80デニールから始まる夏

アン・マルベルージュ

謎の少女と黒タイツバカ

 7月初旬。その日、須藤空也(すどうくうや)は神谷唯(かみやゆい)から5度目の告白を受けた。

「くーくん、わたしと付き合って」

 空也は唯のチャームポイントである丸い目に見つめられ、視線を外した。

 高2の今まで一緒に育ってきた空也がよく知る唯は、いつも緩い笑みを浮かべ、緩い口調でしゃべる。

 しかし告白という一大イベント中ということもあり、どちらも鳴りを潜めていた。

「すまん」

 空也は間を置いて、唯の方を見ないまま答えた。

 声量は1.5メートル前方にいる唯には十分聞こえる声だったが、人通りもなく静かな体育館裏では一際大きく聞こえる。

 答えは最初から決まっていた。即答しなかったのはさすがに気が引けたからだ。

「そっかー」

 唯は最初から答えが分かっていたかのように、寂しげに笑う。

「ああ、悪――」

「じゃあわたし部活行くね」

「え?」

「じゃあねー」

 唯は笑顔で空也に向かって手を振り、部室棟側へ向かって走り始めた。唯は陸上部所属だ。

「おい、待て」

 空也は唯に向かって右手を伸ばすが、唯は振り向く気配がない。肩にかからない程度の唯の髪の毛が揺れているのが遠目から見える。

「……帰るか」

 空也は自転車小屋に向かい自分の自転車を引っ張り出し、学校を後にした。

 国道沿いの道を走りながら、唯のことを考える。

 5度も告白を断ってしまったことへの罪悪感。6回目の告白があるのか。諦めることなく告白してくる幼なじみは何を考えているのか。

 考え事をしている間も、横を間断なく車が追い抜いていく。

 空也の住む町は田舎だ。視線を遠くへ向けると天狗でも住んでいそうな大きな山々が連なり、大通りに出ればかろうじてスーパーやコンビニはあるが、娯楽関係の店はろくにない。そしてその大通りも夜になれば真っ暗になってしまう。

 ひときわ大きなトラックが空也の横を通り抜け、走行風が空也を襲った。

「ぶわっ」

 音と風に圧倒されてよろけてしまい、危うく転倒しそうになってしまった。

 小さくなっていくトラックをにらみつけ、再び走り始めようとしたところで道脇から伸びる下り坂が目に入った。

 国道には並走するように川が流れており、河川敷でいう天端の上に国道が敷設されている。

 気分転換がしたかった。空也は高水敷へと続く坂道を下ると、川のすぐ横を走り始める。

 道は悪いが、横を走る車もなく、人もいないので快適……というわけにはいかなかった。

 季節は7月初旬。日光が空也の全身を焼いていく。制服のシャツは背中に張り付き、目にかかる前髪が鬱陶しい。左手で横へ払う。

 空は青く、地面に広がる芝生も青々としていて、目が痛くなるほどの彩度の高い光景が目の前に広がっていた。

 早く家に帰ろう。空也が自転車のギアを上げ加速しようとしたところで、10代半ばと思われる少女が川岸に立っていることに気がついた。

 風に揺れる長い黒髪は背中の真ん中あたりまで伸びており、見るからに手入れが行き届いていそうで、薄手のブラウスに膝半分ほどのミニスカートという服装だ。

 空也は彼女を一瞥し、そのまま通り過ぎようとしたものの、無意識のうちブレーキをかけていた。

 自転車から降り、3メートルほど離れたところで彼女の横顔へ視線を送る。地元の人間ではないと直感的に思った。

 空也の視線は徐々に下がり、彼女の足へと向けられた。真夏であるにも関わらず、彼女は黒タイツを履いている。透け感の少なさから、おそらく80デニールだろうと空也は判断した。

 デニールとは、繊維の太さを表す単位のことだ。この数値が多いほど肌の色が出づらくなる。

 80デニールとなるとすねは素肌が透けなくなり、かろうじて膝や太ももが透ける程度だ。

 タイツは基本的に防寒具であり、大多数の人ならば「なぜ夏に黒タイツを履いているのだろう」と思うことだろう。

 だが、空也は疑問を抱くこともなく、日光にも負けない熱い(暑い)視線を彼女の足へと向かって注いでいた。

「こんにちは」

「……え? こ、こんにちは」

 当然ずっとそんなことをしていれば、相手に気づかれるに決まっている。少女の川へ向けられていた視線は、いつの間にか空也へと向けられていた。

「今日も暑いですね」

 少女は笑みを浮かべながら空也に近づいてくる。横顔だけでも思ったが、美少女だ。肌は白く、色が青いわけでもないのに、彼女の目に対して、まるで真夏の青空を封じ込めたかのような印象を抱いた。視線が無意識のうちに吸い込まれてしまう。

「はい、まあ……むっ!?」

 彼女の笑みを直視できず視線を落とし、そしてスカートから覗く足を見て確信した。間違いない、やはり80デニールのようだ。

 一般的な価値観的にはやや太めの太ももではあるが、黒という収縮色に包まれることで肉感を維持しつつも、実際よりも細い印象を与えてくれている。

「さっきから車は通り過ぎていきますけど、歩いている人全然いないですね」

 少女は国道を走っている車に視線を向けながら言う。初対面にしては妙に友好的だ。

「ま、まあ、この辺はこんなもんですよ」

 返事をしながら空也の視線は彼女の足の輪郭をなぞる。

 黒タイツのおかげで女性特有のゆるいS字を描く曲線が強調されるが、黒というフォーマル色のおかげで上品でありつつも艶めかしいという、相反する2つの属性を併せ持つ矛盾した存在が生まれていた。足の太さといい、輪郭といい、デニール数といい、空也の基準では限りなく100点に近い。

「そうなんですね。せっかくこんな癒される眺めなのにもったいないなぁ」

 彼女は川下側へ体を向け、ひかがみ(ひざの裏側)やふくらはぎが空也の視界に入る。たまらず空也は生唾を飲み込んでいた。非の付け所がまるでない。

「……写真を撮りたい」

「そうですよね。天気もいいで……え?」

 振り向いた彼女は困惑した表情を浮かべた。それもそのはず、空也の視線は彼女の足に注がれていたからだ。

「そうだ写真だ!」

「きゃっ」

 突如大声を上げた空也に彼女は距離を取るが、空也は構うことなく視界に入る少女の足の輪郭をなぞりながら語り始めた。

「なんて素晴らしい肉付きなんだ。見るからに柔らかそうで、まさに黒タイツを履くために生まれてきたような足……なだらかなその輪郭を眺めているだけで気が遠くなってしまいそうで、全体的なバランスは文句なしの100点。当然輪郭の美しさも100点。こんないい足をしているのに写真を撮らないなんてありえな……あ」

 我に返った空也の視界に映っていたのは、困惑した表情を浮かべた少女だった。

「えっと」

 やってしまった。

「すいません!」

 空也は自転車にまたがり、全力で漕ぎ始めた。後ろから「ちょっと待って」という声が聞こえてくるが、待てるはずがない。ひたすら自宅まで自転車を漕ぎ続けた。


 空也が自宅の引き戸を開け玄関に入ると、見覚えのない靴があることに気づいた。デザイン的には若い女性が履いていそうだが、須藤家にはそんな人間はいない。空也は一人っ子なのだ。

 玄関を上がってすぐの所にあるリビングから、ドア越しに女性同士の会話が聞こえてくる。

「それにしても、東京に行って本当にきれいになったわね」

「あはは。そんなことないですよ」

 1人は間違いなく母親だ。だがもう1人は……。

 嫌な予感がした。しかし全力で飛ばしてきたおかげで汗だくだ。1秒でも早く何か飲みたい。

 静かにドアを開け、リビングに足を踏み入れる。母親と若い女性がテーブルの前に向かい合って座っていた。

「あら空也おかえり。ほら、真実さんよ。キレイになったでしょ」

 母親が上半身をひねり、空也を見る。

「あ……」

 空也は母親の向かいに座っている女性を見た瞬間、凍りついた。

「空也くん、久しぶりだね」と空也に微笑を向けた女性の名は、石原真実(いしはらまみ)。かつて須藤家の隣の家に住んでいた、おっとりとした印象を感じさせる7つ年上の女性だ。

 彼女が上京する5年前には髪を下ろしていたが、今はいわゆるフィッシュボーンと呼ばれる髪型にしていた。

「っ」

 空也はリビングを飛び出すと、自室がある2階へ向かって駆け出した。

「空也!」

「まあまあ、きっと久しぶりに顔を見せたから照れてるんですよ」

 下から何やら呼び止める声が聞こえてきたものの、無視して自室へ飛び込む。

「ハアッ……ハアッ……」

 吸って吐いてを繰り返し、荒い呼吸が落ち着いて来ると、

「帰って……きた」

 思わず独り言が口から漏れる。

 ふと、視界の端に何か白いものが入った。それは白い布が被せられており、高さは空也の腰の高さより少し低い。空也は『それ』に歩み寄り、布をめくる。

 現れたのは若い女性の体型を模した、直立姿勢を取っている下半身だけのマネキンだった。チェック柄プリーツミニスカートと、80デニールの黒タイツを身に着けている。

 マネキンの前で膝立ちになると、太ももに相当する部分を両手でさすり始めた。当然伝わってくる感触は冷たく固い。

 しかし伝わってくる網目の感触のおかげで、何度も擦っているうちに心が落ち着いてきた。

 今までなら満足とまではいかないまでも、十分だった。だが、今は明らかに物足りない。

「一度写真を撮ったり触ったりしたいな……」

 川の前で出会った少女のことを思いながら、空也は1人つぶやいた。

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