勝山探偵事務所

新 星緒

久しぶりの依頼人

「かっちゃん、今日は客が来るんじゃねえの?」

 スマホから目を上げると、ボロいソファに寝転がっている田嶋がカレンダーを指差している。確かに今日の日付のとこに《依頼人 14時》と書いてある。


「やべえ、あと15分じゃん」

 俺は慌ててスマホゲームを終了して椅子から立ち上がると田嶋をソファから蹴落として、その下敷きにされていたタオルケットと枕を取った。丸めて段ボールに入れふたをしめる。

 それからテーブルの上の競馬新聞にエロ雑誌、吸殻の詰まった発泡酒の缶、カップ麺の空き容器を片付ける。といってもパーティションで仕切られただけのキッチンに適当に置くだけ。依頼人から見えなければいいのだ。

 次はホウキ。入り口からソファ周りを掃く。チリトリは壊れてるから、ゴミは山積みの段ボールの隙間に押しやって隠す。


「田嶋、出てけよ」

 ソファにでんと座っているヤツの足を蹴る。

「やだね。行くとこねえもん」

 田嶋は飲み友達で競馬仲間。ちょっと前まで家族がいたけど、あまりのろくでなしっぷりに家を追い出されて、絶賛家なき子生活中だ。でもって俺の事務所に転がりこんできた。

 八月も半ば、まだまだ猛暑続きの毎日だ。路上生活なんてさせたら遅かれ早かれ熱中症でお陀仏だろうから、優しい俺はただで居候させてやっている。


 とはいえ俺のほうも余裕があるわけじゃない。事務所というと立派に仕事をしていそうだが、家賃を一ヶ月滞納しているし、俺の家も兼ねている。要するに田嶋も俺も、うだつの上がらないおっさんなのだ。そもそもこの仕事も事務所も俺を哀れんだ先代から引き継いだもので、そうでなければ俺も田嶋と同じく家なき子生活をしていただろう。


 田嶋は億劫そうに立ち上がると、デスクの椅子に座り直した。

「かっちゃん、鏡を見たほうがいい。寝癖」

 言われた通りに壁に掛かったそれを覗く。確かに髪はヤバイしヒゲも中途半端に延びている。髪に水をつけて撫で、ヒゲをそる。よく見りゃワイシャツもしわくちゃだ。壁に打った杭に掛かっている一張羅のジャケットを取り、羽織る。


 あとは、と部屋を見回したとき、入り口のすりガラス越しに人の姿が見えた。

 とんとんと控えめなノック。

 一ヶ月ぶりの依頼人だ。んんっと喉の調子を整えてからよそ行きの声で

「どうぞ」と叫んだ。

 塗装のはげた扉から入ってきたのは、清楚な美人だった。今時珍しいロングの黒髪に控えめな化粧。ノースリーブの白いブラウス、くすんだ青いフレアスカート。丈は膝下。ヒールだけが鮮やかな黄色で目を引く。


 おんぼろ事務所に掃き溜めに鶴を体現したような依頼人。こりゃ映画みたいだと頭の隅で考えながら、愛想笑いを浮かべる。


「お電話したイオリです」

「お待ちしておりました。勝山探偵事務所所長の勝山です。どうぞお掛け下さい。田嶋くん、お茶」

「はいっとな」と田嶋が素早く立ち上がる。

 イオリと名乗った美女はソファを向いた。ぼろぼろでへたれているソファを。しまった、こんな綺麗系の女は座りたくないかもしれない。というかこの事務所を見て帰りたくなっているかもしれない。


 だが彼女は躊躇うことなく優雅に腰かけた。ほっとして向かいに座る。

「それで、どういったご依頼でしょう」

 うちは探偵事務所。依頼の半分は浮気調査だ。そして残り半分は猫探し・庭の草取り・買い出しの便利屋的業務が占める。そもそもうちはこのご時世に反して広告は一切打っていない。依頼人はみなご近所さんだ。ごく稀に彼らから噂を聞いてやって来る人もいる。

だからこのイオリという女性から電話で予約を受けたときも、かつての依頼人からの口コミだと思った。だがこうやって本人を見ると、そうではない気がする。ここの依頼人にはいないタイプだ。


「人を探して欲しいのです」

 涼やかな声で女が告げる。

「人探しですか」

 戸惑い、言葉を繰り返す。どこまでも映画的展開だ。夜逃げ寸前の流行っていない探偵事務所に舞い込む、分不相応の依頼なんて。


 そこに盆を手にした田嶋がやって来てグラスをテーブルに置いた。中身が白い。そういやうちに茶なんてない。というか酒以外は水道水だけだ。なんだこれは。

「ポカリですけど、飲めますかね。うちは夏はこれなんです」と田嶋。

 そうだ、冷蔵庫にもらいものが一本入っていた。二日酔いにいいと聞いてとっておいたヤツだ。だがこんな清楚系は茶とかなんとかウォーターしか飲まなさそうだ。

「はい、ちょうど汗をかいていたので。いただきます」

 イオリはそう言って、ポカリを口に運んだ。ゴクリと喉を鳴らしてのむ。見た目とのギャップ。一見不釣り合いの黄色いヒールは伊達じゃないのかもしれない。


「ええと、イオリ様。うちにいらっしゃったごきっかけは。紹介で?」

 いいえとイオリ。

「ご近所様?」

 またしても答えは否。

「通りすがりに見つけた、とか?」

「これは必要なことでしょうか」

「必要、ではありませんが」

 イオリは真っ直ぐに俺を見ている。視線が強い。よくよく顔を見れば、思ったほど若くないようだ。俺の少し下、三十に入ったばかりくらいだろうか。

「ええとですね、ご覧の通りうちは流行っていない探偵事務所です。仕事は浮気調査が主。人探しをするなら、きちんとした大手のほうがいい。うちより費用は高いですが、その方を見つけられる可能性もずっと高い」


 田嶋がやれやれというふうに頭を振って、デスクに戻る。


「探してほしいのは、子供のころの友人です」

 イオリは俺の言葉をまるっと無視して話し始めた。なんなんだ一体。

「ひと夏の短い間だけの友人。見つけたい理由は、探してみたいから、それだけです。これはノスタルジーなんです」

 もしやイオリは少し変わっているのではないだろうか。

「ノスタルジーに必要なのは、ロマンです」

「ロマン」

「そう、ロマンです。先ほどの質問、失礼かと思い答をはぐらかしましたけど、正直に答えますね。外観が気に入ったからです。年代物のおしゃれだけどおんぼろなビルの二階に入っている、明らかに冴えない探偵事務所。外からでも積み上げた段ボールや紙束が見えて、中は乱雑なのだろうと予測がつきます。こんな《いかにも》な探偵事務所は映画やドラマの中にしかないと思っていました。見つけたとたんに胸の奥がうずいたのです。しかも近隣の方に訊いたら、所長は冴えない中年男性だというではないですか!」

 身を乗り出しての力説。

「前々から彼を探したいとは漠然と思っていたんです。でもきっかけがなかった。それが目の前に私好みの、素晴らしい探偵事務所が現れたのです。これはもう、こちらに頼めとの天啓を得たのだとしか思えません!」

「……なるほど」

「見つからなかったら、彼とは縁がなかったということだと思います。ですから私はこちらに依頼するか、どこにも依頼しないかの二択しかないのです」

「……分かりました。イオリ様の琴線に触れる事務所であったなら、幸いです。改めてご依頼内容を伺ってもよろしいでしょうか」


 イオリは満足そうな笑みを浮かべる。これは完全に見た目詐欺だ。いや、清楚ではあるのかもしれない。ただ清楚と変人が両立するものなのかは俺は知らない。


「今は都内在住ですが小学校三年生までは地方に住んでいました」

 イオリはそう言って北関東のど田舎の町の名を上げた。普通は知らないような町だ。

──俺は偶然にも知っているが。鼓動が早くなる。


「家の近くに御屋敷と呼ばれる豪邸がありました。昔の地主だか庄屋だかで古風な日本家屋です。噂では私と年が近い子供がいるとのことでしたが、同じ小学校には通っていませんでした。きっと私立に行っていたのですね」

 イオリは遠い目をする。

 視線を下げた俺は自分の醜い左手が目に入り、そっと右手を重ねて隠した。子供のころの怪我が原因で、甲の皮膚がつれているのだ。


「小三の夏休みのことです。友達と御屋敷に忍び込み、子供を探すことにしました。豪邸ではありましたけど、古いからかホームセキュリティの類いはなくて、板塀の下の隙間から子供なら出入りができたのです」


「見かけによらず、やんちゃですねえ」と田嶋がデスクから言う。

「田舎の子供なんてそんなものです。といっても女子は私だけでしたけど」

 そうして数人で忍び込んだものの、犬に吠えられてみな散り散りになって逃走。イオリはひとりで迷子になり困っていたところで、噂の子供に出くわしたそうだ。


「田舎には珍しい、色白で線の細い美少年でした」とイオリ。「王子様という言葉がぴったりくるような。だけど彼は、そういった上流の生活に息苦しさを感じていたようなのです」


 思わぬ出会いから意気投合したふたりは、それから毎日遊んだ。王子は板塀をくぐり家を抜け出しイオリとふたり、小三男子がやりそうな虫取りやザリガニ釣り、サッカーに駄菓子屋での買い食いにふけったという。

 そうしてそろそろ夏休みが終わるという頃に事件が起きた。


 小さな川岸の土手を走っていたイオリはバランスを崩して滑り落ちそうになった。小さいといっても幅が数メートルはあり、土手から川まではコンクリで覆われた斜面だった。落ちたならば、確実にケガをする。

 それを王子がとっさに助けた。そしてその反動で彼が斜面を転げ落ち川に突っ込んだ。幸い命を失うようなことにはならなかったけれど、王子は大怪我をし救急車やパトカーが来る騒ぎとなってしまったのだった。


「彼は二ヶ所も骨折をしたらしく、御屋敷の子供にケガをさせてさしまったせいで、私たち家族はそこに住み続けることが出来なくなりました。夜逃げ同然に引っ越しをしたのです」


「ひどいな」と田嶋。

「あちらからしたら憤懣やる方ない思いだったのでしょう。彼は子供の目から見ても、非常に大切に育てられていました。

 とにかくそんな経緯で、事故のあと私は彼に会えないまま引っ越しました。助けてもらったお礼も言えていません」

「なるほど。再会して、それを伝えたいのですね」

 俺の言葉にイオリは頷く。

「それから約束を違えたことを謝りたくて。夏休み最終日が彼の誕生日で、ふたりで盛大に祝うはずだったんです」

「今見つかったら、誕生日に間に合いますねえ」と田嶋。

「ええ。そうなると嬉しいです」

「あれ。というかその田舎に行けばいいのでは?」田嶋が尋ねる。

「それが私が越した何年かあとにご当主がお亡くなりになって、相続がかなり揉めたらしいのです。それが原因で御屋敷を取り壊して土地を売りに出し、彼もどこかに引っ越したようです。何年か前に当時の友人から聞きました。地元の人たちも彼の行方を知らないそうです。

 分かっているのは彼の名前と住んでいた場所だけ。写真もありません。引き受けて下さいますか」

「うち以外に選択肢がないと仰る以上、お断りはできませんね」


 ということで俺は初めて、人探しの依頼を受けることにした。デスクから依頼書を取りイオリに渡す。依頼人の名前や連絡先、依頼内容を書き込むものだ。彼女は白魚のような手で安ボールペンを握り、空欄をうめていく。

 依頼人名は《伊織雪乃》。かなり珍しい名字だ。


 彼女は書き終えるとそれを俺に差し出した。代わりに俺は走り書きしたメモを渡す。

「すみませんが名刺を切らしてまして。こちらが私の連絡先になります」

 名字と携帯番号、アドレスしか書いていないが、これで用は足りるはずだ。伊織はそれを受け取ると着手金を払い、帰って行った。


「なあ、かっちゃんよ」

 デスクの回転椅子を左右にふりふりしながら田嶋が言う。

「俺にはここに名刺の山があるように見える」

「黙っててくれてありがとよ。お前のそういうとこ好きだよ」

「そりゃどうも」


 依頼書には王子の名前がしっかり書かれている。《瀬ケ崎龍之介》。おまけで《誕生日は八月三十一日で、今年34歳になるはず》ともある。

 俺は冷蔵庫に向かうと発泡酒をふたつ取り出した。ひとつを田嶋の前に置く。ヤツは俺の名刺を一枚手にして表、裏と見ていた。それには《勝山探偵事務所 所長 勝山龍之介》と、フルネームで書いてある。名刺だから当然だ。


 発泡酒を開け一気に喉をうるおす。


 勝山は母の姓だ。それになる前の俺の名字は瀬ケ崎だった。

 全く。おかしな縁もあるもんだ。

 電話で《イオリ》と聞いたとき、すぐに子供のころのひと夏の友を思い出した。家に忍びこんできた、やんちゃな面白いヤツ。《ユキ》と呼んでいたけど、名字がイオリであることは記憶に残っていた。


 その頃の俺は、学校のヤツらとは馬が合わず馴染めていなかった。それに比べてユキの楽しいことといったら。

 ユキに教わるまで、板塀の下をくぐり抜けるなんて考えは俺の中になかった。家人に黙って出てくとか木は登るもんだとか、ザリガニ釣りとかも。

 ユキは俺の世界を一変させた。あのひと夏は俺の一番良い思い出なのだ。


 だから《イオリ》と聞いてすぐにその記憶がよみがえった。珍しい名字だ。とはいえ彼女ただひとりってことでもないはず。広い日本で偶然に会うなんてことは起こらない。

 そう考えたのに、まさか本人にだったとは。しかも昔とはあまりに違う外見に、話を聞くまで彼女だとは分からなかった。


 初めてユキに会ったとき、男だと俺は思った。だって恐竜柄のTシャツに青いハーフパンツを着ていたのだ。いつでもそんな感じの服装だったし、一人称は《ユキ》だったからてっきりユキヒコとかユキヤという名前だと思っていた。だからユキが女子だと知ったときは大きな衝撃だった。そして衝撃は初恋にと変わった。


 骨折はかなり酷く手術が必要で親や祖父母に死ぬほど叱られたけど、俺はユキを守れたことに満足していた。彼女ならきっと毎日のように見舞いに来てくれる、楽しい時間はまだまだ続く──アホな俺はそう考えていたのだ。

 だが彼女は一度も現れず、俺のせいで町にいられなくなったと知ったのは退院してからのことだった──。


 飲み干して空になった缶をゴミ箱めがけて放る。フチに当たって離れた所に飛んだ。

「ナイスファイトっ」

 茶化す田嶋の頭を小突いてソファに戻った。途中でちらりと見た鏡に映ったのは、どこからどう見ても冴えない中年男だ。

 ごろりと横になり天井を見る。


 ユキは俺を《王子》と表現した。多少は美化されているだろうが、当時の俺はそう呼ばれても違和感のない容姿だったのは事実だ。あれから四半世紀。今の俺にあの頃の面影は微塵もない。外見も、中身も。

 これがあの《王子》と知ったら彼女はがっかりすることだろう。そして俺は、あのユキにこんな俺を知られたくない。


 ◇◇


 ユキが初めて事務所を訪れてから一週間後。調査結果のメールを送ろうとしたら、直に会って聞きたいとの返事が来た。

 仕方なしに了承して、着手金で買った新しいシャツとスニーカー、それから麦茶で彼女を迎えた。ユキは今日も清楚な服に青っぽいビビッドな色のヒールを合わせていた。


 田嶋がよく冷えた麦茶を出したところで、報告書をテーブルに置いた。

「お探しの瀬ケ崎龍之介様ですが、お亡くなりになっているようです」

 そう先制攻撃を繰り出すと、俺は嘘八百を並べた。背中に田嶋の視線をめちゃくちゃに感じる。この一週間、俺が何も調査をしていないのを知っているからだ。


「──という訳で残念ですが。今回の調査は電話とメールだけで済みましたので、お支払いは着手金のみで結構です」

 俺が喋り終えると彼女は傍らのバッグから書類サイズの封筒を取り出した。

 表に《深山探偵事務所》の文字が入っている。深山といえばうちとは月とスッポンの、大手だ。彼女はその中から書類を取り出し、俺の前に置いた。


 《報告書》とある。その下の瀬ケ崎龍之介の名前と、今の俺の写真──。


「そこの段ボール」とユキが入り口近くのそれを示す。「宅配便の伝票が張りっぱなし。気づかなかった?」ユキが素晴らしい笑みを浮かべる。「はっきり書いてあるよ、《勝山龍之介》って」

 段ボール!

 常にそこにあるから、これっぽっちも頭になかった。まさか俺の名前がついていたとは。

「この前来たときに入ってすぐ、それに気がついたの。所長が彼と同じ名前なんて、この探偵事務所を見つけたのは運命なんだと思った。だから名刺をもらったら、そう言おうと思っていたの。でも名刺はもらえなかったし、依頼書にフルネームを書いても触れられなかった」


 そう言ったユキはバッグから今度は紙片を取り出した。俺が書いた連絡先だ。「このアドレスの《0902》って誕生日っぽいよね。気になってここを出てすぐに調べたの。そうしたら私が小三の年は九月二日が日曜だった。となると夏休みはその日までだったはず。彼の誕生日は八月末日ではなかったんだね。

 名字は違っても名前と誕生日が一緒。見たところ年も三十代で一致する。しかも左手につれたような傷跡。彼はコンクリートで擦ったせいでどちらかの手の皮膚がずる剥けになっていた」


 ユキが俺を見て、

「リュウ」と口にした。

 久しぶりに聞くその言葉に、胸の奥で何かが弾ける。

 俺は彼女をユキと呼び、彼女は俺をリュウと呼んだ。

 なぜだか泣きそうだ。

 あのひと夏は、俺の宝物だった。


「絶対にあなたがリュウだと思った」とユキが言う。「でもそれならどうしてそう言ってくれないのだろう。私のせいで大怪我をして恨んでいる?」

「違うっ!」

「それとも勘違いで別人なのか。私には分からなかったから、その足で別の探偵事務所に行ったの。そうしたらやっぱりあなたはリュウだった」


 ユキの真っ直ぐの目が俺には痛い。


「恨んでいるのではないのなら、なぜ?」

「そんなの。失望させたくないし、されたくもないからだよ」

「失望」とユキが繰り返す。「王子が冴えない中年になっているから?」

「分かっているじゃん」

「確かに王子なんて言葉を使ったのは私だけど。私がそんなものに興味があると思う?」

「んんっ?」

「三十路半ばで王子様キャラなんて、私は絶対ごめんこうむりたい」


「だってこの事務所のひどい見た目を気に入ったから来たんだもんなあ」

 背後から田嶋の声がした。すっかり存在を忘れていた。

「あと何だっけ。所長のよれよれっぷりだっけ」

「そんなとこです」と田嶋に答えるユキ。それから再び俺を見た。「むしろこんな私好みの探偵事務所をリュウが構えているなんて、奇跡レベルで素晴らしい!」

 ユキの目がキラキラと輝いている。


「リュウが名乗らなかった理由はそれだけかな」

「ああ、まあ」

「じゃあ、まずはあの時助けてくれてありがとう」

「あ、うん」

「誕生日を祝う約束を破ってごめん。代わりに今年、盛大に祝おう。それから嘘の報告は良くないよね。この件に関して、私は慰謝料を要求する」


 慰謝料!

 家賃の滞納が二ヶ月分になりそうだっていうのに、慰謝料。でも悪いのは俺だ。


「分かった。すまなかった。分割払いにしてもらえるかな」

「だけどこの流行ってなさで慰謝料を払えるとは思えない」

 ぐっ。容赦ねえな、ユキ。

「ということで代替案。私を助手として雇うこと。お給料は歩合制でいいよ」

「ははっ、こりゃいいや」と田嶋が笑う。

「助手が必要になるような依頼は来ねえよ」

「構わない。私、ヒロインポジに収まりたいだけだから」

「ヒロインポジ?」って何だそりゃ。

「そう」とユキは力強く頷いた。「冴えない探偵事務所には可愛い助手がいるものでしょ。映画とか小説には。私が加われば《勝山探偵事務所》は完璧になる!」

「やっぱ変人だったか」

 思わずそう呟くとユキは最高の笑顔になった。

「絶対にこれは運命だよ。これからが楽しみでしょうがない」


「よっしゃ。歓迎会でもすっか」田嶋が立ち上がる。「俺は事務員の田嶋。よろしくな」

「よろしく」

「おい待て。お前を雇った覚えはねえぞ」

「まあまあ」と田嶋。

「まあまあ」とユキ。


 怒濤の展開すぎる。

 己の惨めさに鬱々としていた俺の一週間は何だったんだ。

 にわかに弾けた郷愁はどこへいった。力づくで押し流されちまったぞ。

 でもまあ。ユキの言う通り、確かにこの先は楽しくなりそうだ。

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