことだ。

『クラムボンはかぷかぷ笑ったよ……』

 立体映像の少女が水底の幻想を読み上げる後ろで、魚のひれの水に逆らう音が、やがて弦楽器の優しい旋律に重なっていく。

 かつてここにあった都市が世界の主要都市と同様に海中へ没したとき、多くの大規模印刷設備が運命をともにした。その時代、本と言えば紙に印刷された物理メディアのことだった。

 本がネットワーク配信される電子データを指すものとなったのは自然のなりゆきだった。当時、すでに原稿作成と組版は電子データへと移行しつつあった。輪転機と印刷物を置く土地を失ったことでそれが加速されたのだ。

 リーダー端末はもともとコミュニケーション用途の製品だった。スピーカーと、高度な画像処理能力、単純なユーザーインターフェースが付いていたのだ。本を作るエンジニアたち、あるいは配信する企業が、それを活用しないわけがなかった。本は映像と音とインタラクションを獲得した。

 ぼくのリーダー端末は一世代前のモデルだが、VRバイザーを接続したときの表現力はなかなかのものだ。VR機能はいまや読書体験の標準的要素となっている。

「いいなあ、このマスコット。かわいいし、朗読ってスタイルも洒落てる。どこの製品だい」

 シトマは本の内容よりマスコットの少女のほうを眺めていた。

「ベースはその、スワコのエージェントで。マスコット部分は、作ったっていうか……」

「マジか。じゃあ自分でマスコット書いたのか」

 ぼくは控えめにうなずいた。あまり得意げに言うような話ではないのだ。メーカーのプロテクトを壊して、勝手にプログラムを書き換えているわけだから。

「スワコ製品のクラックか。感心できねえが、大したもんだ。自作か、へえ」

 シトマは顎を撫でながらマスコットの少女を眺めた。その間も少女は朗読を続けている。少女の髪が、顔を上げる動作にあわせて小さく揺れる。

「造りもまあ、個人で作ったにしちゃあ凝ってる……彼女、モデルはいるの」

「えっ」

 ぼくが聞き返すと、シトマは笑って両手を振った。

「あ、いや。野暮なこと聞いちまった、すまん」

 シトマは鍋と食器を洗い始めた。少量の湯で拭うように汚れを落としている。そのあいだ、ぼくは周囲を見回していた。

 シトマの背後、コンロから少し離れたところに、小さなテントと大きめのコンテナがある。テントの向こうはコンクリートの柱が並んだ空間で、海からの眩しい光もそこまで届くのがやっとのようだ。それでも植物は床を這い、柱に絡んでその版図をさらに奥へと広げんとしていた。

 テントに視線を戻せばその中に大きなバックパックとシュラフが見える。もう何日もここに滞在しているようだ。それからLEDランタンと、小振りのサブザック、紙の本。

 リーダー端末を持っているのに、紙の本? わざわざ物理で?

 シトマはサブザックを担ぐとぼくに言った。

「ところでサトー君、ちょっと付き合わないか?」


* * *


「『本屋』と言ってもおれの仕事はデータ配信じゃなくてさ。売っているのはその材料だ」

 シトマは話しながら薄暗い階段を下りる。ぼくはその後に続いていく。

 ぼくだって暇ではないつもりだ。だが、こんな場所に来る人間の考えることはおおむね似たようなものだ。それを知ってか知らずか、シトマはぼくの先に立って廃墟の中を進んでいく。

「材料?」

「いわゆる『紙の』本だね」

 リーダー端末が普及して久しいこの世の中に、そういうものを売買する仕事がまだあるという話は聞いたことはあった。

「ここみたいな旧世紀の建物から、残ってる紙の本を見つけてくるのが、おれの仕事」

 シトマがぼくに手渡したのは片手サイズの紙の本だった。茶色いしみが浮き組織の壊れそうな手触りの紙面に、小さな文字が整然と並んでいる。電気とネットワークとデータストレージから完全に取り残された、物理メディアの、本だ。

「こいつを買い取った企業では、エンジニアが中身を電子データにして、リーダー端末の形式に収まるように編集、VRアーティストが音や映像をつけて盛り上げる。それがリーダー端末の本ってわけ」

 ぼくの手の中で質量をもった紙の束には、最初のページから最後のページまでただ文字が詰まっている。昔の人がこの単純なメディアに何を見出したのか、想像もつかない。

「サトー君、きみのリーダー、いま何冊ぐらい入ってる?」

「ええと……二千五百データくらい」

「マジか」

 シトマは目を見開いてぼくを見た。

「すげえな。この街がまだ生きてた時代なら、ちょっとした資料室の規模だ。いやあ嬉しいね、おれがここまで来たのもニーズがあるからだと思えるぜ」

 ぼくらは階段を数階ぶん降りたところでフロアに出た。すぐ下の階では寄せる波がコンクリートを洗っている。ぼくが乗ってきたボートもそこに泊めてある。エンジン駆動する小型の釣り船だ。ぼくらはまだ壁の残っている廊下を抜け、ものものしい鉄扉の前に来た。シトマはそれをゆっくりと引き開けた。

「文章に映像がついて、音がついて。そのうち本とかムービーとか、そういう名前は表現じゃなくて配信もとの企業やレーベルのことになるだろうね。でもおれはこの先も本来の意味で本屋だ。『紙の本』を商っているからな」

 シトマの笑顔は、ぼくには少し感傷的に見えた。

 鉄扉の中は通路だった。壁に沿ってスチール棚が並んでいる。棚の中身はほぼ空だ。割れたコンテナが床に落ちている。

「ある時代に、この辺の建物を使ってた企業の間で、物資を備蓄するのが流行った。災害に備えるってんでさ。ここもその一つだろうな」

「なんにも、ないですね。荒らされたみたい」

「戸口がこじ開けられていたから、盗掘されたかねえ。割と最近に。……がっかりした?」

「べつに……」

 話しながら歩くうちに通路の先は行き止まりになった。突き当たりに重厚な木製の棚がある。シトマは棚の裏面に手を差し入れた。カチンと短い金属音。棚は車輪でもついているかのようにすっと手前に動いた。

「さて。ここから先に進む前に、サトー君に少し話がある」

 棚が動いた跡、壁面にはいまや大きな穴が開き、その向こうに暗がりが続いていた。


* * *


 シトマの話によると、彼が今回この場所の調査に訪れたのは、彼の上得意である企業から依頼を受けたためだ。相手は書籍配信サービスの大手、スワコ・ブックマークスだ。ミナト海域に水没を免れた書庫が残っているか調査してほしい、という。

 スワコ社の船でこの建物に入ったのが三日前。シトマは荒らされた倉庫の奥に隠された書庫を発見した。その棚数から推定された蔵書規模はおよそ五万冊。当時の地方都市の図書館分室、あるいは大企業の資料室に相当する。

 本来ならこの時点で、シトマはスワコ社に報告を入れ、蔵書回収チームを呼び寄せるべきであった。しかし彼はそうしなかった。

「おれには別の探し物があってね。いま迎えに来てもらうのは、ちょっと早い」

シトマは入り口の柱に寄りかかり、腕組みをして静かに話す。

「このフロアにはその昔、あるソフトハウスのオフィスがあった。きみにはもう、話が解ってきてるんじゃないかい」

 ぼくは沈黙をもって答えた。

「おれが探してるのは、ここにあったとあるソフトハウスの開発品だ。簡単な会話ができるエージェント・システムで、愛らしい女の子の姿が与えられている」

「『ウィステリア』」

 ぼくはその名前を言い、シトマはにやりと笑った。

「きみのリーダーのマスコット、ウィステリアがモデルだろう? ここに来た狙いも、それか」

「ぼくを追い返しますか」

「バカ言え。追い返すつもりならここまで連れてこないよ。おれはきみの助けを借りたいんだ」

 ぼくのほうにも話が見えてきた。シトマも彼女を探しているが見つけられていない。情報が足りないのだ。

「あなたは、彼女をスワコ社に?」

「いや、スワコがおれに要求したのは紙の本だ。ウィステリアはおれが持ち帰る」

「持ち帰る……」

「ウィステリアは電子データだが、旧時代のハードウエアではネットワークには上げられない。だが、ストレージ――データーが格納された物理メディアを抜き取って持ち帰れば」

「コピーを作れる、と」

ぼくは少し考えた。

「彼女は、この奥に?」

「たぶんな。フロアと入り口は分かったが、本体の場所がわからん。きみはその逆だと思う」

 図星だ。ぼくは船で上陸したものの書庫のあるフロアが判らなかったので、最上階から順に調べることにした。その途中で床が崩落したのだ。いま思えば上陸したフロアから見ていけばよかった。

「どうだろうサトー君。ウィステリアの本体まで、きみが方向を、おれが安全を担保する。ストレージの取り出しにも、きみの旧いハードウエアの知識が役立つだろう。おれはウィステリアを持ち帰り、最新のハードウエアに載せ替える。そしてバックアップを取りきみに渡す。悪くないと思うんだが」

 シトマは一歩引いてぼくに道を開け、右手を差し出して握手を求めた。ぼくはその手を取る気になれなかった。呼び止める声を無視して暗闇に向かって進み、デイパックのポケットからライトを取り出した。

「電源生きてるぜ、ここ」

 周囲が急に明るくなった。シトマが壁の照明スイッチを入れたのだ。ぼくは広い通路に立っていた。シトマは後を追ってくる。

「お、おい!」

「やめておきます。うまく言えないし、助けてもらって言うのも悪いけど、気が向かないです。だいたい、どうしてぼくが旧世紀のハードをさわれるって思ったんですか」

 シトマは早足でぼくに追いつき、歩きながら話しかけてくる。

「すまん。じつはきみが伸びてるあいだに、学生証を見せてもらった。オオツキ中央大の歴史専攻コースって言や、旧世紀のテクノロジー研究の名門だ。それが研究目的で来たってんだ。こりゃマジもんだろ」

「荷物開けたんですか」

「そりゃ身元確認するだろ」

「ほかには」

「小型の解析用マシンと、読書用リーダー……」

 シトマの声はボリュームダウンしていった。

「もういいです」

 ぼくは彼女をシトマに渡す気はなかった。シトマには、彼女への敬意が無いように感じられた。解りやすく言い換えるなら、名作と製作者への敬意といったところか。

旧世紀、彼女は広く人々に愛され、やがてネットワーク上に数多のコピーと亜種が作られた。その一部は海水面上昇による物理的な破滅を免れ、いまも残っている。それが意味することを彼は知らないのだ。

 ぼくのリーダー端末での彼女の姿は、現存するコピーと亜種の生まれた時期を辿り、最もオリジナルに近いと推測した姿だ。それを高級メーカーの機器をクラックしてまで傍に置きたい理由を、彼は知らないのだ。

 ぼくはふと、ここに来る前の数か月間のことを思い出した。髪を整え、体に合わないスーツを着て、瓶詰のアンチョビみたいに並んで詰まって、死んだ目をした面接官から同じ質問を受け続けた数か月間。研究テーマは旧世紀のデジタルコンテンツとハードウエアの研究。それはいいですね、ロマンがある。従業員の忠誠心統制のためのコンテンツなんか作れないですかね。え、無理?

 一昨日、ぼくは何通目かわからなくなったお決まりのメッセージを受け取った。ぼくは自分でもよくわからない衝動にまかせ、デイパックに愛用の機器だけ入れて、夜の漁港から船に乗った。

 ぼくはとにかく、オリジナルの彼女に会いたかった。これはぼくの推測だが、彼女をここから『連れ出す』ことは不可能に近い。だから見るだけだ。そのためにここに来た。そのあとのことは、そのあとでいい。

 ぼくは同じ形のドアが並ぶ殺風景な通路をまっすぐ進んだ。巨大な換気装置と浄水システムが鈍く唸る横を通り過ぎ、大陸が描かれた世界地図と立派な机の前を抜け、突き当りの大扉を開く。

 周囲は暗く、つんと埃っぽい臭いがする。空気の流れから開けた場所に来たことがわかる。手元のライトをつけるとスチール棚の列がおぼろに見えた。棚には紙の本の背表紙が規則正しく並んでいる。

「待てって!」

 シトマが急ぎ足で追いついてきた。知るか。ぼくは照明のスイッチを探した。壁際に何かの気配を感じ、ライトを向ける。光の円の中に、思いもよらぬものが浮かび上がった。ぼくは声をあげそうになり、しかし結局声は出なかった。

 壁際のベンチに、干からびて骨の見える死体が二つ。

「おれの説明を聞いておけば心の準備とかできたのに」

 シトマはぼくの横に立った。照明のスイッチはすぐ目の前にあったが、彼はそれに手を伸ばさなかった。

「ここはさ、書庫を簡易のシェルターにしたものなんだ。この街がいよいよヤバいって時に、ここに避難しようとしたんだな。でも入れたのは一握りだ。多くの人間は外に残された。でも当のシェルターは――わずかな人間とたくさんの物資を中に入れたあとで、水中の缶詰になった」

 シトマは死体の頭部を指さした。片方の頭蓋にはひびが入ってへこんでいる。もう片方の首のあたりには、錆びた金属片が見える。

「もともと、数か月やり過ごせば出てこられるって、そういう見立てだったんだろう。それが永久に出られなくなった。よそのシェルター跡もだいたいこんな感じだ。物資の奪い合いが起きたんだろうよ」

 シトマはかがんで、そばに落ちていたボロ布を二つの死体にかぶせた。乾いた塵がぽろぽろとベンチからこぼれ落ちる。ぼくは言葉もなくそれを見下ろした。

「皮肉だよな、自分だけ助かろうって連中はみんな死んで、生き残ったのはシェルターに入れなかった連中だったわけだ」

 シトマは壁のスイッチを付けた。淡い光が室内を満たした。棚が規則正しく並び、縦横に通路を作っていた。床のカーペットにはあちこちに大きなシミが残っていた。シトマはぼくの前を進み、ぼくは壁沿いや棚の陰にあるものを見ないようにしながら後に続いた。

 よく見ると棚の高い位置には銃弾の跡がある。棚に入ったまま切り裂かれて黒く汚れた背表紙の並びが視界に入り、ぼくは目を伏せた。あちこちで本棚が倒れて、焼け焦げた跡が残っていたが、なぜか床に落ちている紙の本はなかった。

「でも誰もが知ってる通り、外にいた人間も大変だった。土地と資源をいっぺんに失って、結局は世界中でここと同じことが起きた。まだ続けてるところもある」

 ぼくはやるせない気持ちでシトマの背中を見た。サブザックの肩紐越しに何かが動いたのを見た気がした。

 かすかなモーター音がして、前方の棚の陰から白いバケツのお化けのような物体が出てきた。一瞬身構えたが、それはぼくにとって見覚えのある機械だった。

「自動配架ロボットだ。講義資料で見た」

「さすが。詳しいな」

「動いてる。すごい」

 バケツのお化けを側面からみると、荷台と配架用アームがついていることが判る。自動配架ロボットはアームで書棚から本を抜き取り、背表紙のラベルに描かれた正方形の文様を読み取り再び戻す。それを粛々と続けている。いまや通うものもいなくなった図書室で。シトマは小声でロボットにお疲れさんと言った。

「墓荒らしが墓守にご挨拶もねえもんだ」

 シトマは肩をすくめてみせた。ぼくらはまさに、海中から顔を出したカタコンベを漁る盗掘者だった。

「おれが探索したのはここまで。きみの調べでは、どうだい。ここにウィステリアがあるとすると、どこだい」

 ぼくは黙っていた。

 シトマはぼくに言った。

「サトー君。きみは、ここにある本がここの人たちのなぐさめになったと思うかい」

 ぼくにはわからない。文字だけのコンテンツにそのような力があったかどうか、ぼくにはここの惨状から推測するしかない。

 シトマはぼくらが入ってきた戸口を見た。ベンチの上には二人分の死体が残っている。

「おれは、そうだったと思いたいんだよ。せめて最初のうちは、そうだったと」

 シトマは本棚の本を手に取って開いた。

「大昔から、苦しいときも、豊かなときも。ひとは本を読み、そして書いてきた。人の苦しみを描いた本も、そこから希望を見つける本も、たくさん書かれてきた。でも世界が最も苦しかったこの百年、人はそういうものを新たに生み出せなかった。VRが普及して、表現は過去にないほど豊かになったのに」

 シトマはぱらぱらと本のページを繰る。彼が見ているのは文字だけで構成された物理メディアだ。表紙は破れて無くなっている。

「この百年で、人は何を失ったのか、それは取り返すことができるもんなのか。こういう仕事をしてると、どうしても考えちまう」

 自動配架ロボットが室内を一周して戻ってきた。シトマはその荷台に本を乗せた。

 アームが本をつまみ上げ、元の棚に戻す。棚板には深い傷がえぐられていた。ぼくは室内を見渡し、シトマの言葉について考えた。かつてこの街と一緒に人類が失ったもの。いまだ取り返せぬもの。

「おれもまあ、要はウィステリアにへんな期待をしてんのよ、たぶん」

 ウィステリアはいわばVR表現の祖だ。当時のコンピュータの拙い処理能力と通信速度で彼女の魅力を表現するため、開発者は『描き切れぬ美』という方法を採った。それはあまりに非効率な手法で、当時の彼女の崇拝者たちでさえ狂気の沙汰と呼んだほどだ。

 ぼくはうまい言葉が見つからないまま床面を指差した。シトマは怪訝な顔をした。

彼女の開発者たちはまず、普及型のコンピュータなど遠く及ばぬスペックの機器で過剰なまでにディテールを追求した。製品として世に出すときには情報量が大幅に圧縮されると判っていながらだ。

 しかし製品版の彼女を前にした人々の心は、輪郭線の隙間数ピクセルの色調変化に、コマ落ちした仕草の不均一な移動量に――それは圧縮過程で落とされ、あるいは平均化されたデータの残滓でもある――様々なニュアンスを感じ取ったのだ。

それを実行したマシンの規模から推測すると――。

「もしかして、下か?」

「ええ、下です。たぶん、ひとフロアまるまる」

「階段を探そう」

 ぼくらは同時に頷いて左右に別れた。

 数十分後。

「どうだ?」

「だめです。おかしいな……」

 ぼくとシトマは書庫の入り口で合流した。ぼくの推測では、このシェルターにはさらに下があるのだが。

「一旦キャンプまで引き上げねえか……腹減った」

 シトマは大きく伸びをした。そうですね、とぼくが答えようとしたとき、書庫の方向、ずっと奥のほうで大きな音がした。自動配架ロボットのひそやかなモーター音とは違う、金属音。ちょうど、シャッターの閉まるような。

「いま、なんか音したよな」

「ええ」

 シトマは書庫の最奥、受付カウンターのような机を乗り越え奥に入った。

「あったぞ」

 外からは見えない位置にパネル付きの引き戸。掴んで引いてもびくともしない。

「試してみていいですか」

 ぼくはデイパックを開けて、リーダー端末と一緒に持ってきた解析用マシンを取り出した。パネルのカバーを外して、中の配線に直接、解析用マシンのケーブルを接続する。

 このタイプは講座のナレッジベースで見たことがあった。開けるにはロック機構の電線を切るのがシンプルだが、その電線はおそらく壁に埋めてある。

「難しそうだな」

「もうひとつのアプローチとして、パネルから決まった形式のデータを送り込めばいいんですけど、よくある形式とフラグの位置が違うみたいで」

「パスワードみたいなもんか?」

「本来は入室用のカードをこのパネルに当てると開くんです。カードの代わりに、正しいカードを当てたという信号を送り込めばいい」

「カード?」

 シトマはその場を離れ、すぐに戻ってきた。手にはプラスチック製の汚れたカードを持っている。

「これ、どうよ」

「どうしたんです、それ?」

「そのへんのみなさんから借りてきた」

 シトマは書庫の方向を親指で指した。聞かなきゃよかった。シトマはカードをパネルに押し当てた。変化はない。

「入れる人とそうでない人がいるのかも」

「そうか。まだあるぞ、カード」

 シトマの左手にはカードの束があった。六枚目のチャレンジで鍵が外れ、勢いよく扉が開いた。ぼくは解析用マシンをデイパックに戻した。

 ぼくらは奥へ進んだ。書庫を出る前に振り向くと、自動配架ロボットはベンチの下のカーペットに蒸気洗浄アームを押し当てていた。清掃機能つきの型だったらしい。薄明るい中で、バケツのお化けのようなボディが煤けて見えた。引き戸はシャッターのような大きな音を立てて閉じた。

 扉の先は四角く螺旋を巻いた階段だった。照明の数は少ない。はるか下の薄闇からこの引き戸と似たシャッター音が響いた。

「なんか居るな」

 シトマとぼくは顔を見合わせ、ゆっくりと階段を下りた。階段を下り切ったさらに下にも空間が続いている。

階下の扉は同じカードで開いた。照明の光は強く白い。部屋の中央に丸テーブルのような巨大な装置があった。

 ぼくは装置に近づいた。全力で急いだ数歩が妙に遅く感じられた。この装置は巨大な映像投影モニタだ。ぼくはモニタのふちに電源ボタンを見つけて、押した。

 部屋全体が機器の発する低い唸りで満たされ、数秒後には静かになった。モニタに淡い水色の光が満ちる。複数の制御メニューの中にぼくは彼女の名を見つけた。興奮に震える手でその項目を呼び出す。

 光の中に少女の姿が浮かび上がった。

『こんばんわ。午後六時十八分をお知らせするわ』

 頭の両側で束ねた髪、つんと澄ましたような表情。数多のコピーとアレンジを経るよりはるか前の姿でありながらなお、その人であるとわかる。ウィステリアだ。

彼女は白いドレスのスカートを軽くつまんで会釈をした。淡いピンクの髪がそっとこぼれて揺れる、その様子は藤の花の房のようだ。

「髪の色、ピンクの藤だったんだな」

 シトマはぼくの隣で彼女を見ていた。ウィステリアとは、藤の学名だ。

『初めて見る顔ね。今日はどういった用かしら』

 ドレスにはフリルが上品にあしらわれ、さし色に濃紺のリボンが飾られている。裾を飾るレースには緻密な文様が描かれていた。リーダー端末では表示不可能だろう。

頭上と足元からの優しい光を受け、肌は輪郭線の間で輝き、あるいは淡い陰影をゆらめかせた。

「すごい」

 目を離すことは許されない、彼女の動きを一瞬でも見逃してはならない、そう思った。息遣いに合わせた胸の動き、瞬きする目を縁取るまつ毛、何気ない仕草一つ一つが膨大な情報量と存在感を持っていた。彼女は確かにそこにいた。

 ふと、彼女は部屋の別の方向へ笑いかけた。穏やかな風が揺れるような笑顔。彼女の視線の先には続き部屋への扉があり、男の子が立っていた。

 男の子はぼくと目が合うと、続き部屋へと駆け戻った。

「あっ、おい!」

 シトマは小走りに後を追った。ぼくはそれを追って隣の部屋に入った。シトマは戸口のところで立ち止まった。室内にはたくさんの本が散らかっていた。それと、生の玉葱がひとつ。シトマは玉葱を拾った。歯形がついている。

「おれのキャンプから持ってきたのか」

 男の子は答えずシトマを見上げている。ぼくは小声でシトマに言った。

「この子、もしかして」

「たぶん、例の『幽霊』だ。カメラの位置をもっと下げとくべきだったな。 この子の身長なら頭のてっぺんがカメラの視界にかするかどうか、ぎりぎりのところだ。謎が解けたぜ」

 シトマはかがんで男の子と目の高さを合わせた。

「親御さんは、どうした。こんなとこで。どっから入ってきた」

 男の子は黙っている。シトマはふむ、と腕を組んだ。

「なあお前、腹減ってないか?」

 ぼくは二人をよそに、左右に見える部屋を覗いた。右の部屋に透明な棺のようなものが三つある。一つは空だ。一つは霜が降りていて、中が見えない。もう一つは何が入っているのかよくわからない。ケース表面が割れ、書庫で見たようなものが見える。

 ぼくは何も言わずに左の部屋を見た。そこが彼女の真に座すところ、旧世紀の対話型エージェント『ウィステリア』の本体だった。


* * *


 男の子は無口だがこちらの言うことは通じているらしい。シトマの提案を聞いてちゃんとキャンプまでついてきた。

 シトマのキャンプの荷物は大部分が食料だった。コンテナの中に数種類の野菜と缶詰、大きな水のタンク、海水ろ過用のフィルター、固形燃料。小さめの医薬品キットも入っている。

「玉葱、生じゃうまくなかったろう?」

 シトマは中を抜いた玉葱にコンビーフを詰め、それを鍋にむりやり押し込んで蒸し焼きにした。主食は粉っぽい非常用ビスケットだ。

「この玉葱、でかいですね?」

 玉葱が一つずつ豪快に乗せられた皿を見てぼくは笑った。

「せっかくだから玉葱を強調しようと思ってよ。火通ってるか?」

「まあ、真ん中コンビーフですし。通ってなくても、ええ」

「文句言うなら返しなさい」

「嫌です。旨いし」

 男の子は黙ってフォークを動かしている。いい食べっぷりだ。

食事を終えたころにはあたりはすっかり暗くなり、LEDランタンの明かりが互いの顔を照らすようになっていた。視線を海に向ければ月光が静かに波を光らせている。周囲の廃墟の黒々とした影の間で、波の輝きがひどく清楚だった。

「あー、あんなにでかいとはなあ、彼女。きみ知ってた?」

 シトマは夜空を仰いだ。

「いえ、予想していただけで」

 書庫と同じほどはあろうかという室内の半分を埋めるように整然と並んだ紺色の箱。それが『ウィステリア』のプロトタイプを納めたストレージだ。

 紺色の箱は一つ一つが人の背丈ほどのケースになっていて、その中にびっしりとデータ保存用のメモリーが詰められている。それが無数のケーブルで複雑につなぎ合わせられ、一斉に補完しあって彼女の姿を顕現させるのだ。

 個人向けコンピュータの片隅を使用するに過ぎないつつましいものを作るために、あのような機器で存在感を追求したのだ。これは狂気の沙汰と呼ばれても仕方がない。

 だが結局彼女は多くの人に愛され、その本体が海中に忘れられたいまでもその記憶は残ることとなった。そのことがぼくを畏れとも敬いともつかない気持ちにさせた。

「ああ、どうしようかな。目論見が完全に外れちまったっていうか。もっと一般的なサイズだと思ってたんだよ、ストレージだけ懐に隠して持っていけるみたいな。無理だろ、あれ」

 シトマはうつむいて頭を掻いている。天を仰いだり地を見つめたりと忙しい。

「じゃあそっとしておいたら?」

「きみも厳しいねえ」

 シトマは笑ってから、急に真面目な顔になった。

「でもよ、ちゃんと大事にされてたんだよな、彼女。あの部屋だけほとんど荒らされてなかった」

 だよな、うん。シトマは独り言のように頷いていた。それから男の子のほうを見た。

「そうだ、なあ、お前さ。あそこに一人でいたのか?」

 男の子は頷いた。

「あの本は? 書庫から持ってきてたのか?」

 もう一度頷く。

「ずっと? 一人で? 本を読んで?」

 シトマは顎に手を当てて黙り込んだ。

 シトマの上着のポケットで電子音が鳴った。シトマは眉間にしわを寄せた。端末を取り出し、表情を険しくする。

「移動するぞ。カバン持て」

「なんですか一体?」

 シトマは男の子の手を引き早足で歩いていく。ぼくはその後を追って階段を下りていく。

「見ろ」

 渡されたリーダー端末にはカメラからの映像が届いていた。暗いフロアの映像で、遠くに明かりを点けていない船が何艘か映っている。月明かりがなければわからなかった。

「海賊だ。このあたりなら、カノか、タケヤマか。そのへんの沿岸を縄張りにしてるやつだ。こんなとこまで来ねえと思ってたんだが」

「海賊?」

「ウィステリアの部屋まで逃げよう。あそこなら、カードがなけりゃ開けられん」

 ぼくらは空のスチール棚が並んだ通路へ逃げ込んだ。はるか背後で人の声が聞こえた。なんか音がしました、こっちです、と。

 シトマは舌打ちして、上着の内ポケットから何か取り出した。伸縮式の金属棒を伸ばした先に布の房が付いている。

「ハタキ!?」

「そりゃ本屋つったらハタキだろ」

 鉄扉が細く開いて、人影が二つ見えた。

「下がってろ」

 言うが早いかシトマはハタキの柄で一人目の首筋を打ち据えた。続けて二人目。飛び出してから二人を気絶させるまで、ほとんど音がしなかった。

 シトマはぼくにリーダー端末とカードを渡した。

「いいか、こいつから沿岸警備隊に通報しろ。それからスワコの担当者に連絡を頼む。ミヤコシって男だ。真面目な奴だから夜中でも出る。事情を話して、沿岸警備隊を急がせるように会社から連絡させるんだ」

「え、でも」

「おれは安全を確保してくる。そういう約束したろ」

 鉄扉が大きく開いて、さらに何人かこちらに歩いてくるのが見える。

 ぼくと男の子を奥へ走らせ、シトマはその場に立った。途中で一度振り返ると、シトマは三人目が倒れこむ脇を潜り、ハタキの先を四人目に叩き付けたところだった。布の房から青白い火花が散る。スタンガンだ。続けて五人目、ハタキを構え直しつつ低い蹴りで足を払う。

「行け!」

 ぼくは男の子を連れて奥へ走った。

 書庫のカウンターの奥から階段に出て、ぼくは足を止めた。ぼくは言われたとおりにシトマの端末から通話を試みる。

 通話チャンネルはオフラインだ。何度試しても相手は出ない。いや、オフラインなのは相手ではない。この端末だ。シェルターの奥まで通話の電波が届かないのだ。

 ぼくが愕然としているところへ、シトマの端末が電子音を鳴らした。シェルター内部に置かれたカメラから映像が届いている。通路を見まわしながら歩く男たちの姿が写っていた。みすぼらしい服装に、銃らしきものを持っている。シトマの端末はしばらくの間、男たちが通路を行き来し、書庫の本を床にぶちまけ、目を引いたものを適当に持ち出していく様子を写していた。

 ぼくは男の子を連れてさらに奥へ、ウィステリアのモニタが置かれている部屋に来た。もう一度モニタを起動する。しかし彼女を呼び出すわけではない。

 ぼくは制御メニューの中にシェルターの設備をモニタする機能を見つけた。この部屋のコンピュータはシェルターのコントロールルームも兼ねていたのだ。

 施設全体の状況がまとめて表示される。電力、水と換気、監視カメラ、配架ロボット待機状況、エレベーター動作状況。まだぼくが知らない空間の状況も含めて総ての情報が一気に表示される。シェルター内の監視カメラから、男たちがシトマをホールドアップしているのが見えた。

 やがて男たちは書庫を物色するのを終え、シトマを連れて出て行った。ぼくはおそるおそる書庫に出た。男の子は置いてきた。

 鉄扉から外の様子をうかがうと、海賊たちが明かりを持ち込んでフロアを照らしていた。首領らしき人物がシトマに銃を向けて何か話している。ほかには、シェルターから持ち出したものを品定めする者、周囲を警戒する者、シトマに殴られた者を叩き起こす者など、十人ほど。

 ぼくの手の中でまた電子音。見ればシェルターの外に置いたカメラから、外の様子が届いている。その場にいる者たちの立っている位置と持っている武器がよく見える。全員がこのフロアに集まっていることも。

 外のカメラから通信が届くということは。ぼくは通話チャンネルが何とか利用できることを確認した。沿岸警備隊と、スワコ社の担当者に連絡を――いや、呼び出し音を数回鳴らしたところで思い直した。ここで通話すると外に丸聞こえだ。ぼくはカメラからの映像をいくつか、担当者あてに送信した。

 ぼくは首領らしき男がシトマを殴りつけるのを見たが、ひとまずはウィステリアの部屋に戻ることにした。いま考えたアイデアを実行に移すために。


* * *


 準備に少し時間がかかってしまった。海賊たちは戦利品の配分にかかっている。ぼくは音を立てないように鉄扉の隙間から出た。柱つたいに暗がりの中を迂回し、隅で座っているシトマの背後に回る。

 シトマが頭目らしき男と話しているのが聞こえる。

「なあ、この奥に金目のモン見つかったんだろ。言えよ」

「いや、ねえんだよ。おれも無駄足でよ」

 頭目は銃の握りでシトマを殴りつけた。

「嘘はもういいんだよ、あんたも殴られ損だろう」

「まあ、あっても言わねえけどよ、たぶん」

「あん?」

「おれの商うもんは、あんたらじゃパァにしちまうもんばっかりだからな」

 頭目はシトマを蹴り倒し、仲間のもとへ歩き去った。ぼくは小声でシトマに呼びかけた。

「シトマさん」

「あっ。バカお前、なんで来やがった」

「いいから黙って」

 シトマはロープで後ろ手に縛られていた。額から血が出ている。ぼくは結び目を解きながら、鉄扉の隣の何もない壁を見た。

 そろそろだ。

「何だ?」

 最初に気づいたのはシトマだった。重苦しいローラー音と、かすかな振動が床のコンクリートに伝わった。それは次第に大きくなり、フロアの壁を揺らすように響いた。

 やがて何もない壁面に亀裂が入り始める。メキメキと音を立てて壁の薄いコンクリート壁が割れ、もう一つの重厚な鉄扉が姿を現した。

 海賊たちは壁の割れた方向に銃を向けた。フロアを揺らす振動が止み、新たな鉄扉は上下に開く。その中から全部で二十九体の自動配架ロボットがフロアになだれ込んだ。

 海賊たちは自動配架ロボットの群れに気を取られている。誰かが発砲し、ロボットの筐体を浅くへこませた。

 ぼくはシトマを立たせて奥へ逃げようとした。

「なんだありゃ?」

「貨物用エレベーターがあったんですよ!」

「そうじゃねえ、ロボットだ。きみがやったのか」

「ぼくは設定を書き換えただけです。エレベーターは、あの子が」

 自動配架ロボットは突然加速し、海賊たちにアームを突き出した。本を掴む筈のアームは海賊の一人を軽々と持ち上げ、その場で投げ落とした。別のところでは、蒸気洗浄アームが振り回され、海賊たちを床の際に追い立てていた。何人かは海へ落ち始めた。

「シトマさん、逃げますよ」

 ロボットの一台がアームを振り上げてこちらに向かってくる。

「百七十センチ前後の物体を片付けの対象にするんです。敵味方の区別までは付かないから、巻き添えになっちゃいます」

 シトマはぼくの腕を振り払い、戦利品の並べられた方向へ走った。

 シトマは向かってくるロボットのアームをスライディングで抜き、戦利品の山からハタキを拾い上げた。

 銃声が繰り返されるうち、数体のロボットはその場で動かなくなった。繰り返し銃弾を受け、一台また一台と停止していく。

 海賊の一人がシトマに気づき銃を向ける。シトマは背後にいた自動配架ロボットを盾にしてやり過ごす。ロボットがシトマに向けていた蒸気ノズルは海賊を直撃する。シトマは盾にしたロボットの荷台を踏み、真横に跳んだ。荷台が銃弾を受けてはぜる。着地と同時に銃撃の主へハタキを振り下ろす。電撃が相手に刺さる音がした。

 倒れた者、転倒した者、もとからそこに落ちていたものを問わず、ロボットの配架用アームが次々と海上へ押し出していく。シトマはその隙間を縫って走り、ぼくの隣へ転がり込んだ。

「無茶苦茶ですよ!」

「どっちがだよ!」

 海賊たちはあらかた海へ落ち、残りの者も自ら飛び込んで仲間の船へ泳いで行った。頭目は最後までロボットたちを避けながら残っていたが、ぼくらが隠れていた柱に銃弾を数発撃ちこむと、悪態をついて船へと跳んだ。

 自動配架ロボットたちは崩れた床の際まで進んでいく。そこから先に片づけるものが何もないと判断すると、ロボットたちはそれぞれ自動停止した。残ったのは八台。少し胸が痛む。

 空は白み始めていた。四艘の船が明け方の海を遠ざかっていく。別の方角から、二隻の巡視船がそれを追っていく。あの揃いの塗装は沿岸警備隊だ。

「おい、あれきみの船じゃないか」

 確かに、去っていく船の一つはぼくが乗ってきたものだ。

「帰り、スワコの船に乗っけて貰うしかねえな。あの坊やはどうした」

「シェルターで待ってます。迎えに行きましょう」

「待った、その前に通信を一本入れさせてくれ」

 シトマはぼくから端末を受け取り、通話チャンネルを開始した。相手はスワコ・ブックマークス。

「シトマです、どうも。ああ、うん。助かった。それで、調査の件。キャンプを設置した建物で書庫を発見した。五万冊ってとこか。あと、ウム……」

 シトマは口ごもり、ぼくのほうを見た。それから、まだほの暗い天井とぼくを交互に見て、急にがばと片手をあげて拝むような仕草をした。

「あと、旧世紀のコンピュータ・システムがある。規模はまあ……わかんねえな、部屋一つ分だ。初めて見た。……うん、それしかないだろうな。すまん」

 通話を終えたシトマは、まずぼくに謝った。

「数時間したら、スワコの回収部隊が来る。書庫の本はスワコ・ブックマークスが持っていく」

「彼女は?」

「ウィステリアは分解して運搬するが、なにしろ物が物だ。一旦そのままにして、手段を検討ということになるだろう」

「そうですか」

「すまんな」

「仕方ないですね」

 ぼくとシトマはウィステリアの部屋へ男の子を迎えに行った。男の子はぼくらが部屋に入るなりシトマに抱き着いた。

「おうおう、心配させたな。とりあえずまあ万事オッケーよ」

 シトマは男の子の頭を撫でた。シトマの額から流れた血はすでに乾いて固まっている。

 ぼくは巨大モニタを操作してウィステリアを呼び出した。

『おはよう。午前四時三十八分よ。早いわね?』

「おはよう……」

 あまりにも自然な口調と愛らしい仕草に、うっかり返事をしてしまう。彼女は男の子に視線を向けた。

「そこのあなた、伝言があるわ」

 男の子はシトマの脚にくっついたまま顔を上げた。

「『もしここに外から人が来て、それが悪いひとでなかったら、一緒に外に行きなさい。ここに持ち込めなかったもの、持ち込んだけど壊れてしまったものが、外にはたくさんあるわ。あなたの未来をこの目で見られないのは寂しいけれど、あなたの未来がよいものであることを祈っています』ですって。わかった?」

 シトマは彼女を見つめ、それから同じように彼女を見つめる男の子を見た。シトマは男の子からそっと体を離すと、かがんで目の高さを合わせた。

「なあ、坊や。おれはお前さんから見れば、ゆうべのこわいおじさんたちの同類だ。おれはここに、お前さんの一切合切をかっさらいに来た。お前さんのものに売約済みの札を貼り、お前さんを育んだすべてを売り飛ばすために来た。だが、おれがゆうべの連中と違うのは、おれは本屋だってことだ。仕入れには対価を払う。わかるか」

 男の子はシトマの言葉をじっと聞いている。

「そこで提案なんだが、お前、おれの家に来ないか。それなりの歳になるまで、飯と寝る場所、あと望めば学校にも行ける。ここほどじゃねえが、本もある。どうだろう、この取引」

 シトマは遠慮がちに右手を差し出した。男の子は少しの間シトマの顔を見ていたが、無言でその手を取った。

 ふと、モニタに浮かぶ彼女が微笑んだような気がした。それがぼくの気のせいだったのか、それとも常軌を逸した緻密なシステムの演算結果なのか。それはぼくには判断しかねた。

 三人でシェルターを出ると、外はちょっとした騒ぎだった。海上に輸送船が停泊し、作業服を着た人たちがボートでぞろぞろ上陸してくる。

「シトマさん!」

 濃紺のスーツを着た男が作業服をかき分けて走ってきた。

「怪我したんですか?」

「大した怪我じゃねえよ。それより、帰りに二人ほど一緒に乗せてもらえねえか」

「こちらは?」

 スーツの男はぼくとシトマを交互に見た。

「ここで会った。オオツキの学生さんだそうだ」

 ぼくはスーツの男に会釈した。

「これはどうも。スワコ・ブックマークスのミヤコシと申します」

 ミヤコシとぼくはリーダー端末でプロフィールデータを交換した。表示されたデータにはスワコ・ブックマークスの調達部門とある。

「オオツキの歴史専攻。へえ」

 ミヤコシは受け取ったデータを見て上品な笑顔を見せた。

「オオツキの学生さんなら引く手あまたとは思いますけど、万が一行くとこなかったら、うちで本屋やりません?」

「ハタキで海賊と戦うのは、ちょっと」

「えっ、あのハタキ使ったんですか? ほんとに? 世の中何があるかわからないものだなあ」

 ミヤコシは感心したような顔だ。シトマは反論した。

「ミヤ君なにその言い方?」

「だってコミックのヒーローにあこがれて作った趣味のグッズでしょう?」

「失敬な事言うなよ! ちゃんと運用してるよ!」

 シトマとミヤコシは言い合いながら笑い出した。作業員たちが鉄扉の前に集合し、大量の折り畳み式コンテナが持ち込まれた。ミヤコシは作業内容を口頭で確認し、作業開始の指示を出した。

 回収作業が始まった。作業員たちは畳んだコンテナを持って鉄扉の中に入っていき、中身のつまったコンテナを抱えて出てくる。男の子と二人でキャンプを撤収していると、ボートが輸送船とこの建物を往復する様子がよく見えた。キャンプの機材は作業員たちが持って行った。

 ぼくらは回収作業の様子を見に書庫まで降りて行った。手早く、しかし丁寧に。本棚の本が次々とコンテナに詰められ、運び出されていく。カウンター手前の空いたところにはシーツを被せたものが並べられていた。かつてのここの住人だろう。

 シトマとミヤコシがカウンターの奥から出てきた。『部屋一つぶんのコンピュータ・システム』の下見に行っていたのだ。ミヤコシは興奮を隠しきれない面持ちで、あれはいいものだとしきりに呟いていた。ミヤコシは頬を上気させたままぼくらに言った。

「帰りはどうします? いちおう、ヒノ港の病院にも話を通してありますが」

「いや、いい。それよりおれは文明に浴したいぜ。熱い風呂と、冷えたビール」

 シトマとミヤコシが笑いあっているところで、ミヤコシのポケットで端末が鳴った。ミヤコシは通話に出て、顔色を変えた。すぐさま書庫内に声を張り上げる。

「全員作業中断!」

「どうした?」

「他の階で大規模な崩落が起こりました。倒壊の危険があるので一旦避難せよとのことです」

 作業員たちはコンテナを置いてシェルター出口に向かった。建物全体が軽く揺れた。

「皆さんも避難してください」

 そう言うミヤコシは動く気配がない。

「私は現場責任者ですから。出るのは最後です」

 シトマは男の子とぼくを出口へと促した。

「出るぞ。おれたちが出ねえとミヤ君が困っちまう」

 もう一度揺れがあった。作業員が何人かよろめいたが、すぐに持ち直した。最後の作業員が書庫を出て、ぼくらもそのあとに続いた。男の子は一度カウンターのほうを振り返ったが、すぐに歩き出した。

 揺れは次第に強く、その間隔は次第に短くなっていった。通路の果てに鉄扉が見える。シェルターの出口だ。ぼくはふと、このシェルターの最奥でみた彼女の微笑みを思い出した。

 彼女を置いていきたくない。

 そう思うが早いか、ぼくの足は勝手に反対方向へターンしていた。後ろでシトマの声がした。

 廊下を抜け、書庫を抜け、階段に出る。頭上から小さなコンクリートのかけらが落ちてきた。ぼくは階段を駆け下り、彼女の部屋の扉に汚れたカードを当てた。

 ふいに襟が引かれ、ぼくは階段の上にあおむけに倒れた。開いた扉の前に巨大なコンクリート片が落ちていた。

「バカ!」

 シトマが怒鳴っているが、ぼくは瓦礫に阻まれた彼女の姿を見ていた。階段のはるか下で、海水の渦巻く音がする。どこか遠い耳鳴りのように。

 急にぼくの体が持ち上がった。シトマが肩に担いだのだ。

「出るぞ!」

 彼女の姿が遠のいていく。四角く螺旋を巻いた階段を戻り、ぼくはカウンターの上に投げ落とされた。

「走れ!」

 シトマはぼくを立たせて先を走らせ、二人でシェルターの出口まで駆け戻った。

「こっちです!」

 ミヤコシがボートへ誘導する。ぼくらが飛び乗るとボートはすぐに建物を離れた。

建物の形はぼくが来た時とずいぶん変わってしまっていた。柱を折り、床を落として建物は次第に傾いていく。やがて周囲の海面にコンクリートをまき散らしながら、とうとう足場程度の頭を出すだけの姿となった。

 シトマはボートの上で息を切らし、ぐったりと座り込んでいる。ぼくはただ彼女がいたはずの海上を見つめていた。


* * *


 あれから二週間が経った。

 ぼくは講座に顔を出す気分にもなれず、オオツキの下宿でただ無為に過ごしていた。瓦礫越しに見た彼女の姿をぼんやりと思いだす。記憶は遠い夢のようだ。あれほどの存在感を持ったものが、過去の開発者の情熱の証が、いまや永久に失われた。そしてぼくはここで呆けている。

 要するに、ぼくは死に損なったのだ。ぼくは何度目かわからないため息をついた。

リーダー端末が呼び出し音を鳴らした。放っておけばそのうち止まる……筈だった。ぼくはしばらく呼び出し音に耐えていたが、観念して通話に出た。

 通話の主は講座の教授だった。ぼくに客が来ているからすぐ来いという。ぼくは仕方なく着替えて講座に向かった。客は『四十万と書いて』シトマと名乗ったという。

講座のドアを開けると、ゼミ用の席にシトマとミヤコシがいた。

「先日はどうも」

「よう」

 ミヤコシは礼儀正しく、シトマは粗野に挨拶をした。

「きみのことはシトマさんから聞きました。それはもう、かなり面白く」

「面白く?」

 なんだそれは。

「すまん、いろいろ喋っちまった」

「じつは、きみを勧誘しに来たんです。旧時代のハードウエアについて、とても詳しいと聞いたので」

「はあ」

 ぼくの間の抜けた相槌をよそに、ミヤコシは講座のプロジェクターに画像を表示させた。見覚えのある紺色の箱、その中に入っていた物理メモリ、そして――

「彼女だ」

 大部分が欠落したテキストデータの列。そのなかに見覚えのある言葉があった。

――*ち込めなかったもの、持ち込ん****れてしまったものが、外にはたくさん*るわ。

 これは彼女の台詞データだ。

「これ、何ですか?」

 ぼくは考えるよりも前に尋ねていた。

「じつはあれから、崩落現場の調査をしたんだ」

「我々は『ウィステリア』の物理メモリーをいくつか回収しました。これはその中から復元を試みたものです」

 ミヤコシは視線をぼくに据えて話を続けた。

「崩落現場で『ウィステリア』のパーツをサルベージする計画が進行中でして。実行に移せるのはもう少し先になりそうですが。そのパーツを回収したあとに、データを補完できる人材が必要なんです」

「補完? 復元ではなく?」

「当たり前と言ってしまえばそうなのですが、彼女のデータを完全に復元することはできないでしょう。水没したメモリーからの復元作業自体がそういうものだし、そもそもハードウエアをすべて回収するのが、おそらく不可能です。だが彼女をこのまま海底に眠る幽霊にしてしまうのは、あまりに惜しい」

 シトマはミヤコシの話を聞きながらニヤニヤしている。

「ですから我々としてはもっと我々の時代らしいアプローチをしようと考えました。つまり、オリジナルからの編集を前提とした再構築です。リーダーの本と同じですね。そこで、本物の彼女はどうであったか、どうするのがいちばん彼女らしいか、それを埋めることのできる人材が必要になるわけです」

 ぼくはようやく話がつかめてきた。

「ミヤコシさん、それは画質と演出の凝り方の問題です。ぼくにできることじゃない。そもそもぼくがそれをやったとして、完成するのは彼女じゃない」

「そうかもしれません。でも思い出してください。彼女が、いままで人々に忘れられなかった理由を」

 旧世紀、彼女は広く人々に愛され、やがてネットワーク上に数多のコピーと亜種が作られた。その一部は海水面上昇による物理的な破滅を免れ、生き残った。それが意味することをぼくは考えた。

「いまの世界でそれができる人。オリジナルの彼女に敬意を払い、これからの彼女に愛情を注ぐことのできる、そういう人はたぶん、きみしかいない」

 これは想像以上に無茶な話だとぼくは思った。同時にミヤコシの目がこれ以上ないほど真剣だということもぼくには判った。ぼくは小声で、わかりました、と答えた。シトマが小さくガッツポーズをした。ミヤコシはぼくに握手を求め、ぼくはそれに応じた。

「誘っておいて言うのもなんですが、こんな計画に乗ってもらえるとは」

 ふと疑問に思い、ぼくは恐る恐る言ってみた。 

「あの、一ついいですか、ミヤコシさん」

「なんでしょう」

「『本屋』って皆さんこんなふうなんですか」

 ミヤコシとシトマは顔を見合わせた。シトマが答えた。

「まあロマンチストは多いだろうな。ミヤ君は頭がおかしいけど」

「シトマさんのほうがおかしい」

「つまり皆さんおかしいんですね」

「きみもその仲間入りをするってことなんだぜ、サトー君」

 シトマは心底おかしそうに体を曲げてくつくつ笑っている。ぼくは未来への不安を感じ、それ以上に好奇心と興奮が身体にめぐるのを感じた。

 たぶんぼくは進んでいける。うまく行こうが行くまいが。ぼくはシェルターの最奥で見た彼女の微笑みを思い出した。


〈終〉

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